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第三章 血路
二十九
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織田三郎五郎信広は織田信秀の長男である。側室の子だったから家督継承の順位は後から生まれた嫡男・信長に遅れをとる。
『だが、実力ではそうではない』
信広はずっとそう考えてきたことだろう。「うつけ」と評判のあの信長と、若くして対今川の最前線・安城城を任される自分とではおよそ比ぶべくもない。だからこそ、信秀が早くから跡目を信長に決めていてもちっとも頓着しなかった。
『誰が名目上の跡目かは問題ではない。武衛さまが清洲衆の傀儡であるように、信長とて、自分の器量だけでは家がまわらないことをいずれ知ることになるに決まっている。その時、この兄に頭を下げて泣きついて来たなら、かわいいものだ。実験と引き換えに力を貸してやろう。神輿は軽い方がことは上手く運ぶ』
ところが、そんな風に考えていた矢先のことだった。
今は亡き義元の腹心・太原雪斎によって安城城が陥落させられると、信広は囚われの身となった。手駒として身柄を預かっていた松平竹千代との人質交換により辛くも一命を取り留めたはいいが、帰還した那古屋で、信広は耳を疑う事実を聞く。自分の生死が危ぶまれていたまさにそのとき、あの信長が父に対し「竹千代を渡すぐらいなら、信広を見捨てるべきだ」と進言したというではないか。以降、信広は信長のことを単なる知恵の足りない弟ではなく、倒すべき憎き敵だと考えるようになった。
信秀の没後も、信広はろくな仕事を与えられなかった。家中の有能な家臣たちは、信長と信勝におおよそ二分されており、信広には回って来ない。だから大戦にも呼ばれない。大戦に呼ばれないなら、得意の槍働きで功を挙げる機会もない。あるとしたら、せいぜいが、信長が遠征するときの留守を任される程度である。極めつけは守山の一件だ。三番目の嫡子・秀孝を誤殺して出奔した叔父・信次の後継として信長が守山城主に据えたのは、信広ではなく、彼の同母弟・秀俊だった。
信広に近づかなかったのは、信長だけではない。信勝も同じである。謀叛の兵を挙げるときさえ、信広には声はかからなかった。『自分が信長と戦争する分には嫡子同士の跡目争いだが、庶兄・信広が絡むと、勝ってもその後が面倒かもしれない』と、考えたからだ。
弾正忠家は銘々の思惑に拠ってではあるものの、信広を、まるで居ない者のように扱った。
「尾張の者たちはうつけだね」
隠忍の時を送る信広の心に火をつけたのが、美濃国を父から奪い取った斎藤高政だった。
「いや、なに織田信長のことだけを言っているのではないよ。信勝も、そのほかの人間たちも、ってことサ。織田信秀の晩年を最もよく支えた男を、揃いも揃って放っておくのだからね。なに、安易に一枚噛ませると自分たちの地位が脅かされると怯えているのだろう。だから、誰もあなたを頼らない。だったらね、私が頼るよ。私も妾腹だけれども、いまはこうして美濃を治めている。乱世は実力で治めるものだよ。それは、美濃も尾張も違いはあるまい」
甘い言葉は、乾いた草木を生き返らせる雨のように、信広の心に沁みた。
――今までわたしは、自分が正室の子でないことにどこか引け目を感じていたのかもしれない。だが、私とて織田信秀の種から生まれたのだ。弾正忠を称するに値する将なのだ。信長にも、信勝にも、引けは取らない。誰の腹から生まれたか、それを天運と呼ぶと言うなら、実力で他を制するこの乱世に生まれ落ちたことも天運ではないか。どちらが正しいかは、結果が決めるものだ――
そう決意した。
