追放された万能聖魔導師、辺境で無自覚に神を超える ~俺を無能と言った奴ら、まだ息してる?~

たまごころ

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第46話 風の名を持つ者

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 夜明けの光が、デールの上空を金色に染めていた。  
 風譜の館の鐘楼がひときわ高く鳴り響く。  
 それはこの街で一年に一度だけ開かれる「風名(ふうめい)の儀」の合図だった。  
 風に名を与える祭り。十年前にリィナが始めた風譜の記録が、今では人々の暮らしの中心となっている。  
 人々は空を見上げ、各々が思う風の名を考える。  
 誰かへの想い、願い、あるいは日々の祈り。  
 それを風綴りにしたため、空へ放つ日である。  

 リィナは館の屋上の欄干に立ち、街のざわめきを見下ろした。  
 あの頃と比べるとデールはずいぶん賑やかになった。  
 風車は数を増し、屋根の上には色とりどりの布がはためいている。  
 風を記録する仕組みが完全に定着した今、人々は自らの言葉を風に乗せて送り、他の土地と語り合うようになった。  
 「自分たちがこんなことを始めるなんて、当時は思ってもいなかったのに。」  
 呟く声は心からの笑みを含んでいた。  

 その背後から声がした。  
 「お待たせしました、主任。」  
 現れたのは若い女性の「風記者」で、リィナの後継者候補と呼ばれる人物――メイルだった。  
 リィナが子どもの頃に見た“風の学徒”たちが、今はこうして次の世代を担うようになっている。  
 「準備は整った?」  
 「はい。東の丘で風を測る装置も稼働を始めました。今回の風は南からの『春耀(しゅんよう)』と名付けられています。」  
 「春の耀き、か。いい名前ね。」  
 メイルは微笑み、リィナに一枚の紙を差し出した。  
 「これが本日の“初風録”です。世界各地から届いた風の名と、その由来の一覧。」  
 リィナは紙を受け取り、目を通す。  
 北の地方では“共(とも)”という名。西では“生声(せいせい)”。海沿いの港からは“潮(うしお)”と呼ばれる風が報告されていた。  
 人々はそれぞれに、風へ自分の生き方を重ねている。  
 リィナは静かに目を細めた。  
 ――風たちが、一人ひとりに顔を持ち始めた。  
 アレンならこの光景を見て、どんな言葉を紡ぐだろう。  

         ◇  

 式が始まった。  
 空は明るく、風はどこまでも透明だった。  
 中央広場には王都からの来賓や記録院の使者も並んでいる。  
 リリアは今は記録院の長老として、世界各地の記録を束ねる立場となっていた。  
 白い衣の裾を風に揺らしながら、リィナに微笑む。  
 「立派になったわね。あなたが描いた“風の理”が、こうして人々を動かしている。」  
 「私は、たまたま書いたものを拾ってもらっただけです。」  
 「謙遜しなくてもいいのよ。あなたの言葉がなければ、世界はまだ沈黙のままだった。」  
 リリアの声は、母のようにやわらかかった。  
 十年前あれほど遠く感じた王都の人々との距離が、いまでは笑い合えるほど近い。  
 風がその距離を、ゆるやかに縮めてきたのだ。  

 祭の第一の儀、「名の放ち」が始まる。  
 リィナは肩にかけた布の端を取る。そこには一行の文字が縫い込まれていた。  
 ――『風よ、名を持ち、記憶を運べ。』  
 それはアレンが生前書き残した最後の祈りの言葉だった。  
 リィナはそれをもう一度読む。心の中で、声にするように。  

 合図の鐘が鳴る。  
 市民たちが一斉に空へ紙片を放った。  
 無数の小さな紙が舞い上がり、太陽の光を受けて金の粒のように輝く。  
 リィナも手元の羽根を掲げた。  
 「行きなさい。」  
 その羽根は風に乗り、幾重もの青い光を描いて昇っていく。  
 青の軌跡はまるで、生きているように脈を打ち、街全体を包んだ。  
 一瞬の静寂。  
 そののち、足元から暖かな風が吹き抜けた。  

 「名が……応えた?」  
 誰かが呟く。  
 風が確かに“返事”をしている。  
 音ではなく、心の奥に伝わる感覚。  
 人々の胸に、それぞれの風の名が響いた。  
 リィナには、その中に一つだけ、はっきりした声があった。  
 ――リィナ。  
 その声は懐かしく、優しかった。  
 「アレンさん……!」  
 彼女は空を仰ぐ。  
 青い風が輪を描くように回り、光の雨となって彼女の足元へ降り注ぐ。  

 アレンの声が風を通して響いた。  
 ――この風は君たちの声だ。  
 ――僕はもう形を持たないけれど、君が呼ぶ限り、何度でも答える。  
 ――人が生きるかぎり、理も風も続いていく。  
 リィナは涙を拭わずに笑った。  
 「あなたの言葉はもう、みんなのものです。世界中が“風の記録者”です。」  
 ――そうだ。それでいい。もう僕は、語る必要がなくなった。  
 ――人が風と話せるようになった。それこそが、理の完成だよ。  

 風が穏やかに街を撫でる。  
 子どもたちは手を取り合って踊り、老人たちは目を閉じて風を聞いた。  
 誰もがそれぞれの思い出と語りを風に託し、この地はひとつの大きな物語となっていく。  

         ◇  

 祭が終わる頃、夕刻の空は茜に染まっていた。  
 街の灯がともると、リィナはリリアと並んで丘の上を歩いた。  
 「あなたは、これからどうするの?」リリアが尋ねた。  
 「そうですね……しばらく旅に出たいと思います。」  
 「旅?」  
 「ええ。各地の風の名を直接聞いて回りたいんです。名前を持った風たちが、どんな物語を運んでいるのか確かめたい。」  
 「まるで彼のようね。」  
 リリアの言葉に、リィナは微笑んだ。  
 「彼はもう、風になって旅を続けてる。なら私も、地上からその続きを歩こうと思って。」  

 風が頬を撫でた。  
 風の匂いに混じって、青い香草の香りがする。かつてアレンが好んで持っていた乾いた薬草だ。  
 リィナは立ち止まり、小さく告げた。  
 「見ていますね、アレンさん。ほら、世界はあなたの願い通りになりましたよ。」  
 風が答えるように、花びらを舞い上げた。  

         ◇  

 その夜、風譜の館の書庫では新しい巻が生まれた。  
 『風譜録 第六章 風が語る名の記』。  
 冒頭の一文は、アレンの理の継承者として、リィナが初めて自身の名を記した文章だった。  

 ――『私は風に名を与える者。  
  理と祈りの境をなくし、語りをつなぐ者。  
  この時代に吹く全ての風を私は記録する。  
  それが“風の名を持つ者”としての、最初の誓い。』  

 筆を置いた瞬間、窓から春の風が吹き込む。  
 灯火が揺れ、青い光が彼女の机を包んだ。  
 それはまるで、かつての師が笑って頷く合図のようだった。  

 リィナは風に顔を向け、そっと囁く。  
 「あなたの物語は終わりません。  
  この世界がある限り、誰かが語り続けます。」  

 風がゆっくりと彼女の頬を撫で、外の森へと抜けていく。  
 夜空の星々がその軌跡を照らした。  
 青く、暖かく、永遠に続いていく光。  

 その夜、デールの街の風車は誰も触れずに一斉に回りだしたという。  
 人々はそれを、新しい時代の幕開けの証と呼んだ。  
 風が名を持った日。  
 そして、語る者が風と共に歩き始めた日だった。
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