織田信長 -尾州払暁-

藪から犬

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第四章 蛟竜雲雨

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「はあ。ついに今川さまからお達しが来てしまったわ」
 男は木戸を開け放つと、朝日を照り返す自らの丸い頭をぱしぱしと数回叩いてから、傍らの女を抱き寄せた。
「どうしよう。どうしよかな。逃げよか?」
「そんなこと言っても、服部はっとりさま、わたしらを守ってくれるのでしょう?」
「ワシ、そんな男前と違うぜ。ワシはワシの家を守るだけじゃ。だで、姉ちゃんがワシの女房なったら守ったるよ。ホラ、近う、近う」
 部屋の内に吹き溜まった淫猥な空気を洗い流すかのように海風が通り抜ける。
 外には茫洋たる海、いや、川が広がっていた。ここは、尾張に横たわる長良川、木曽川、揖斐川の三つの大河が合流して海へ注ぐ河口である。尾張と伊勢のちょうど境目に位置する巨大なこの輪中を長島ながしまといった。
 水上を埋め尽くすほどの舟が引っ切り無しに長島へ吸い込まれていく。ガヤガヤと喧騒の激しいことは尾張一の城下町となった清洲に勝るとも劣らないが、ここに信長の支配は及んでいない。治めるのは、石山本願寺いしやまほんがんじより東海三ヶ国(伊勢・美濃・尾張)の門末の統治を任された願正寺がんしょうじの坊主たち、そして、彼らに追従する在地の土豪たちである。その筆頭がこの男、服部友貞ともさだだった。
「信長さまはコワイお方と聞いたわ。戦争はイヤよ」
「気が合うのう。ワシも同じ気分じゃわ。戦争なんて阿呆がするもんじゃがな」
 服部党と呼ばれる水軍の頭領である友貞は武士でありながら戦を嫌っていた。彼にとっては戦争行為に大した旨味が見いだせない。長島輪中の荷之上にのうえということろに生まれ、父祖の代からすでに願正寺の取巻きである。外に目を向ければ、尾張も、伊勢も、年がら年中戦をしていた。そうして戦火に絶望を見た者たちがやがて救いを求め、不入の権を認められたこの寺領に流れ込んでくる。同地は余所の国から人や物を強奪せずとも豊かな海の恩恵で経済がまわる。一体どうしてここを離れて外の世界へ殺し殺されに行く必要があるだろう。
「ここに居れば、安心なのよね?」
 長島は周囲を海と川に囲まれていた。天然の要害と本願寺の権威を前に、あえてこの地を攻め落とそうなどとは考える者はこれまで居なかった。何処へも攻め込めないが、何処にも攻められない。長島はそれで十二分だった。
 ところが、信長が尾張統一に手をかけると荷之上にも暗雲が立ち込める。
「どうだかな。あの信長ってのは何を考えているかよく分からねえ奴じゃ。いまに伊勢にまで手え出して来るかもわからんぜ」
 弘治三年(一五五七年)、信長は突如として伊勢国の土豪・ばん氏の娘を自らの側室に貰い受け、翌・永禄元年(一五五八年)夏には子どもを産ませた。後の織田信孝のぶたかである。坂氏はこれといって弾正忠家と縁のある家ではなかった。もし、信長がその女に惚れ抜いたなどというのでない限りは、西へと侵攻せんとする欲望の現れだとしか友貞には考えられなかった。暗黙のうちに結ばれていた長島への不可侵の了解は忽ち怪しむべきものへとなり果てたのである。
「もし、織田さまが攻めてきたら、やっつけてよう?」
「ウハハ。ワシら、舟漕ぎしか取り柄がないんじゃ。まともな戦なんてもう何十年もしとらん。せいぜい、お偉いさまにせっせとお手紙書いて助けてもらうだけじゃ」
 遠交近攻、敵の敵は何とやら、今川を頼る友貞の策略は定石だった。信長の妙な動きを煩わしくは思うものの、自分に正面から張り合うだけの力がないこともまた心得ていた。
「けども、太守さまに任せきりでも悪かろうて。戦争はやらん代わりに信長のヤツを少し小突いてくれる。武衛さまを清須に閉じ込めて好き勝手やっとる野良犬にその報いを受けさせるのよ」
 屈強な軍兵を恃まない武士が遂行できる敵への攻撃は限られている。友貞もその多分に漏れず口先三寸の小細工を弄するを思い至ったが、この男が他より優れているのは、あらゆる意味で自分の領分を熟知していた点にある。伊勢湾の海上交通を掌握していた友貞は信長に気取られることなく自らの配下を尾張の中枢へと侵入させ、調略活動に乗り出したのだ。標的に定めるは尾張守護・斯波義銀。信長に実権を奪われて今や傀儡となり果てた守護は権威を失った室町幕府の象徴である。この没落貴族が、我が物顔で尾張一国を差配する成り上がりの信長に対して、一つや二つ、思うところがない訳はないと踏んでいた。
――武衛さまが信長に立ち向かうならオモシロイが、全体、成功しなくたって構いやしねえさ。清洲が少しでも剣呑になれば、ワシらは随分やりやすい――
 しかしながら、この策略が回り回って、織田信長という大名に新たな覚悟を促す結果になることなど、この時の友貞には知る由もない。
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