「信長は戦争好きの男だ。美濃勢が出陣したと聞いたなら、すぐさま国境まで駆けて行きましょう。そうしたとき、私はいつも清洲の番を任されることになっています。城は佐脇という男が留守居になるが、これとは顔なじみだ。言葉巧みに近づいて奪い取ってしまうのは造作もないこと。事が成ったら狼煙をあげますから、それを合図にして貴殿は信長勢に攻めかかるとよろしい。私は信長の援軍に来た振りをして駆け付け、奴の背後を襲います。まあ、ひとたまりもないことでしょう」
綿密に打ち合わせ、高政と信広は計略を実行に移した。
――
美濃勢が高政に率いられて国境付近の川沿いまで出陣したという報が清洲にもたらされたとき、清洲城下は、「いよいよ大良での合戦の続きが本格的に行われるのか」とどよめいた。信長は早速に陣触れを命じつつも、美濃勢の兵がそれほど多くないらしいという第二報を聞くと、やや態度を変える。
「敵が少ないのなら、いいじゃないですか、楽でさ」
恒興が軽口を叩いて湯漬をかきこむが、信長の箸は止まっている。
「匂うね、どうも」
すでに敗勢が決まりかけていた道三を滅ぼすために一万余の大軍を遣わせたあの高政が、他国への遠征にあたってその半分ほども出陣させていない。加えて、川岸についてからは近辺の村を襲う素振りすらなく、ただ信長勢の到来を待つかのようにじっとして身じろぎしていないという。大良での撤退戦以後、高政という戦術家との小競り合いを、続けてきた信長にとって、この日の美濃勢の動きは際立って緩慢に映った。
「奴ら、さては何かを待っているな」
「馬鹿の一つ覚えみたいにまた岩倉衆でしょう。アレはいい加減、滅ぼさんと駄目ですよ、信長さま」
利家が頬骨の傷をさすりながら、ニヤニヤして言った。
「それはないでしょう。岩倉の目付は小折の生駒さまに頼んでありますからね」
長秀がぴしゃりと言ってのける。
稲生原の戦いの直後、信長は尾張の上群を根城とする岩倉衆(織田大和守家)に対して楔を打ち込んだ。岩倉城は清洲の北へ二里ほどのところにあるが、信長は、そのすぐ背後・小折を治める土豪・生駒成宗に接近し、成宗の娘をほとんど正室の待遇で清洲に迎え入れて強固な盟約を結んだのである。信長の正室は帰蝶ではあるが、すでに敵対する美濃斎藤家の娘を気に掛けるものは居なかった。むしろ、帰蝶を離縁しない信長の奇妙さを誰もが訝るほどだった。
「生駒の親父殿はずいぶん岩倉に入り込んで奴らを監視してくれている。その親父殿からの連絡がないなら岩倉じゃないな」
「じゃあ、何者ですかね」
「サアな。わかるのは、そいつは、オレの出陣に合わせて動くということだけだ。だったら、行ってやろう。ウジウジ考えるのは性に合わないね」
信長は颯爽と出陣し、神速で木曽川まで走り出た。美濃勢は三〇〇〇に満たなかった。信長勢はいつもの六〇〇足らず。寡兵だがこれで幾度となく敵を押し返してきたから、このぐらいの兵力差は物の数ではない。
――
さて、信長が出陣したと聞くや信広は陣容を整えて自らも城を出た。いつものように清洲へ差し掛かり、いよいよ城を乗っ取ると思うと手に汗を握った。しかし、この日に限っては町の様子がおかしい。
清洲の町はいつもの賑わいをすっかり消して、人っ子ひとりも居ない。大風が来る気配もないのに多くの家が木戸を閉じ、まるで既に戦の最中のようですらある。物々しい気配を感じつつも、信広たちは『美濃勢との戦が始まるのだから、そういうこともあるだろう』などと考えて城へとそろそろ進んだ。
「三郎五郎信広、殿の援兵として馳せ参じた次第。敵方、斎藤高政は侮りがたい男よ。これより軍容を整えて国境へ向かおうと思うが、佐脇殿はおられるだろうか」
馬上から得意満面、大声で叫んだ。
