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第四章 蛟竜雲雨
二
男は息を殺し、書院の棚から文書を一枚懐に入れた。
――もう一枚、いや、もう一文字でも、――
と、別の棚に手を伸ばしたその時、背後に物音を聞く。
「誰かと思ったら、オマエか。何をしている?」
男は主君の姿を認めると、ただ頭をかきながらヘラヘラと笑い、足早にその場を去った。
鳴海城・山口教吉の下男として仕える彼がその消息を絶ったのは、翌日のことだった。
一人の人間の手によって書かれた文書をできるだけ多く欲しいと考えたとき、目当ての本人の居室を探しても無駄である。あらゆる文書は書かれた後でほとんど必ず誰かの手に渡るのだから、探す場所として選ぶべきは、その人間が最も頻繁にやり取りをする相手方でなければならない。
信長はそれを心得ていた。弾正忠家を寝返って今川についた山口教継に狙いを定め、その息子である教吉の配下に数名の間者を潜り込ませた。ちょうど、家督を継いで初めての戦争となった赤塚の戦いにおける人質交換のどさくさに紛れさせて。
山口教吉という男は病的なまでに慎重、いや、臆病といった方が的確かもしれないが、とにかく尻尾を掴ませなかった。戦略に触れる秘密の連絡は元より日常の挨拶文に至るまでも書類の処分は徹底されていた。まるで、自分の身の回りに間者がいることをしかと知っているかのようですらあった。けれども、男はやり遂げたのだ。実に六年の歳月をかけて盗みも盗んだり、三十八枚に至る教継直筆の書状が信長の前にに差し出された。
「アハハ。よくもこれだけ集めたものだ。十分だよ」
中にはひどく日に焼けて黄ばんでいるものすらあったその紙束を、信長は機嫌よく受け取った。そして、さらに半年という月日を費やし自らの祐筆に教継の筆跡を完璧に会得させた。
『今川さまの治世はそれは厳しいものです。ある時、鳴海の浜へ難波してきた船がありました。船員が誰一人も見いだせなんだので、仕方なし、と考えてその木材を観蛇院と呼ばれる古刹へ寄進したところ、本国駿河でこれを知ったお館さまは、我らの行いを咎め、木材から積み荷に至るまですべて駿河へ送り届けるべしとのご命令を発されました。外様の我らは事あるごとに搾取され、いまにもこの鳴海の地を脅かされんとしています。尾張統一に迫る昨今の織田さまの勢いを目の当たりに、恥ずかしながら、再び弾正忠家の末席に加えていただきたく、――』
今川に対するそれらしい愚痴まで載せて偽書の一丁出来上がりだ。
「可成。顔の割れていない者を集めて、こいつを義元の手に入るよう駿河へ持ち込め。そうだな。商人にでも化けるといい」
「拙者が直々に持ち込んではいけませんか」
「お前のような刀傷だらけの商人がいてたまるか」
信長の作成した偽書は容易く義元の手に渡った。それから教継の元に本国からの辞令が降るまでに時間はかからなかった。
『かれこれもう鳴海城の守備を任せて六年になろうか。隙をつくらずよく守っているようだ。ここらで一度、その仕事ぶりを労わせてはもらえまいか。城代には岡部元信を遣わすので父子二人で駿府へ逗留すると良い』
教継は年甲斐もなく雀躍とした。織田とのまともな戦争は、息子が健闘した赤塚での戦のただ一度きりではあったが、それでも随分骨が折れた。敵、それもあの何をしてくるのだか分からない織田信長という男を眼の前に、実に六年もの間、じっと監視の目を光らせているのは楽ではなかった。
――直近では、松平に兵糧入れの借りを作りはしたが、我が一族の力のみによって、鳴海は元より、沓掛、大高の城を落とした殊勲がようやく報われるときがきたぞ!――
教継は息子と共に意気揚々と駿河へ赴いた。
しかし、そこで待っていたのはまるで逆の修羅場であった。三河、遠江の行程では懇ろにもてなされたが、駿河へ入るや否や唐突に縄目にかけられ今川館の義元の前に引き出された。まるで罪人の扱いである。何が何だか分からない。
「これはッ? いかなることでございましょうか、お館さまッ。ご無礼ながら、何かお考え違いをされておられるのではありますまいか――」
義元は信長の作った偽書を堂々と示して、きっぱりと告げる。
