元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第五章 お市御寮人

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 この年、永禄九年(一五六六)に、木下藤吉郎秀吉によって木曽川の河川敷墨俣に陣城が築かれたことによって、美濃攻めは一変した。翌永禄十年(一五六七)八月一日、秀吉は、稲葉良通、安藤守就、氏家直元の美濃三人衆を調略した。
 これが決定的になり、八月十五日、遂に信長は稲葉山城の攻略に成功して、岳父斎藤道三から数えて三代目に当たる龍興を伊勢に追放した。
 信長は、小牧山城から稲葉山城に居城を移すと、臨済宗の僧侶である沢彦宗恩の勧めに従い、岐阜と地名を改めた。十一月には天下布武の朱印の使用を開始した。
 信長の快挙を知った長政は、市橋長利を通じ、祝いの品として太刀や馬を献上した。
 そんなある日のことだった。長政がいつもように清水谷の浅井屋敷で漢書を黙読していと、ふらりと安養寺氏種が尋ねて来た。
「珍しいな三郎左衛門。どういう風の吹き回しじゃ?」
 長政は怪訝そうに問う。
「我が浅井の領内に、面白い男が住んでおりまする」
「勿体ぶらずに申せ、その男の名を」
「嘗て美濃国大野郡大御堂城であった竹中遠江守の倅でござる」
「大御堂城の竹中……あの竹半兵衛か、僅かな手勢だけで斎藤右兵衛大夫殿から稲葉山城を奪い取ったあの竹中半兵衛か……?」
「はい」
「その竹中半兵衛が、どうして我が浅井領内に……」
「斎藤家が滅び、美濃を追われ江北に逃れて来たのでござる。召し抱えてみては如何でござる、お屋形様?」
「上手くいくかの……」
 長政はどこかしっくりしない様子で言うと、読み掛けの漢書に視線を落とした。
 結局、竹中半兵衛は、浅井家に家禄三千貫で客分して召し抱えられ近江国浅井郡草野で暮らすことになった。

 年が明け、永禄十一年(一五六八)の正月を迎えた。
 小谷城本丸主殿謁見の間で、長政は年賀の挨拶のため登城した家臣たちを前にして、美濃岐阜城主織田信長との同盟締結と、お市との婚約を報告した。
「先方との話は既についている。安養寺三郎左衛門を我が浅井の使者に立て、早々に岐阜へ足を運んでもらう」
「仰せの儀、承知仕りました」
 氏種は居並ぶ家臣たちを前にして、主君長政に恭しく頭を下げた。
「お、お待ち下され、お屋形様……」
 狼狽えた様子で、綱親が口を挟んだ。
「如何致した善右衛門?」
 長政はじろりと宿老筆頭の綱親を見詰めた。
「織田殿との盟約、某は……」
「諄い。もう決めたことだ。否を申すなっ」
 長政は声を荒げた。
「然れど、お屋形様っ、今一度お考え直しを」
 綱親は顏を紅潮せ意見を述べた。
「拙者からもお願い申す」
 清貞が横から口を挟んだ。
「弥兵衛、その方までもかぁ!」
 長政は新年早々不機嫌になった。
「酒が不味くなる」
 するとそこに、京極丸で隠居暮らしをしていた久政が、浅井一門衆と老臣たちを伴って現れた。
「ご隠居様っ?」
 誰彼となく声を発した。
「……父上、これは珍しい。どういったご用件でござるか?」
 長政は腫れ物でも触るような顔をして険しい目つきで、久政を見詰めた。
 久政は口を真一文字に閉じ、無言のまま息子の顔を見ると、長政の隣に座った。
「この長政、父上に謹んで新年の祝いの言葉を申し上げまする」
「世辞などはいらぬ。新九郎、その方、織田と手を結び信長の妹を娶るそうじゃのう?」
「もう父上のお耳にも入りましたか」
「朝倉殿との盟約はどうする気じゃ?」
「はて……朝倉との盟約とは……如何なる仕儀でござろうか?」
 長政は、久政や家臣たちの前ですっ呆けた。
「我が父亮政公の代よりこの方、我ら浅井は朝倉殿に並々ならぬご温情を賜っておる。新九郎、それを肝に命じ努々忘れる出ないぞっ」
「この新九郎長政、もとより承知しております。此度の織田殿との盟約を結ぶに当たっては、万が一織田殿が越前朝倉殿を攻めるようなことが起こった時は、この長政に前もって知らせる手筈となっておりまする」
「……新九郎、それは口約束か?」
 久政は、隣に座る息子の顔を睨みながら尋ねた。
 問われ、長政はかぶりを振った。
「起請文を交わす所存でござる。それを安養寺三郎左衛門に持たせ、織田方のお使者市橋伝左衛門尉殿と交わす手筈となっております」
「確かなのじゃな……?」
「はい。間違いござらん」
「新九郎、今一つ尋ねたきことがある」
「はい。何なりと」
「もし織田殿が越前に兵を送ったならば、その方はどちらに味方する。皆の前ではっきりと申せ」
 久政が言うと、この場に集う家臣たちに動揺が走り、忽ちざわつき始めた。皆の視線は、長政一人の口許に集中していた。
「……」
 長政は、蚊の鳴くような声で言った。
「聞こえぬ。新九郎、皆に聞こえるように大きな声で申せっ」
「分かり申した。この浅井備前守新九郎長政は、大恩ある朝倉殿にお味方致し申す」
「よく申した。それでこそ我が息子じゃ。よいな、今其方の口から申した言葉忘れるでないぞ……邪魔したな。年寄りは、これで退散致すとする」
 久政が腰を上げた瞬間、浅井家臣たちは皆彼に平伏した。
 長政はひどく不機嫌になった。
 してやられた、父上に……皆の前で……、という腹立たしい気持ちで頭の中がいっぱいだった。
「俺は、気分が優れぬ。少し酒に酔ったようじゃ……外の冷たい風を浴びて参る。本日はこれでお開きじゃ、皆も早々に下がれ」
 そう告げ、一人長政は謁見の間を出て行った。
 渡り廊下を力いっぱい踏み歩いた所為で、板が軋む音が響いた。
 中庭に植えられた梅の枝に積もった雪が下に落ち、それに驚いた鶫が飛び立った。
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