織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第三章 血路

十四

「お前の親父を、助けに行くのさ」
「頼んでいません」
「別にお前のために行くのではないよ。オレが助けたいと思うから、行くのさ」
「道三は、死にます」
「冷たい女だ」
「兄との兵力の差は歴然です。打って出るなら、勝ち目はないでしょう」
「オレと舅殿が結んで立ち向かえば、分からないぜ」
「いいえ。わかります。負けます」
 軽快に放たれた信長の言葉は、眼前の女傑に斬られてカンタンに落ちた。
「思えば、道三はそれだからこそ城を出たのかもしれませんね。もし、あなたと共に戦うことで活路を見出せると考えたなら、こんな愚かな決戦には及ばなかったことでしょう」
「嫌味らしい言い方だ。だが、それで舅殿に何が残るのか」
「最期はせめて武士らしく、潔く生涯を飾ろうと思ったのではないですか」
「お前の想像に過ぎないな」
「猪子高就は道三の使者としてきたのではなかった。そうでしたね」
 帰蝶はまるで信長を言い負かす準備でもしてきたかのように、次の根拠を叩きつける。
「道三はいよいよあなたに遣いを寄越すことはなかった。負け戦にあなたを巻き込むまいとしたのかもしれない。けれども、あなたはそれを踏みにじり、死地へと赴こうとしている。違いますか」
「今日はよく喋るな。何度も言わせるな。オレは、オレがそうしたいからそうするのだよ。負けやしないがね」
「無謀です」
「無謀かどうかも、オレが決めるのさ」
「子どもの理屈ですね」
「そうだ。オレはうつけの織田信長だぜ」
 信長は帰蝶の言葉を逆手にとって居直った。
 この分からず屋をねじ伏せるために帰蝶は手段を選ばなかった。柳眉を逆立てながら禁句に堂々と触れる。
「そうして、また兵を、お仲間を無惨に殺すのですね」
 横山の戦い、村木砦の戦い、そして、此度の三河出兵でも信長は兵を失った。仲間の死。その事実だけが織田信長という男の急所だと帰蝶は知り尽くしていた。
 わずかな沈黙のなかに、信長は死んだ仲間の顔を思い描いた。何度思い描いても、飽きることはなかった。
 しかし、もう、ただそれだけだった。
「そうだ」
 信長は怯まない。
「オレは、オレの兵をときに殺すだろう。勝つために、生かすために、殺すよ。今日も、これからも」
 いかに勝利のためとはいえ、自軍の兵を殺すなどと配下の面前で堂々と言い切る大将に従う兵など、そうは居やしないだろう。帰蝶は彼らの顔を睨めまわしてやった。その表情のなかに、不服の色の一つでも見つけてやろうと考えた。
 けれども、不思議なことに、端から端までそんな兵隊は何処にも見つけられなかった。もっと言えば、誰も彼もが、まるで信長自身であるかのように動じていない。
 軍勢の中から男が一人分け入って踏み出た。
「濃姫さま、私たちは、これから美濃に起こる一大決戦に遊びに出かけるのですよ」
 恒興である。
「あなたも、道三殿も、この戦に勝ち目がないと思っている。ナルホド斎藤道三は戦の達人で、あなたはその娘だ。ひょっとしたら、訳も分からぬまま戦場を駆け回っている私なんかよりも、ずっと命のやり取りというのを知っているのかもしれない。だけれども、私は、この殿様の元でそいつをひっくり返してみたいのですよ。こんなに面白いことは、浮世には、他にないのです。それでこそ、帰ってきたときに、飯がすこぶるうまくなるというもの。だから、この人が行くと言ったら、私たちは行くのです。そう、決めています」
 恒興は、相変わらず帰蝶の顔を直視できないまま、恥ずかしそうに顔を赤らめ、もじもじしながら言った。今から戦場で敵を槍で刺し殺してくるような雰囲気など微塵もない。
「姫さま。私も、道三さまを、お父上を助けに兵を出すべきと考えます」
 間髪を入れず、次は森可成が声を上げた。
「ここで美濃を失っては、お言葉ですが、それこそオシマイです。
 我らは戦場においてはじめて命を賭すのではありません。飯を食うときも、眠るときも、いつ如何なる時も、常に命を賭しているのです。美濃へ赴き決戦に負けて死ぬことも、座して一命を永らえながら斎藤道三という味方を失い、やがて尾張を脅かされることも、詰まるところ、我々にとっては同じことなのです。あなただって、本当は気づいているはずです。なぜなら、それを最も知っていた男こそ、あなたのお父上・斎藤道三その人です」
 帰蝶は、人間の声がこれほど五月蠅いと感じたことは初めてだった。
 彼らが道三の名を口にする度、それに反論を試みようとする帰蝶の喉は、わずかに、徐々に、震えた。

