元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第五章 お市御寮人

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 その頃、織田信長は、岐阜城本丸御殿で家臣団から年賀の挨拶を受けていた。
「お屋形様に恙なくお過ごしで、益々のご健勝……」
「内藤、世辞などよい。その方は、我が父桃巌(信秀)殿が、予が生まれし折に、傅役の一人としてつけた宿老であったな」
「はい、左様で……」
 内藤勝介は訝し気に首を捻った。
 この老臣は、信長が誕生した時、信秀によって選ばれた四人の傅役の中の一人だった。残りの三人は、林佐渡守秀貞、平手中務中務丞政秀、青山与三右衛門信昌である。うち、信昌は、天文十六年(一五四七)に、信秀が斎藤道三と戦った加納口の合戦で討死している。また、政秀は、天文二十二年(一五五三)閏一月十三日に、信長の奇行を憂い、諫死して果てた。
「予の傅役としてその方に一つ頼みがる」
「はぁ……」
「何、そんなに難しきことではない。お市を小谷の浅井備前にくれてやることにした。その方は、輿入れの際、お市に供奉致せ……」
「そ、某がお市様の……斯様な大任……」
「不服か」
「いいえ、この年寄りにとってみれば、吉法師様とお呼びした襁褓の頃よりお屋形様にお仕えしたこの勝介にとって、最後のご奉公になりまする。謹んで承りまする」
 勝介は涙を流していた。
「泣くな、内藤……なお、此度の縁組のため骨を折ってくれた不破太郎左衛門尉と市橋伝左衛門尉を供奉に加える。更に、柴田権六、木下藤吉郎の両名の者に命じ、手勢を以って警護の任に就ける。伊勢の長野、北畠辺りが斎藤の残党と手を結んで何やら怪しい動きをしておるとの知らせがあった。抜かりのないように致せ。江南の六角にも目を配れ」
「承知仕った。この内藤勝介、命に変えましてもお市様をお守り致す所存っ」
「うん、相分かった……次の者が控えておる。内藤、早く下がれ」
 信長は苦笑気味に言うと、酷薄な唇の端に笑みを浮かべた。
 勝介は、面目なさ気に頭を掻き、信長に深々と頭を下げると退席した。
 勝介に続いて、年賀の挨拶に現れたのは、柴田勝家だった。
「謹みて新年がお慶びをば申し上げ候」
 と年賀の挨拶を勝家が言うと、信長はその声に被せて言葉を掛けた。
「権六、既にその方の耳にも届いておると思うが、此度お市を小谷の浅井備前にくれてやることにした」
「はい、存じ上げ奉り候」
「そこでじゃ、お市の輿入れの際、内藤勝介、不破太郎左衛門尉、市橋伝左衛門尉の三名を供奉の任に就けることにした。その方は、木下藤吉郎とともに警護の任に就け」
「お、お待ち下され、お屋形様っ」
 勝家は身を乗り出して、声を震わせながら言った。
「何じゃ、不服か? お市に気があるのか?」
 信長が揶揄うと、勝家は顏を赤らめながら食って掛かった。
「然に非ず。お屋形様は意地が悪うござる。何故某があの猿めと一緒に警護の任に就かねばならぬでござる」
「うん? 気になるか」
「はい」
 勝家は頷いた。
「お市が、是非とも猿めに警護してもらいたい、と申してのう」
「お市様が、でござるか?」
「ああ、お市がそう申した」
 信長は悪戯な笑みを浮かべ、首を縦に振った。
「相分かり申した。警護の任、謹んでお承ります」
 勝家は、お市の輿入れの際、秀吉とともに警護の任に就くことを渋々承諾した。

 江戸時代中期に書かれた『総見記』によれば、信長の妹お市が浅井長政に嫁いだのは、永禄十一年(一五六八)四月下旬ということだ。
 お市が近江国浅井家に嫁ぐ日の前の晩、信長は彼女の寝所に足を運んだ。
 岐阜城本丸御殿の仄暗い渡り廊下を、足下を照らす灯りもないままふらりと歩く信長を見て、警護の任務に就く宿直や侍女たちは、最初それが信長だとは思わなかった。
「曲者っ」
 宿直の一人は、太刀の柄に指を掛けた。
「何奴っ」
 侍女も短刀の柄を握りしめた。
 がしかし、怪し気な男が信長だと気づくと、皆慌てて平伏した。
「上様とはつゆ知らず、ご無礼の段平にご容赦下されませ」
「……市はまだ起きておるか?」
 信長は宿直をじろりと睨みつけ尋ねた。
「半刻(一時間)ほど前に横におなり遊ばした」
 侍女が答えた。
「左様か……」
 信長はぼそりと呟き、諦めたらしく踵を返した。
「兄上様……」
 障子の向こう側から、お市の澄んだ声が聞こえて来た。
「起こしてしまったようじゃの。済まぬ市、許せよ」
「兄上様、私に何かご用がお有りとお見受け致しまする」
「大したようではない。明日にしよう」
「今、この場でお伺い致したく存じ上げ奉ります」
「相分かった。入るぞ市」
 信長が言うと、宿直がお市の寝所の障子を開けた。
 同時に、次女が慌てて燭台に近寄り、火打石を使って灯明皿の灯芯に火を点けた。
 お市は寝具から出て胸元を整え、片膝を立て畏まった。
 信長は妹の眼前に腰を下ろすと、胡坐を掻いた。
 お市の澄んだ眸を見詰めながら深呼吸した。
「人払いじゃ」
 信長が言うと、透かさずお市は宿直と侍女に命じた。
「下がれ」
「はい」
 宿直と侍女は頷き、退室した。
 人の気配が消えた頃合いを見図って信長が口を開いた。
「我が岳父斎藤道三殿は、帰蝶が儂の許の嫁ぐ折、短刀を渡しこう申されたそうじゃ。信長が噂通りの大うつけであれば、この短刀で刺せと」
「はい、義姉上様からお聞きしました」
「左様か……」
 信長は苦笑すると、話を続けた。
「市、其方は我が目、我が耳となるのじゃ。もし万が一長政がこの儂を裏切る時があれば、長政を討て」
「まあ、兄上様……何と恐ろしいこと申されまするか」
「よいな、市よ。浅井に嫁いだとしても、其方はこの信長の妹である。このこと決して忘れるでないぞ、肝に銘じておけっ」
 兄信長の目が恐ろしく、お市は思わず視線を逸らした。
 翌朝、輿に乗ったお市は供廻り衆に傅かれ、岐阜城大手門から出立した。織田木瓜の幟旗を掲げ、甲冑を身に纏った柴田、木下隊の将兵に護られながら、一路街道を西へ向かう。
 四月下旬の空にしては珍しく、西の聳える伊吹の峰に暗澹たる雲が垂れ込めていた。暫くすると驟雨に見舞われた。
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