「考え違いなどは何処にもない。これは今川を離反し織田に付かんとする証文であろう。三河と尾張の境を守る苦労は察してあまりあるが、願わくは、貴殿らにも松平の如き忠士となるを期待していた」
「メ、め、滅相もないッ。そのようなる文は、私はッ、存じ上げませぬ。何かの間違いでございましょうが、その、――」
まるで見たことがない自らの書状に教継は分かりやすく狼狽えた。
「縄目にかかったまま「自分が書いたものです」と言い放つ肝の据わった男も、そうは居まい」
義元は教継を嘲弄し、傍らの従者に目配せした。すると、腕まくりをした精悍な顔つきの若武者が柱の影から徐に二名歩み出て、それから、教継・教吉父子の前に切腹刀を置いた。ここに至って、それまで頑なに沈黙を守っていた教吉が口を開く。危機に瀕して呂律のまわらない父に比して、息子は覚悟の定まった堂々たる口調で言葉を紡いだ。
「その文を誰が書いたか、私は知っております」
義元は視界の端に羽虫でも見つけたかのように、この日初めて、教吉の方を向いた。
「そなたの父だろう」
「恐れながら違います」
「ホウ。では、誰か?」
「織田、信長です。その書状は信長が拵えた偽物でございます」
ぴたりと看破してみせた。
「異なことを言う。この筆はどう見てもそなたの父・山口教継の手によるものではないか。これが偽書だとするなら、信長はどうしてこれほど精密な偽書を作られたか」
「間者を使い、私の蔵から父が書いたものを盗み出して筆跡を模倣したのでしょう」
教吉は膝をついたまま身を乗り出す。
「その文には今川さまの治世に対する愚痴が書かれているようですな。鳴海の浜に難波した商船の木材をお館さまが取り上げられた、という戯言です。ところが、お館さまが誰よりも知る通りに、氏親さまがお定めになられた目録の二十四条には『難波した船の積み荷・木材について、持ち主が分からない場合は、努めて神社仏閣へ寄進せよ』と定めてあります」
「織田に取り入ろうとしたそなたらが偽りを申すことに驚きはあるまい」
「いいえ。おかしいのは次の一節です。その文書では、難波した木材を我々が「観蛇院」なる古刹に寄進しようとしたとありますな」
「特段おかしいとは思われぬが?」
「それがおかしいのです。何故なら、そのような寺は鳴海にはございませんで」
「なに」
「我らは織田信秀に仕えていた身でございます。配下の者もまた同じ。ともすれば、織田に通じようとする不届き者が居るかもしれない。だから、私は、わずかでも怪しいと感じた者に対して日頃から作り話を聞かせていたのです。それは、鳴海にある山水、動物、酒、など何でも良いですが、すべては存在し得ないものを語り聞かせてやりました。「観蛇院」なるものその一つ、それは架空の寺にございます。蛇を観ると書く、これは「かんじゃ」の意をあてて私が名付けております。つまり、この語が使用されていたのなら、それは、私が目を付けていた人間の一人が信長に通じ偽書を書かせたということに他ならないのです」
教吉は信長が自らに働きかけることを予見して布石を打っていた。論旨明快な反駁に義元は「ホウ」と感嘆の声を漏らすと、手を打ってその弁舌を讃えた。教継は九死に一生を得た心地で、涙目になりながら、「よくやった」という熱い眼差しを息子に向けた。彼らの潔白は証明されたかに見えた。
「弱ったなア」
義元は鬢に指をあてて憫笑した。
「見事。父の方は凡将だが、倅は先の頼もしい武士だ。こうも鮮やかに説き伏せられるとは思わなかったぞ。けれども、優秀な知恵というのも考えものだ。山口教吉。お前なら私の真意にも気がつくはずなのだ」
教吉は義元は目を伏せて身じろぎ一つしなかった。教継は義元と教吉を交互に見ては、落ち着きなく、目をキョロキョロさせている。
「仕方がないから正直に言おう。知っているのだよ、これが信長の偽書だなどということは。怪しげな男が駿河へ持ち込んだらしいことも既に割れている。けれども、私にとってはこれらはどうでも良いことだ。直裁に言おう。貴殿ら山口一族が治める鳴海、大高のかの地を今川の譜代衆へと差し出して欲しい」
安堵したのも束の間、教継は再び真っ逆さまに落ちていく心持ちである。
「それはッ、我らに父祖伝来の領地を差し出せと申されるのですかッ」
思わず叫ぶが、
「その通りだ。だから、素直に聞いてもらえるとは思わなかったのだ。けれども、貴殿らにこれといった非がないというわけでもないぞ。特に大高城の接収は事を急いたきらいがある。落とした端からまるで簡単に信長に築城を許したろう。彼の地への補給路の確保は未だにままならないと来ている。だから、せっかく元康から運び込ませた兵糧だが、これもすぐに底をついてしまうに違いあるまい。目先の城に目が眩み、要らぬ手間をつくったのは疑い得ない。城は落としさえすればいいというものではないのだ。それが分からぬから、貴殿は凡将なのだよ」
「そ、それはッ、しかし、――」
「もう一つ、ある。もし、鳴海城内に間者の気配を感じていたのなら、あえて私に疑われたときのための細工などに精を出さずとも、疑わしき者すべてを処刑してしまえば簡単だろう。そうして、自らの信ずる者だけの強固な家をつくれ。それだけで敵の付け入る隙は消えるというものだ。その中に無実の者が数名居ようとも、なに、構うことはないではないか」
教継は取り乱して逃亡を試みたが、押さえ付けられて首を落とされた。
父の死を目にしても、教吉は動かなかった。ただ、義元を睨みつけている。
「見上げた根性だ。我が譜代衆として生まれてこなかったことが悔やまれるよ」
「気の毒なのは譜代の方々かもしれませんよ。この雅な土地でゆるゆると過ごされてきた者らに、あの信長の遊び相手が務まるかどうか」
教吉の挑発するような物言いにも、義元は即座に言葉を返した。
「務まらぬであろう。遊びとは、同じ才知、身分の者としか成り立たぬのが常である。我らが信長という野良犬にくれてやれるのは躾だけだ」
山口教継・教吉の父子は、永禄元年(一五五八年)、こうして義元に誅殺された。山口父子の死を知った織田陣営はこれを愉快に思ったが、その策を巡らせた張本人の信長だけは何処か座りの悪さを感じていた。義元による処刑の裁断があまりにも早すぎたからだ。
山口一族の後任として、義元は、鳴海城には重臣筆頭・岡部元信を、大高城にはこれも自らが信頼を厚く寄せる朝比奈輝勝を派遣した。これで彼は枕を高くして眠ることができる。自分の胸中に一点の曇りもないということだけが、彼にとっては軍事上の最重要事項だったから。
――もう一枚、いや、もう一文字でも、――
と、別の棚に手を伸ばしたその時、背後に物音を聞く。
「誰かと思ったら、オマエか。何をしている?」
男は主君の姿を認めると、ただ頭をかきながらヘラヘラと笑い、足早にその場を去った。
鳴海城・山口教吉の下男として仕える彼がその消息を絶ったのは、翌日のことだった。
一人の人間の手によって書かれた文書をできるだけ多く欲しいと考えたとき、目当ての本人の居室を探しても無駄である。あらゆる文書は書かれた後でほとんど必ず誰かの手に渡るのだから、探す場所として選ぶべきは、その人間が最も頻繁にやり取りをする相手方でなければならない。
信長はそれを心得ていた。弾正忠家を寝返って今川についた山口教継に狙いを定め、その息子である教吉の配下に数名の間者を潜り込ませた。ちょうど、家督を継いで初めての戦争となった赤塚の戦いにおける人質交換のどさくさに紛れさせて。
山口教吉という男は病的なまでに慎重、いや、臆病といった方が的確かもしれないが、とにかく尻尾を掴ませなかった。戦略に触れる秘密の連絡は元より日常の挨拶文に至るまでも書類の処分は徹底されていた。まるで、自分の身の回りに間者がいることをしかと知っているかのようですらあった。けれども、男はやり遂げたのだ。実に六年の歳月をかけて盗みも盗んだり、三十八枚に至る教継直筆の書状が信長の前にに差し出された。
「アハハ。よくもこれだけ集めたものだ。十分だよ」
中にはひどく日に焼けて黄ばんでいるものすらあったその紙束を、信長は機嫌よく受け取った。そして、さらに半年という月日を費やし自らの祐筆に教継の筆跡を完璧に会得させた。
『今川さまの治世はそれは厳しいものです。ある時、鳴海の浜へ難波してきた船がありました。船員が誰一人も見いだせなんだので、仕方なし、と考えてその木材を観蛇院と呼ばれる古刹へ寄進したところ、本国駿河でこれを知ったお館さまは、我らの行いを咎め、木材から積み荷に至るまですべて駿河へ送り届けるべしとのご命令を発されました。外様の我らは事あるごとに搾取され、いまにもこの鳴海の地を脅かされんとしています。尾張統一に迫る昨今の織田さまの勢いを目の当たりに、恥ずかしながら、再び弾正忠家の末席に加えていただきたく、――』