「あなた方に、父が、分かるものですか」

 *

 父は、尋常の侍とどうやら違う。
 帰蝶がそれに気づいたのは、ほとんど物心がつくのと同じ頃だった。
 国というのは本来守護が治めるものらしいが、父はその守護と戦争し、あまつさえ追いまくり、権力の座についたらしい。
 道三の元には連日連夜、多くの者らが訪れた。帰蝶は、柱の陰などにその華奢なからだを隠れさせながら、時折、それをじっと見つめていた。ほとんどの者らがおべっかを使って道三に接しているのが、子どもながらによく分かったが、一方で、彼らは道三との対座が終わると、すぐさま悪態を吐いた。
「成り上がりが、エラそうに」
 彼らは帰蝶がそこに居ることを知ってか知らずか、いつも判を押したように道三を誹謗した。
「年端もいかぬ子どもに何かが分かるはずもない」、そう高を括っていたのかもしれないし、または、道三本人に表立ってその憎しみを伝えることが出来ない分、その呪詛を、娘である帰蝶にぶつけていたのかもしれなかった。

「帰蝶よ、お前は土岐頼純さまの元へ輿入れしてもらう。すぐに支度をしなさい」

 一度目の婚姻は突然のことだった。
 長年争ってきた美濃守護・土岐家との和睦の証としての輿入れということだったが、本当の目的は別にあった。
「頼純さまはだからね。また、いつ、尾張の織田信秀と結んでか知れないナ。何かあればすぐに知らせなさい」
 帰蝶の役目は頼純に対する密偵を兼ねていた。乱世では珍しいことではない。
 やがて道三の危惧した通り、頼純は織田と手を結んで再び道三への蜂起を企てたが、帰蝶はそれを知らせなかった。夫に対する同情もあったが、何より頼純の立てた計略があまりにも杜撰で、自分が働こうが働くまいが、必ず父の知るところになると分かり切っていたからだ。
 あくる日の晩、頼純の前に並べられた食膳の吸物の椀が、いつもと違うものに入れ替わっていることに帰蝶は気づく。その草色の美濃焼は、透き通ったつゆにわずか青みがかった色が差すのを紛らわしているかのようである。
――毒が入っているかもしれない、と、伝えたら、父はカンカンに怒るだろうか? ――
 帰蝶はわずか逡巡したが、結局は言わなかった。今ここで頼純を生かしてやったとしても、また、別の日に殺されてしまう。それだけのこと。案の定、頼純は盛られた毒にまったく気づかぬまま、死んでしまった。

 あからさまな暗殺に、道三への悪評は募る一方だった。
『土岐頼純さまが亡くなられたそうだ。何でも魚に当たったということだが、果たしてどこまで信じられる話だか』
『斎藤利政のやることだからな、十中八九、殺されたということだろう』
『帰蝶さまとの間にはお子がなかったそうだな。姫さまのお歳を考えればまあ無理もないことだが、』
『聞くところによると、帰蝶さまは傷心されていないらしいじゃないか。ひょっとすると下手人は、オオ、こわいこわい』

――勝手に言えばいい。それに、父にもほとほと愛想が尽きた。戦がいくら上手くとも、この人もいつの日かこうやって殺されるだろう。そういうことばかりをやっているのだから、誰にも好かれなくて無理がない。そして、わたしもその娘――

「帰蝶よ、織田と和睦することにしたから、今度は尾張へ行ってもらおうかね。相手は織田信秀の嫡男坊で、これを三郎信長というが、うつけで評判のお殿様だよ。お前も名前ぐらいは知っているだろう?」
「織田、信長――」
『品行方正な男に嫁ぐよりは、いくらかオモシロイだろうか?』
 そう思いかけたが、すぐに否定した。誰であっても、どうせすぐに死んでしまうのだから、妙な期待はしないことだ。乱世を生きるコツは他人に期待をしないことと、孤独を胸中に飼いならすこと。

「誰もが一人で生まれ落ち、一人で死ぬのだというに、必死で現世を生きるうち、何かに、誰かに縋りたくなるものだね。隣人が仏のように見えて、縋らずにはおれなくなる。そういう男たちを、私はごまんと殺してきたのだね。孤独を寂しがってはいけない。誰々が死に、誰々が己を裏切ろうとも、孤独だけはいつも私と手をつないでいてくれるものだ」
 道三はよく誇らしげにそう語った。

 織田へ嫁ぎ、ほどなくしてから、美濃で兄が父への謀叛を企てているという話を聞くようになった。
 かつて兄が一度だけ、父への恐れを口にしたことがあったのを帰蝶は覚えている。
「帰蝶。私は父上が怖いのだ。父上が居ない日は、自分でもわかるぐらい、からだの調子がよくってね、」
「父上とていずれ死ぬのです。その日が来るまでの辛抱でしょう」
「ウン。そうだがね、私はこんな病の身だからさ、その、私の方が先に死ぬかもしれんよ」
 謀叛はしばらく噂に過ぎなかった。噂が大々的に囁かれているようなうちは、滅多なことは起きないものだ。本当に事が起きるのは、しんと静まり返ったときである。だから、兄の病態が悪化したと耳にしたとき、帰蝶は兄妹の勘か、はたまた道三の血を引く策謀家の勘か、父の死を予期した。

 そうして事は起こった。
 美濃で道三に付いたものはほとんどいなかった。
――アア、可哀想な兄上。兄上は、病臥に在って孤独に耐えきれなかったのかしら。どれだけ生きながらえても、ひとは一人で生まれ落ち、一人で死ぬだけだというのに――



「斎藤道三は、美濃一国を己の力で国をの仕上がった戦争の達人で、オレの舅だ。助けに行くのにこれ以上の理由は要らない。そこをどけ」
 尾張国の、うつけで評判の、この男は帰蝶の生い立ちなど知る由もない。話したことなど尚更ない。だが、信長だけが道三を救うといって聞かないのである。
 ひとは一人で生まれ落ち、一人で死ぬ。その事実を胸に生きてきた帰蝶は、まるですべての離別を悲しまないためだけに、すべての希望を捨てたような、そんな乱世の象徴だった。
 祝言のその日から、道三の話をあれこれ聞きつけてきたこの男が、帰蝶のその動じない心をいかに揺さぶったのか?

 帰蝶は突如、恒興から脇差を取り上げ、それを信長に突きつけた。
「一人で生きてきた父は、今日、一人で死ぬのです。あなたも早く大人になることです。誰もが、仲間がいると思い込み、この乱世の思うツボとなって死んでいくのです。自分には成すべき理想がある、自分には守るべき家がある。くだらない! この血の腐ったような世界に倒れて、それでも良い、などと虚勢を張って死んでいくのです。あなたも、いま、そういった大馬鹿者になろうとしている」
「そうだ」
 信長はゆっくり帰蝶に近づくと、手首を蹴飛ばした。とりおとされた脇差がカランという音を立てて転がる。
「長く、お前が尾張へ来てからずっと考えていたことがある。どうして、オレはお前にいつも言い負かされるのか、歳下の女に、こうも首ねっこを掴まれるようなことが果たしてあるのか、と。
 お前は完璧に見えた。何を言っても、とても敵わない。お前の言葉を聞いていると、確かにそうだといつもオレは思ったものだ。
 けれども、そうではなかったのだといま気づいたよ。イヤ、そんなことは端からどうでもよかった」
 信長はかろうじて立っている帰蝶にずいと近づき、まっすぐに見下ろした。
「言葉というのは不思議だ、投げかけた相手の胸に飛び込み、そいつを操ってしまう。オレはお前に翻弄されたが、それは、実はオレがオレ自身の心に惑わされたに過ぎなかったのだ。それなら、逆のこともきっと言えるだろう。お前だって何一つ、ほんとうのことを語ってはいないのだ。
 何のことはない、オレがオレの心を知らなかったように、お前もお前の心を知らないのだよ。
 お前は、父を死なせたくないはずだ」
「何を馬鹿なッ、」
 帰蝶は拳を振り上げて信長に襲い掛かったが、信長はそれを簡単に組み伏せた。掴んだ腕がひどく細い。
「一人で生まれ落ち、一人で死ぬ。それがアンタの、斎藤道三の教訓か。それは真理なのかもしれないな。だが、オレたちにはそんな真理なんてものは、誰が見たっていつも同じカオをしているような教訓なんてものは、価値がないのさ。
 オレは、それをひっくり返すのだ。それだけが生きるということだ。お前の父・斎藤道三が世の人に嫌われる悪党なら、世に語り継がれる武士として、畳のうえに死なせてやるのがオレの生き方なのだ。せっかくの、乱世だ。
 いつだか言ったことがある。このオレの元へ来て、ろくな生活ができると思うな、と。オレは、オレたちは、いつまでも世間の逆を行くのだよ。そういう星の元に、生まれてきたのさ」
 見開かれた信長の両目に刺し抜かれ、帰蝶は全身の力が抜けていくのを感じた。倒れ込みそうになる。信長はその小さな肩を抱いたが、それは一瞬だった。帰蝶は震えを押し殺し、絞り出すように声を振るう。一番聞きたいことだけを、聞く。
「あなたは、ほんとうに父の味方なのですか?」
「そうだ」
「あなたは、――あなたはほんとうに、――父を、私を、助けてくれるのですか?」
 信長はニヤリと笑う。
「ようやくわかったのさ。お前を負かしてやる方法がね」
 そして、颯爽と清洲城を飛び出した。
「続けェ!」
 いつもは、それは利家の役目だったが、この時は長秀が似合わぬ大声を張り上げ、兵たちを鼓舞した。
 腰を抜かして地に足をつく帰蝶の前に、わずかばかり土が跳ねる。
 あっという間に信長軍はそこから消えてなくなった。辺りには春の底冷えした空気だけが張り詰めていた。
 帰蝶はわずか残る砂煙に信長の匂いを感じ取って、目を閉じる。

――勝て。勝て、織田信長。そうして、生きて帰ってきたそのときは、もうすこしだけ、妻らしい素振りをしてやってもいい――

 閉じた瞼から一筋の涙が落ちていくわずかな間だけ、幻のような想いが帰蝶の胸を駆け巡った。
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