25 / 35
第五章 お市御寮人
五
しおりを挟む
関ケ原の峠に差し掛かり、美濃、近江国の国境を越えた辺りで雨は止んだ。暫く行くと、お市の輿入れ一行の眼前に、浅井の井桁の幟旗が現れた。黒漆塗本小札色々威腹巻具足を身に纏った騎馬武者が、お市の輿へ向かって馬を寄せた。
「拙者、浅井備前守が家臣、遠藤喜右衛門と申す。織田の方々には遠路遥々ご苦労でござった」
直経の名乗りを受け、柴田勝家が馬を寄せようとした瞬間、強面の鬼武者よりも先に秀吉が前に進んだ。
「遠藤殿か、拙者、織田家侍大将の末席を穢す木下藤吉郎と申す」
秀吉が名乗りを上げた途端、勝家は顏を歪め紅潮すると、
「むむっ。下がっておれっ、猿めの分際でしゃしゃり出るなっ!」
と怒りに任せ唸り声を発した。
直経は一瞬、どうしたものかと戸惑ったが、この場合年長者である勝介の許へ馬を寄せた。
「内藤殿とお見受け致す」
「如何にも某我がお屋形様より供奉の任を仰せつかった内藤勝介でござる」
「この先は我ら浅井の者が、お市ご寮人のお輿をお護り致しまする」
「相分かり申した」
勝介は直経に頭を下げた。
「これ」
と輿を担ぐ足軽、雑兵に命じた。
直経も、小谷城から連れて来た足軽に顎で指示を出した。
面白くないのは面目を潰された勝家と、竹の家臣の目の前で猿呼ばわりされた秀吉だった。
「糞っ覚えておれ」
秀吉は小声で言う。
「何か申したか、猿。聞こえぬぞ、はっきりと申してみよ」
「五月蠅いわ、おみゃーさぁは……黙っておれ」
秀吉は勝家から視線を外すと、またもや小声で文句を言った。
輿の中のお市がクスクスと笑った。
浅井の雑兵が、織田の足軽に代わり、お市が乗った輿を担ぐことになった。伊吹山麓の中を縫って走る山道を進む。この道は木之本に続く道だ。
昼過ぎ、お市のお輿入れの一行は無事に小谷城下の清水谷に到着した。
その夜、清水谷の浅井屋敷にて、長政とお市の祝言が執り行われた。
ここで初めて花婿と花嫁は、お互いの顔を見ることになった。
無垢の衣装に身を包むお市の被り物を、織田家から彼女に付き従って来た侍女が取った。
「おおっ、何とお美しい。流石は三国一の美女と謳われただけのことはある」
長政ではなく、彼の父久政が率直な感想を口にした。
息子の長政の方は、瓜実顔をしたお市のその容姿に見惚れ、完全に言葉を失っていた。
「新九郎様、市にございます。末永く宜しゅうお頼み申し上げます」
「……こ、こちらこそ、宜しゅう……」
長政は漸く我に返り、お市に一礼した。
祝言に続いて、祝いの席が設けられ、宴が執り行われた。
「方々、今宵は無礼講じゃ」
長政の母方の叔父井口経親が皆に伝えた。
「おうっ、ならば思う存分呑もうではござらぬか」
「ささ、一献」
「これは忝い」
皆、思い思いに酒を親しい者の杯に注ぎ、宴会を始めた。
お市の輿入れに従い道中を共にした、勝介たち供奉の任に当たった者や、勝家、秀吉たち警護の任に当たった者も、身形を素襖に改めると、末席に座り杯を仰いだ。しかし、勝家と秀吉にとっては自棄酒に近いものがあった。
「猿と一緒では酒が不味い」
「それはこちらの台詞だぎゃ」
両名の会話を盗み聞きしていた直経は、唇を緩めた。薄笑いを浮かべる。
「ご両人は、仲が良いとお見受け致す」
無論、二人が険悪な関係であることを知っていて、直経がわざと皮肉を言ったのだ。
「ふん、何が仲が良いのじゃ。その逆じゃ」
勝家は渋面を作り、杯の中の濁り酒を喉の奥に流し込んだ。
宴が佳境に入ると、褌一丁になって裸踊りを披露する者まで現れた。
「まあ、可笑しい……」
上座で、長政の隣に座るお市は口許を手のひらで押さえ笑みを溢した。
その無邪気な笑顔を、長政は目を細め愛おしく見詰めた。
夜更けまで宴は続いた。その夜は、勝家、秀吉など織田家の面々は、小谷城下の清水谷の屋敷で宿泊し、翌朝美濃岐阜城へ戻っていった。
この日は、浅井領内の国人、豪族らを招き、宴が開かれた。その次の日も主だった領民を招き、清水谷で宴が開かれた。連日連夜、宴を開いたため、長政は無論こと花嫁のお市もその顏に疲れの色が見えてきた。
「少し顔色が優れぬが大丈夫か、お市」
と長政が気遣う。
「はい、大丈夫です」
お市はかぶりを振って答えた。
「左様か、ならば良い」
長政は花嫁を見やって微笑を浮かべた。
「これにて、憂いが取り除かれた故、いよいよ岐阜の義兄上も、ご上洛に取り掛かれるであろう」
「はい」
お市はどこか不安気な眼差しを夫長政に向け、頷いた。
間もなくしてお市が長政の子を宿した。
季節は既に春から夏へと変わっていた。
「拙者、浅井備前守が家臣、遠藤喜右衛門と申す。織田の方々には遠路遥々ご苦労でござった」
直経の名乗りを受け、柴田勝家が馬を寄せようとした瞬間、強面の鬼武者よりも先に秀吉が前に進んだ。