今川に対するそれらしい愚痴まで載せて偽書の一丁出来上がりだ。
「可成。顔の割れていない者を集めて、こいつを義元の手に入るよう駿河へ持ち込め。そうだな。商人にでも化けるといい」
「拙者が直々に持ち込んではいけませんか」
「お前のような刀傷だらけの商人がいてたまるか」
信長の作成した偽書は容易く義元の手に渡った。それから教継の元に本国からの辞令が降るまでに時間はかからなかった。
『かれこれもう鳴海城の守備を任せて六年になろうか。隙をつくらずよく守っているようだ。ここらで一度、その仕事ぶりを労わせてはもらえまいか。城代には岡部元信を遣わすので父子二人で駿府へ逗留すると良い』
教継は年甲斐もなく雀躍とした。織田とのまともな戦争は、息子が健闘した赤塚での戦のただ一度きりではあったが、それでも随分骨が折れた。敵、それもあの何をしてくるのだか分からない織田信長という男を眼の前に、実に六年もの間、じっと監視の目を光らせているのは楽ではなかった。
――直近では、松平に兵糧入れの借りを作りはしたが、我が一族の力のみによって、鳴海は元より、沓掛、大高の城を落とした殊勲がようやく報われるときがきたぞ!――
教継は息子と共に意気揚々と駿河へ赴いた。
しかし、そこで待っていたのはまるで逆の修羅場であった。三河、遠江の行程では懇ろにもてなされたが、駿河へ入るや否や唐突に縄目にかけられ今川館の義元の前に引き出された。まるで罪人の扱いである。何が何だか分からない。
「これはッ? いかなることでございましょうか、お館さまッ。ご無礼ながら、何かお考え違いをされておられるのではありますまいか――」
義元は信長の作った偽書を堂々と示して、きっぱりと告げる。
「考え違いなどは何処にもない。これは今川を離反し織田に付かんとする証文であろう。三河と尾張の境を守る苦労は察してあまりあるが、願わくは、貴殿らにも松平の如き忠士となるを期待していた」
「メ、め、滅相もないッ。そのようなる文は、私はッ、存じ上げませぬ。何かの間違いでございましょうが、その、――」
まるで見たことがない自らの書状に教継は分かりやすく狼狽えた。
「縄目にかかったまま「自分が書いたものです」と言い放つ肝の据わった男も、そうは居まい」
義元は教継を嘲弄し、傍らの従者に目配せした。すると、腕まくりをした精悍な顔つきの若武者が柱の影から徐に二名歩み出て、それから、教継・教吉父子の前に切腹刀を置いた。ここに至って、それまで頑なに沈黙を守っていた教吉が口を開く。危機に瀕して呂律のまわらない父に比して、息子は覚悟の定まった堂々たる口調で言葉を紡いだ。
「その文を誰が書いたか、私は知っております」
義元は視界の端に羽虫でも見つけたかのように、この日初めて、教吉の方を向いた。
「そなたの父だろう」
「恐れながら違います」
「ホウ。では、誰か?」
「織田、信長です。その書状は信長が拵えた偽物でございます」
ぴたりと看破してみせた。
「異なことを言う。この筆はどう見てもそなたの父・山口教継の手によるものではないか。これが偽書だとするなら、信長はどうしてこれほど精密な偽書を作られたか」
「間者を使い、私の蔵から父が書いたものを盗み出して筆跡を模倣したのでしょう」
教吉は膝をついたまま身を乗り出す。
「その文には今川さまの治世に対する愚痴が書かれているようですな。鳴海の浜に難波した商船の木材をお館さまが取り上げられた、という戯言です。ところが、お館さまが誰よりも知る通りに、氏親さまがお定めになられた目録の二十四条には『難波した船の積み荷・木材について、持ち主が分からない場合は、努めて神社仏閣へ寄進せよ』と定めてあります」
「織田に取り入ろうとしたそなたらが偽りを申すことに驚きはあるまい」
「いいえ。おかしいのは次の一節です。その文書では、難波した木材を我々が「観蛇院」なる古刹に寄進しようとしたとありますな」
「特段おかしいとは思われぬが?」
「それがおかしいのです。何故なら、そのような寺は鳴海にはございませんで」
「なに」