しかしながら、城からは何の返答もない。それどころか、門番も目のつくところには居ない。辺りはしんと静まり返って、自らの声だけがわずかこだました。
実は、信長は出陣の折、城番の佐脇に、ただ一つの単純な厳命を与えていた。
「佐脇、今日の戦は変な戦だ。おそらくは身内に美濃と手を組んだ裏切り者がいるのだが、それが誰かまでは分からん。いいか、オレが戻るまで何人も城に入れるな。それがキサマの親でもだ。そのことによって、後に誰かの怒りを買おうとも、必ずオレがキサマを守ってやる。城門を閉じ、町人に命じよ。「惣構を厳重にせよ」とな」
佐脇藤右衛門は、信長の援軍に清洲へ立ち寄る者たちへ快い接待を施す紳士な城番だと家中に知れ渡っていたが、一度、主君の命を受けたなら、目じりに皺を寄せて笑うその穏やかな笑顔に似つかない頑固な忠義心を発揮してみせた。仮にも相手は信長の兄なのだが、そんなことには一顧も与えなかった。
「オイ。佐脇殿、おらんのか? 門を開けよ。信広だ。殿の命により馳せ参じたのだぞ。信長さまの命令である。火急だッ。このままでは私の首がとんでしまうわ。誰でも良いが、このうえの非礼は弁解の余地がなくなるぞ。さっさと門を開けぬか。オイ、ほかに誰かおらぬのかッ」
虚言をいくらか織り交ぜながら尚も焦りにまかせて矢継ぎ早に叫ぶが、虚しく反響するだけで、何処からも返答はない。静寂は次第に信広たちの心を圧した。いまにも、何処からか鉄砲・弓矢の雨が降り注ぐのではないかというほどの緊張をもたらした。
いよいよその場に居づらくなった信広は、
「何かすれ違いがあったようだ、今日のところは引き揚げるぞ。さらば」
そういって元来た道を帰って行った。謀叛が露見している可能性に気が動転したのだろうか、自ら「信長の援軍に来た」と口走ったことなどすでに忘れている。城が開かないかといって援軍そのものに向かわないのでは辻褄が合わない。信広は自分が謀叛人だと佐脇に自白したようなものだった。
その頃、木曽川に布陣した高政軍は川を挟んで信長軍と対峙していた。先に動いた方が馬鹿を見ると互いに分かっているから、高政はじっと清洲城に合図の狼煙が上がるのを待っていたのだが、一向にその気配はない。日が傾き始めたときには全てを悟るに至った。
「ああ、こりゃ、信広殿は下手を打ったなあ」
即断即決、何事もなかったかのように撤退して行った。
美濃勢がすこしも侵攻する素振りを見せずに帰って行くのを見て信長は確信する。
清洲へと戻り、佐脇の報告を得た信長は、帰途につく信広に追いすがってその身柄を抑えてしまった。
捕えられた信広は、ただ、平に信長に謝罪するばかりだった。
――どちらが正しいかは、結果が決める――
謀叛を決意したとき胸中に打ち鳴らした言葉がそっくりそのまま返ってきた。
信長の配下の者たちは徹頭徹尾詰めが甘い信広の謀叛を嘲笑したが、一方で、信長はまったく別のことを考えた。信広には、本当はもう一つの選択肢があったということである。佐脇に謀叛の嫌疑をかけられるや、騙し討ちの方針は諦めて清洲城を力攻めにしてしまうという方法が、信広には実はあったのである。それに、狼煙さえハッタリで上げてしまえば美濃勢は攻め寄せる手筈なのだから、信長軍を国境沿いに足止めしておくこともできたのだ。ところが、信広はそうしなかった。 つまり、所詮は、高政の囁きの所為で見たに過ぎない悪い夢だったのだろう。
信長は信広を罰しなかった。
「オレが与える罰など知れているよ。兄上も恥ずかしい思いをしただろう。自らの心によってもう罰せられているうえは、オレが何かすることはないよ」