「遠藤殿か、拙者、織田家侍大将の末席を穢す木下藤吉郎と申す」
秀吉が名乗りを上げた途端、勝家は顏を歪め紅潮すると、
「むむっ。下がっておれっ、猿めの分際でしゃしゃり出るなっ!」
と怒りに任せ唸り声を発した。
直経は一瞬、どうしたものかと戸惑ったが、この場合年長者である勝介の許へ馬を寄せた。
「内藤殿とお見受け致す」
「如何にも某我がお屋形様より供奉の任を仰せつかった内藤勝介でござる」
「この先は我ら浅井の者が、お市ご寮人のお輿をお護り致しまする」
「相分かり申した」
勝介は直経に頭を下げた。
「これ」
と輿を担ぐ足軽、雑兵に命じた。
直経も、小谷城から連れて来た足軽に顎で指示を出した。
面白くないのは面目を潰された勝家と、竹の家臣の目の前で猿呼ばわりされた秀吉だった。
「糞っ覚えておれ」
秀吉は小声で言う。
「何か申したか、猿。聞こえぬぞ、はっきりと申してみよ」
「五月蠅いわ、おみゃーさぁは……黙っておれ」
秀吉は勝家から視線を外すと、またもや小声で文句を言った。
輿の中のお市がクスクスと笑った。
浅井の雑兵が、織田の足軽に代わり、お市が乗った輿を担ぐことになった。伊吹山麓の中を縫って走る山道を進む。この道は木之本に続く道だ。
昼過ぎ、お市のお輿入れの一行は無事に小谷城下の清水谷に到着した。
その夜、清水谷の浅井屋敷にて、長政とお市の祝言が執り行われた。
ここで初めて花婿と花嫁は、お互いの顔を見ることになった。
無垢の衣装に身を包むお市の被り物を、織田家から彼女に付き従って来た侍女が取った。
「おおっ、何とお美しい。流石は三国一の美女と謳われただけのことはある」
長政ではなく、彼の父久政が率直な感想を口にした。
息子の長政の方は、瓜実顔をしたお市のその容姿に見惚れ、完全に言葉を失っていた。
「新九郎様、市にございます。末永く宜しゅうお頼み申し上げます」
「……こ、こちらこそ、宜しゅう……」
長政は漸く我に返り、お市に一礼した。
祝言に続いて、祝いの席が設けられ、宴が執り行われた。
「方々、今宵は無礼講じゃ」
長政の母方の叔父井口経親が皆に伝えた。
「おうっ、ならば思う存分呑もうではござらぬか」
「ささ、一献」
「これは忝い」
皆、思い思いに酒を親しい者の杯に注ぎ、宴会を始めた。
お市の輿入れに従い道中を共にした、勝介たち供奉の任に当たった者や、勝家、秀吉たち警護の任に当たった者も、身形を素襖に改めると、末席に座り杯を仰いだ。しかし、勝家と秀吉にとっては自棄酒に近いものがあった。
「猿と一緒では酒が不味い」
「それはこちらの台詞だぎゃ」
両名の会話を盗み聞きしていた直経は、唇を緩めた。薄笑いを浮かべる。
「ご両人は、仲が良いとお見受け致す」
無論、二人が険悪な関係であることを知っていて、直経がわざと皮肉を言ったのだ。
「ふん、何が仲が良いのじゃ。その逆じゃ」
勝家は渋面を作り、杯の中の濁り酒を喉の奥に流し込んだ。
宴が佳境に入ると、褌一丁になって裸踊りを披露する者まで現れた。
「まあ、可笑しい……」
上座で、長政の隣に座るお市は口許を手のひらで押さえ笑みを溢した。
その無邪気な笑顔を、長政は目を細め愛おしく見詰めた。
夜更けまで宴は続いた。その夜は、勝家、秀吉など織田家の面々は、小谷城下の清水谷の屋敷で宿泊し、翌朝美濃岐阜城へ戻っていった。
この日は、浅井領内の国人、豪族らを招き、宴が開かれた。その次の日も主だった領民を招き、清水谷で宴が開かれた。連日連夜、宴を開いたため、長政は無論こと花嫁のお市もその顏に疲れの色が見えてきた。
「少し顔色が優れぬが大丈夫か、お市」
と長政が気遣う。
「はい、大丈夫です」
お市はかぶりを振って答えた。
「左様か、ならば良い」
長政は花嫁を見やって微笑を浮かべた。
「これにて、憂いが取り除かれた故、いよいよ岐阜の義兄上も、ご上洛に取り掛かれるであろう」
「はい」
お市はどこか不安気な眼差しを夫長政に向け、頷いた。
間もなくしてお市が長政の子を宿した。
季節は既に春から夏へと変わっていた。
10
あなたにおすすめの小説
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。
独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす
【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す
【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す
【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす
【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる