追放された万能聖魔導師、辺境で無自覚に神を超える ~俺を無能と言った奴ら、まだ息してる?~

たまごころ

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第40話 風の果ての手紙

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 朝の潮風が柔らかく頬を撫でた。  
 アレンは港町の高台に立ち、遠くの水平線を眺めていた。  
 空は透き通るように青く、雲は風に乗ってゆっくりと形を変えていく。  
 その雲の流れを見ていると、どうしても彼女たちの顔が思い浮かぶ。  
 リィナ、リリア、ハイゼル、そして――リュシア。  
 かつて共に夢を見た人々が、いまはそれぞれの場所で世界を支えている。  
 誰もが消えず、繋がっていることを風が教えてくれた。  

 街は活気に満ちていた。停泊する船に積み荷を運ぶ若者たち。市場では果物や香草の匂いが立ち込め、通りの子どもたちは笑いながら駆け回っている。  
 旅の吟遊詩人がラフな声で「黎明の子守唄」を歌い、店の女主人が踊るように手拍子を打つ。  
 それはかつての、終焉を恐れていた世界とはまるで違う。  
 今の風は、もう“恐れ”ではなく“生きる音”を運んでいた。  

 アレンは広場の片隅に腰を下ろし、杖を横に置いた。  
 その杖にもはや竜の光は宿っていないが、木の表面には彼が歩いた年月の跡が刻まれている。  
 老人が杖に寄りかかるように休む姿を見て、アレンは微笑した。  
 「これも悪くないな。」  

 小さな影が近づいてきた。  
 少年だった。手には布で包まれた何かを大事そうに握っている。  
 「おじさん、風綴りの人でしょ?」  
 「風綴り……?」アレンは首を傾げた。  
 「町の人が言ってた! 世界中を旅して、みんなの声を風に乗せてる人がいるって。おじさんでしょ?」  
 「どうだろうな。旅の途中の老人にしか見えないかもしれないよ。」  
 少年は無邪気に笑うと、手の布を開いた。  
 中には一枚の小さな金属板が入っている。羽根の形を模した装飾に、風を示す古代文字が刻まれていた。  
 「これ、届けてほしいんだ。」  
 「どこへ?」  
 「風の街に。森の先生――リィナさんのところに!」  

 アレンの指が一瞬だけ止まった。  
 名前を出された瞬間、胸の奥が懐かしさで痛む。  
 「君のお父さんが作ったのですか?」  
 少年はうん、と頷く。  
 「お父さんは病気で旅に出られないけど、昔リィナさんに会ったことがあるんだって。この羽根は“風に願いを託す”お守りなんだよ。」  
 「……いい話だ。」  
 「お願いね!必ず届けてよ!」  
 少年はそう言って走り去っていった。  

 アレンは手のひらの羽根を見つめる。  
 金属の温度はひどく冷たいのに、不思議と風が集まってくる。  
 「願いか。」  
 彼は立ち上がり、風の向きを確かめた。  
 南――それはちょうどリリウム平原へ続く道だった。  

         ◇  

 旅路は穏やかだった。  
 かつて竜が眠っていた山々も緑で覆われ、焼けた地は花々で満ちている。  
 再構築によって理が安定してから五年。  
 大地は自然の呼吸を取り戻した。  
 風も、水も、どこかで誰かの“語り”を運んでいる。  
 それこそが、アレンの作った仕組みの証明だった。  

 「世界の理は、神ではなく人が歩く速さに合わせればいい。」  
 彼がそれを口にしたとき、多くの学者や術師たちは半信半疑だったが、いまや誰も疑わない。  
 人と自然の理が共に在る時代が確かに始まっている。  
 リリアが築いた記録院の支部は各地に広まり、リィナは森を守りながら風綴りを導き手として教えた。  
 そのニュースが届くたびに、アレンは胸の奥で静かな誇りを感じていた。  

 峠を越えた頃、夕陽が大地を赤く染めていた。  
 眼下にはデールの森。  
 幾筋もの風車が黄金色に光り、まるで風そのものが歌っているようだった。  
 アレンはしばらく立ち止まって眺める。  
 そしてふと思う。  
 ――この世界は、もう僕が見届けなくても歩ける。  

 それでも、伝えなければならない言葉がある。  
 胸の内で強まる確信に促されるように、アレンは再び歩き出した。  

         ◇  

 リィナが丘の上に建てられた新しい図書館――「風譜の館」にいた。  
 人の記録と森の記憶を共に保存するための場所だ。  
 窓辺の机に頬杖をつき、筆を置いた瞬間、外から強い風が吹き抜けた。  
 開いた窓の隙間から、一枚の羽根が滑り込む。  
 手に取ると、それは金属製の羽根飾りだった。  
 知らない模様。しかしその中央に刻まれた“風の文字”を見て、胸が高鳴る。  
 「……この感覚。」  