「我らは織田信秀に仕えていた身でございます。配下の者もまた同じ。ともすれば、織田に通じようとする不届き者が居るかもしれない。だから、私は、わずかでも怪しいと感じた者に対して日頃から作り話を聞かせていたのです。それは、鳴海にある山水、動物、酒、など何でも良いですが、すべては存在し得ないものを語り聞かせてやりました。「観蛇院」なるものその一つ、それは架空の寺にございます。蛇を観ると書く、これは「かんじゃ」の意をあてて私が名付けております。つまり、この語が使用されていたのなら、それは、私が目を付けていた人間の一人が信長に通じ偽書を書かせたということに他ならないのです」
教吉は信長が自らに働きかけることを予見して布石を打っていた。論旨明快な反駁に義元は「ホウ」と感嘆の声を漏らすと、手を打ってその弁舌を讃えた。教継は九死に一生を得た心地で、涙目になりながら、「よくやった」という熱い眼差しを息子に向けた。彼らの潔白は証明されたかに見えた。
「弱ったなア」
義元は鬢に指をあてて憫笑した。
「見事。父の方は凡将だが、倅は先の頼もしい武士だ。こうも鮮やかに説き伏せられるとは思わなかったぞ。けれども、優秀な知恵というのも考えものだ。山口教吉。お前なら私の真意にも気がつくはずなのだ」
教吉は義元は目を伏せて身じろぎ一つしなかった。教継は義元と教吉を交互に見ては、落ち着きなく、目をキョロキョロさせている。
「仕方がないから正直に言おう。知っているのだよ、これが信長の偽書だなどということは。怪しげな男が駿河へ持ち込んだらしいことも既に割れている。けれども、私にとってはこれらはどうでも良いことだ。直裁に言おう。貴殿ら山口一族が治める鳴海、大高のかの地を今川の譜代衆へと差し出して欲しい」
安堵したのも束の間、教継は再び真っ逆さまに落ちていく心持ちである。
「それはッ、我らに父祖伝来の領地を差し出せと申されるのですかッ」
思わず叫ぶが、
「その通りだ。だから、素直に聞いてもらえるとは思わなかったのだ。けれども、貴殿らにこれといった非がないというわけでもないぞ。特に大高城の接収は事を急いたきらいがある。落とした端からまるで簡単に信長に築城を許したろう。彼の地への補給路の確保は未だにままならないと来ている。だから、せっかく元康から運び込ませた兵糧だが、これもすぐに底をついてしまうに違いあるまい。目先の城に目が眩み、要らぬ手間をつくったのは疑い得ない。城は落としさえすればいいというものではないのだ。それが分からぬから、貴殿は凡将なのだよ」
「そ、それはッ、しかし、――」
「もう一つ、ある。もし、鳴海城内に間者の気配を感じていたのなら、あえて私に疑われたときのための細工などに精を出さずとも、疑わしき者すべてを処刑してしまえば簡単だろう。そうして、自らの信ずる者だけの強固な家をつくれ。それだけで敵の付け入る隙は消えるというものだ。その中に無実の者が数名居ようとも、なに、構うことはないではないか」
教継は取り乱して逃亡を試みたが、押さえ付けられて首を落とされた。
父の死を目にしても、教吉は動かなかった。ただ、義元を睨みつけている。
「見上げた根性だ。我が譜代衆として生まれてこなかったことが悔やまれるよ」
「気の毒なのは譜代の方々かもしれませんよ。この雅な土地でゆるゆると過ごされてきた者らに、あの信長の遊び相手が務まるかどうか」
教吉の挑発するような物言いにも、義元は即座に言葉を返した。
「務まらぬであろう。遊びとは、同じ才知、身分の者としか成り立たぬのが常である。我らが信長という野良犬にくれてやれるのは躾だけだ」
山口教継・教吉の父子は、永禄元年(一五五八年)、こうして義元に誅殺された。山口父子の死を知った織田陣営はこれを愉快に思ったが、その策を巡らせた張本人の信長だけは何処か座りの悪さを感じていた。義元による処刑の裁断があまりにも早すぎたからだ。
山口一族の後任として、義元は、鳴海城には重臣筆頭・岡部元信を、大高城にはこれも自らが信頼を厚く寄せる朝比奈輝勝を派遣した。これで彼は枕を高くして眠ることができる。自分の胸中に一点の曇りもないということだけが、彼にとっては軍事上の最重要事項だったから。
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この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))