信広の謀叛がこうして未然に失敗したことは果たして幸か不幸か? それは、織田信広という武将が、二度と二心を抱くことなく、弾正忠家の連技衆筆頭として信長の天下布武に貢献した事実を踏まえれば、自ずとどちらであるか知れよう。
『だが、実力ではそうではない』
信広はずっとそう考えてきたことだろう。「うつけ」と評判のあの信長と、若くして対今川の最前線・安城城を任される自分とではおよそ比ぶべくもない。だからこそ、信秀が早くから跡目を信長に決めていてもちっとも頓着しなかった。
『誰が名目上の跡目かは問題ではない。武衛さまが清洲衆の傀儡であるように、信長とて、自分の器量だけでは家がまわらないことをいずれ知ることになるに決まっている。その時、この兄に頭を下げて泣きついて来たなら、かわいいものだ。実験と引き換えに力を貸してやろう。神輿は軽い方がことは上手く運ぶ』
ところが、そんな風に考えていた矢先のことだった。
今は亡き義元の腹心・太原雪斎によって安城城が陥落させられると、信広は囚われの身となった。手駒として身柄を預かっていた松平竹千代との人質交換により辛くも一命を取り留めたはいいが、帰還した那古屋で、信広は耳を疑う事実を聞く。自分の生死が危ぶまれていたまさにそのとき、あの信長が父に対し「竹千代を渡すぐらいなら、信広を見捨てるべきだ」と進言したというではないか。以降、信広は信長のことを単なる知恵の足りない弟ではなく、倒すべき憎き敵だと考えるようになった。
信秀の没後も、信広はろくな仕事を与えられなかった。家中の有能な家臣たちは、信長と信勝におおよそ二分されており、信広には回って来ない。だから大戦にも呼ばれない。大戦に呼ばれないなら、得意の槍働きで功を挙げる機会もない。あるとしたら、せいぜいが、信長が遠征するときの留守を任される程度である。極めつけは守山の一件だ。三番目の嫡子・秀孝を誤殺して出奔した叔父・信次の後継として信長が守山城主に据えたのは、信広ではなく、彼の同母弟・秀俊だった。
信広に近づかなかったのは、信長だけではない。信勝も同じである。謀叛の兵を挙げるときさえ、信広には声はかからなかった。『自分が信長と戦争する分には嫡子同士の跡目争いだが、庶兄・信広が絡むと、勝ってもその後が面倒かもしれない』と、考えたからだ。
弾正忠家は銘々の思惑に拠ってではあるものの、信広を、まるで居ない者のように扱った。
「尾張の者たちはうつけだね」
隠忍の時を送る信広の心に火をつけたのが、美濃国を父から奪い取った斎藤高政だった。
「いや、なに織田信長のことだけを言っているのではないよ。信勝も、そのほかの人間たちも、ってことサ。織田信秀の晩年を最もよく支えた男を、揃いも揃って放っておくのだからね。なに、安易に一枚噛ませると自分たちの地位が脅かされると怯えているのだろう。だから、誰もあなたを頼らない。だったらね、私が頼るよ。私も妾腹だけれども、いまはこうして美濃を治めている。乱世は実力で治めるものだよ。それは、美濃も尾張も違いはあるまい」
甘い言葉は、乾いた草木を生き返らせる雨のように、信広の心に沁みた。
――今までわたしは、自分が正室の子でないことにどこか引け目を感じていたのかもしれない。だが、私とて織田信秀の種から生まれたのだ。弾正忠を称するに値する将なのだ。信長にも、信勝にも、引けは取らない。誰の腹から生まれたか、それを天運と呼ぶと言うなら、実力で他を制するこの乱世に生まれ落ちたことも天運ではないか。どちらが正しいかは、結果が決めるものだ――
そう決意した。
「信長は戦争好きの男だ。美濃勢が出陣したと聞いたなら、すぐさま国境まで駆けて行きましょう。そうしたとき、私はいつも清洲の番を任されることになっています。城は佐脇という男が留守居になるが、これとは顔なじみだ。言葉巧みに近づいて奪い取ってしまうのは造作もないこと。事が成ったら狼煙をあげますから、それを合図にして貴殿は信長勢に攻めかかるとよろしい。私は信長の援軍に来た振りをして駆け付け、奴の背後を襲います。まあ、ひとたまりもないことでしょう」
