元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第五章 お市御寮人

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 関ケ原の峠に差し掛かり、美濃、近江国の国境を越えた辺りで雨は止んだ。暫く行くと、お市の輿入れ一行の眼前に、浅井の井桁の幟旗が現れた。黒漆塗本小札色々威腹巻具足を身に纏った騎馬武者が、お市の輿へ向かって馬を寄せた。
「拙者、浅井備前守が家臣、遠藤喜右衛門と申す。織田の方々には遠路遥々ご苦労でござった」
 直経の名乗りを受け、柴田勝家が馬を寄せようとした瞬間、強面の鬼武者よりも先に秀吉が前に進んだ。
「遠藤殿か、拙者、織田家侍大将の末席を穢す木下藤吉郎と申す」
 秀吉が名乗りを上げた途端、勝家は顏を歪め紅潮すると、
「むむっ。下がっておれっ、猿めの分際でしゃしゃり出るなっ!」
 と怒りに任せ唸り声を発した。
 直経は一瞬、どうしたものかと戸惑ったが、この場合年長者である勝介の許へ馬を寄せた。
「内藤殿とお見受け致す」
「如何にも某我がお屋形様より供奉の任を仰せつかった内藤勝介でござる」
「この先は我ら浅井の者が、お市ご寮人のお輿をお護り致しまする」
「相分かり申した」
 勝介は直経に頭を下げた。
「これ」
 と輿を担ぐ足軽、雑兵に命じた。
 直経も、小谷城から連れて来た足軽に顎で指示を出した。
 面白くないのは面目を潰された勝家と、竹の家臣の目の前で猿呼ばわりされた秀吉だった。
「糞っ覚えておれ」
 秀吉は小声で言う。
「何か申したか、猿。聞こえぬぞ、はっきりと申してみよ」
「五月蠅いわ、おみゃーさぁは……黙っておれ」
 秀吉は勝家から視線を外すと、またもや小声で文句を言った。
 輿の中のお市がクスクスと笑った。
 浅井の雑兵が、織田の足軽に代わり、お市が乗った輿を担ぐことになった。伊吹山麓の中を縫って走る山道を進む。この道は木之本に続く道だ。

 昼過ぎ、お市のお輿入れの一行は無事に小谷城下の清水谷に到着した。
 その夜、清水谷の浅井屋敷にて、長政とお市の祝言が執り行われた。
 ここで初めて花婿と花嫁は、お互いの顔を見ることになった。
 無垢の衣装に身を包むお市の被り物を、織田家から彼女に付き従って来た侍女が取った。
「おおっ、何とお美しい。流石は三国一の美女と謳われただけのことはある」
 長政ではなく、彼の父久政が率直な感想を口にした。
 息子の長政の方は、瓜実顔をしたお市のその容姿に見惚れ、完全に言葉を失っていた。
「新九郎様、市にございます。末永く宜しゅうお頼み申し上げます」
「……こ、こちらこそ、宜しゅう……」
 長政は漸く我に返り、お市に一礼した。
 祝言に続いて、祝いの席が設けられ、宴が執り行われた。
「方々、今宵は無礼講じゃ」
 長政の母方の叔父井口経親が皆に伝えた。
「おうっ、ならば思う存分呑もうではござらぬか」
「ささ、一献」
「これは忝い」
 皆、思い思いに酒を親しい者の杯に注ぎ、宴会を始めた。
 お市の輿入れに従い道中を共にした、勝介たち供奉の任に当たった者や、勝家、秀吉たち警護の任に当たった者も、身形を素襖に改めると、末席に座り杯を仰いだ。しかし、勝家と秀吉にとっては自棄酒に近いものがあった。
「猿と一緒では酒が不味い」
「それはこちらの台詞だぎゃ」
 両名の会話を盗み聞きしていた直経は、唇を緩めた。薄笑いを浮かべる。
「ご両人は、仲が良いとお見受け致す」
 無論、二人が険悪な関係であることを知っていて、直経がわざと皮肉を言ったのだ。
「ふん、何が仲が良いのじゃ。その逆じゃ」
 勝家は渋面を作り、杯の中の濁り酒を喉の奥に流し込んだ。
 宴が佳境に入ると、褌一丁になって裸踊りを披露する者まで現れた。
「まあ、可笑しい……」
 上座で、長政の隣に座るお市は口許を手のひらで押さえ笑みを溢した。
 その無邪気な笑顔を、長政は目を細め愛おしく見詰めた。
 夜更けまで宴は続いた。その夜は、勝家、秀吉など織田家の面々は、小谷城下の清水谷の屋敷で宿泊し、翌朝美濃岐阜城へ戻っていった。
 この日は、浅井領内の国人、豪族らを招き、宴が開かれた。その次の日も主だった領民を招き、清水谷で宴が開かれた。連日連夜、宴を開いたため、長政は無論こと花嫁のお市もその顏に疲れの色が見えてきた。
「少し顔色が優れぬが大丈夫か、お市」
 と長政が気遣う。
「はい、大丈夫です」
 お市はかぶりを振って答えた。
「左様か、ならば良い」
 長政は花嫁を見やって微笑を浮かべた。
「これにて、憂いが取り除かれた故、いよいよ岐阜の義兄上も、ご上洛に取り掛かれるであろう」
「はい」
 お市はどこか不安気な眼差しを夫長政に向け、頷いた。
 間もなくしてお市が長政の子を宿した。
 季節は既に春から夏へと変わっていた。
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