 その時、扉が静かに開いた。  
 見上げたリィナの視線の先、逆光の中にアレンが立っていた。  
 「久しぶりですね、リィナ。」  
 「……! アレンさん!」  
 彼女の声が震えた。  
 五年という歳月が、瞬く間に溶けて消えていく。  
 彼の髪に混じる白が、旅の道のりを物語っている。  

 アレンは本棚の合間を抜け、机の前に小さな包みを置いた。  
 「あの町の子どもから預かりました。リィナさんに渡してほしいと。」  
 リィナは思わず両手でそれを抱きしめ、目を伏せた。  
 「また風が繋いでくれたんですね。」  
「ええ。あの子の父親はきっと、君に会って確かめたかったんだと思います。世界が変わっても、“願い”の流れは変わらない。」  
 「私の方こそ、あなたに伝えたいことが山ほどありますよ。」  
 「では、聞かせてください。」  
 「まず……この館のこと。森が記憶を持つ仕組みを作って、世界中の“風の声”を集めています。今では、それが暦にもなってるんです。」  
 アレンは驚いた顔をした。  
 「暦?」  
 「はい。“風見の年輪”。風の向きと強さを記録して、その年の巡りを読むんです。神の暦ではなく、人と自然で作る暦。」  
 「素晴らしいな。」  
 「理を教えてくれたあなたと、世界を繋いだ師匠たちのおかげです。」  

 リィナは、机の上に羽根飾りと自分の筆を並べた。  
 「アレンさん。私は思うんです。風って、最初から“言葉”だったんじゃないかって。」  
 アレンは微笑んで頷く。  
 「僕もそう思いますよ。この世界は、語り合うために作られたのですから。」  

 風が吹き抜けた。  
 いくつもの窓が開き、紙片が空へまいあがる。  
 館の上空で、それらが集まり、青白い光の輪を描いた。  
 それはまるで、記録院の鐘楼に掲げられる“理の印”のようだった。  

 アレンは外に出て、丘の端に立つ。  
 眼下には広がる森、遠くには海。  
 「随分と……静かになりましたね。」  
 「ええ。けれど、この静けさは生きている。風の中に人の声がある。」  

 リィナが手紙を取り出した。  
 それは彼女が数年前に書いた、アレンへの「風綴り」第一巻の写し。  
 「改めてお返しします。……もう、これはあなたのものじゃなくて、世界の物語ですから。」  
 アレンはそれを受け取って微笑んだ。  
 「ありがとう。ならば、僕も返礼を。」  
 彼は懐から新しい小冊子を取り出した。  
 表紙には『風の果ての記録帳』とだけ書かれている。  
 「ここには各地で拾った“風の声”を記しました。君たちが将来、それを読むとき、世界が何を思ったか知るだろう。」  
 リィナはそれを手に取り、静かに頭を下げた。  

         ◇  

 夕日が沈む頃、丘の上に灯籠がともされた。  
 森の民と町の人々、子どもたちがそれぞれに火を掲げ、風に向かって歌を捧げる。  
 小さな声が重なり、やがてそれが一つの旋律となった。  
 それは神への祈りではない。  
 生きること、そのものへの祝福。  

 アレンは立ち上がり、空を見上げた。  
 「これが……世界の音。」  
 リィナは微笑み、頷く。  
 「ええ。誰もが語り手になったんです。」  

 光が強くなり、空に広がる。  
 風が灯を包めば、それぞれの想いが金の粒となって夜空へ昇っていく。  
 無数の粒が星と混じり合い、新しい星座を描いた。  

 アレンはその光景を瞼に焼き付けながら呟く。  
 「リュシア、ハイゼル、リリア……見えますか。あなたたちの願いは、もう人々の声になっています。」  
 風が答えるように吹き、木々がざわめいた。  

 リィナが灯火をひとつ、彼の方へ差し出す。  
 「あなたも、ひとつ願いを。」  
 アレンはしばらく迷い、灯火を手に取る。  
 「では――“この風が、記す者たちの手を導き続けますように。”」  

 二人は笑い、風の中に灯火を放った。  

 それが空へ登るにつれ、あたりは静まり返る。  
 やがて風の強さが弱まり、代わりに暖かい空気が流れ込んできた。  
 静けさの中で、アレンは杖を地につき、小さく目を閉じる。  
 「これで、ようやく——」  
 言葉の先は、風がさらっていった。  

 灯火は星の海へ吸いこまれ、光の粒が彼の足元に落ちる。  
 そのひとつが、小さな青い花に変わった。  
 リィナがそれを拾い、微笑む。  
 「生まれましたね。」  
 「ええ。もう、物語は終わらない。」  

 風が吹く。  
 森を渡り、町を越え、海へと抜ける風。  
 その中で、人々の歌声がいつまでも響いていた。  

 語り継ぐ風は、今日もどこかで新しい物語を運んでいる。  
 そしてその始まりを見つめる二つの影が、穏やかな夜の中に並んでいた。
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