綿密に打ち合わせ、高政と信広は計略を実行に移した。
――
美濃勢が高政に率いられて国境付近の川沿いまで出陣したという報が清洲にもたらされたとき、清洲城下は、「いよいよ大良での合戦の続きが本格的に行われるのか」とどよめいた。信長は早速に陣触れを命じつつも、美濃勢の兵がそれほど多くないらしいという第二報を聞くと、やや態度を変える。
「敵が少ないのなら、いいじゃないですか、楽でさ」
恒興が軽口を叩いて湯漬をかきこむが、信長の箸は止まっている。
「匂うね、どうも」
すでに敗勢が決まりかけていた道三を滅ぼすために一万余の大軍を遣わせたあの高政が、他国への遠征にあたってその半分ほども出陣させていない。加えて、川岸についてからは近辺の村を襲う素振りすらなく、ただ信長勢の到来を待つかのようにじっとして身じろぎしていないという。大良での撤退戦以後、高政という戦術家との小競り合いを、続けてきた信長にとって、この日の美濃勢の動きは際立って緩慢に映った。
「奴ら、さては何かを待っているな」
「馬鹿の一つ覚えみたいにまた岩倉衆でしょう。アレはいい加減、滅ぼさんと駄目ですよ、信長さま」
利家が頬骨の傷をさすりながら、ニヤニヤして言った。
「それはないでしょう。岩倉の目付は小折の生駒さまに頼んでありますからね」
長秀がぴしゃりと言ってのける。
稲生原の戦いの直後、信長は尾張の上群を根城とする岩倉衆(織田大和守家)に対して楔を打ち込んだ。岩倉城は清洲の北へ二里ほどのところにあるが、信長は、そのすぐ背後・小折を治める土豪・生駒成宗に接近し、成宗の娘をほとんど正室の待遇で清洲に迎え入れて強固な盟約を結んだのである。信長の正室は帰蝶ではあるが、すでに敵対する美濃斎藤家の娘を気に掛けるものは居なかった。むしろ、帰蝶を離縁しない信長の奇妙さを誰もが訝るほどだった。
「生駒の親父殿はずいぶん岩倉に入り込んで奴らを監視してくれている。その親父殿からの連絡がないなら岩倉じゃないな」
「じゃあ、何者ですかね」
「サアな。わかるのは、そいつは、オレの出陣に合わせて動くということだけだ。だったら、行ってやろう。ウジウジ考えるのは性に合わないね」
信長は颯爽と出陣し、神速で木曽川まで走り出た。美濃勢は三〇〇〇に満たなかった。信長勢はいつもの六〇〇足らず。寡兵だがこれで幾度となく敵を押し返してきたから、このぐらいの兵力差は物の数ではない。
――
さて、信長が出陣したと聞くや信広は陣容を整えて自らも城を出た。いつものように清洲へ差し掛かり、いよいよ城を乗っ取ると思うと手に汗を握った。しかし、この日に限っては町の様子がおかしい。
清洲の町はいつもの賑わいをすっかり消して、人っ子ひとりも居ない。大風が来る気配もないのに多くの家が木戸を閉じ、まるで既に戦の最中のようですらある。物々しい気配を感じつつも、信広たちは『美濃勢との戦が始まるのだから、そういうこともあるだろう』などと考えて城へとそろそろ進んだ。
「三郎五郎信広、殿の援兵として馳せ参じた次第。敵方、斎藤高政は侮りがたい男よ。これより軍容を整えて国境へ向かおうと思うが、佐脇殿はおられるだろうか」
馬上から得意満面、大声で叫んだ。
しかしながら、城からは何の返答もない。それどころか、門番も目のつくところには居ない。辺りはしんと静まり返って、自らの声だけがわずかこだました。
実は、信長は出陣の折、城番の佐脇に、ただ一つの単純な厳命を与えていた。
「佐脇、今日の戦は変な戦だ。おそらくは身内に美濃と手を組んだ裏切り者がいるのだが、それが誰かまでは分からん。いいか、オレが戻るまで何人も城に入れるな。それがキサマの親でもだ。そのことによって、後に誰かの怒りを買おうとも、必ずオレがキサマを守ってやる。城門を閉じ、町人に命じよ。「惣構を厳重にせよ」とな」
佐脇藤右衛門は、信長の援軍に清洲へ立ち寄る者たちへ快い接待を施す紳士な城番だと家中に知れ渡っていたが、一度、主君の命を受けたなら、目じりに皺を寄せて笑うその穏やかな笑顔に似つかない頑固な忠義心を発揮してみせた。仮にも相手は信長の兄なのだが、そんなことには一顧も与えなかった。
「オイ。佐脇殿、おらんのか? 門を開けよ。信広だ。殿の命により馳せ参じたのだぞ。信長さまの命令である。火急だッ。このままでは私の首がとんでしまうわ。誰でも良いが、このうえの非礼は弁解の余地がなくなるぞ。さっさと門を開けぬか。オイ、ほかに誰かおらぬのかッ」
虚言をいくらか織り交ぜながら尚も焦りにまかせて矢継ぎ早に叫ぶが、虚しく反響するだけで、何処からも返答はない。静寂は次第に信広たちの心を圧した。いまにも、何処からか鉄砲・弓矢の雨が降り注ぐのではないかというほどの緊張をもたらした。
いよいよその場に居づらくなった信広は、
「何かすれ違いがあったようだ、今日のところは引き揚げるぞ。さらば」
そういって元来た道を帰って行った。謀叛が露見している可能性に気が動転したのだろうか、自ら「信長の援軍に来た」と口走ったことなどすでに忘れている。城が開かないかといって援軍そのものに向かわないのでは辻褄が合わない。信広は自分が謀叛人だと佐脇に自白したようなものだった。
その頃、木曽川に布陣した高政軍は川を挟んで信長軍と対峙していた。先に動いた方が馬鹿を見ると互いに分かっているから、高政はじっと清洲城に合図の狼煙が上がるのを待っていたのだが、一向にその気配はない。日が傾き始めたときには全てを悟るに至った。
「ああ、こりゃ、信広殿は下手を打ったなあ」
即断即決、何事もなかったかのように撤退して行った。
美濃勢がすこしも侵攻する素振りを見せずに帰って行くのを見て信長は確信する。
清洲へと戻り、佐脇の報告を得た信長は、帰途につく信広に追いすがってその身柄を抑えてしまった。
捕えられた信広は、ただ、平に信長に謝罪するばかりだった。
――どちらが正しいかは、結果が決める――
謀叛を決意したとき胸中に打ち鳴らした言葉がそっくりそのまま返ってきた。
信長の配下の者たちは徹頭徹尾詰めが甘い信広の謀叛を嘲笑したが、一方で、信長はまったく別のことを考えた。信広には、本当はもう一つの選択肢があったということである。佐脇に謀叛の嫌疑をかけられるや、騙し討ちの方針は諦めて清洲城を力攻めにしてしまうという方法が、信広には実はあったのである。それに、狼煙さえハッタリで上げてしまえば美濃勢は攻め寄せる手筈なのだから、信長軍を国境沿いに足止めしておくこともできたのだ。ところが、信広はそうしなかった。 つまり、所詮は、高政の囁きの所為で見たに過ぎない悪い夢だったのだろう。
信長は信広を罰しなかった。
「オレが与える罰など知れているよ。兄上も恥ずかしい思いをしただろう。自らの心によってもう罰せられているうえは、オレが何かすることはないよ」
信広の謀叛がこうして未然に失敗したことは果たして幸か不幸か? それは、織田信広という武将が、二度と二心を抱くことなく、弾正忠家の連技衆筆頭として信長の天下布武に貢献した事実を踏まえれば、自ずとどちらであるか知れよう。
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