元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第六章 上洛

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 永禄十一年(一五六八)七月、信長は義昭を上洛させるため、足利家被官和田惟正を通じ、村井貞勝、不破光治、島田秀満を朝倉氏の本拠地越前国一条谷に派遣した。同月十三日、義昭は三淵藤英、細川藤孝兄弟並びに明智光秀ら側近と共に越前国一条谷を離れ、一路江北小谷城へと向かった。
 その背景には、義昭の従兄弟である足利義栄が、三好一党に担がれ、この年の二月八日に朝廷から将軍宣下を受けたことにあった。しかし、室町幕府十四代将軍の座に就いた義英は、その後上洛することは一度もなかった。畿内では、義英を推す三好一党と対立する松永久秀との間で起こった抗争が激化しており、また義英自身が背中に悪性の腫瘍を患っていたため動けなかったのだ。
 従兄弟義英に先越された義昭は、正直なところ、かなり焦っていた。上洛を援助するといっておきながら、中々その重い腰を上げない朝倉に早々と見切りをつけ、岳父の遺言に従い美濃簒奪を成し遂げた信長を頼ることにしたのだ。
 光秀らに警護され越前国一条谷を出立した義昭一行は、十六日に浅井氏の拠点江北小谷城に入った。
「面を上げよ、予が左馬頭である」
 小谷城本丸主殿の対面の間で、上座に着く義昭は鷹揚な口調で告げた。
「義昭公、お初にお目掛かりまする。某が浅井備前にござります」
「うん、備前よ。其方を頼りにしておる」
「ありがたきお言葉を頂戴致し、この備前守長政身に余る誉れ」
 下座に着く素襖姿の長政は、三淵藤英、細川藤孝兄弟、明智光秀ら足利家御供衆が居並ぶその場で、恭しく額ずいてみせた。
 長政は、義昭一行を小谷城下の清水谷の屋敷で手厚く持て成した。
 浅井家臣から饗応を受けた義昭一行は、美濃へ向け出立した。二十二日美濃国に入り、亀甲山立政寺に逗留することになった。
 二十五日、義昭は立政寺で初めて信長と対面する。

 信長は義昭と会う前に、細川藤孝と明智光秀の両名に、岐阜城内の一室で内々に面談した。
「面を上げよ」
 信長の甲高い声が響いた。
 藤孝、光秀の両名は恐る恐る頭を上げ、信長を見やった。
 白と赤に塗り分けられた素襖に、金と銀の糸を使い織田家の家紋織田木瓜の刺繍をあしらった派手な格好の信長が二人の眼前にいた。
「義昭殿のご機嫌は如何かな」
「はぁっ……」
 藤孝の方は、どう答えたらよいのか分からず口籠った。
「はい、頗る上機嫌でござる」
 光秀が答えた。
「ふん、左様か」
 吐き捨てるように言うと、信長は首の後ろが痒いみたいなので掻いた。
「献上の品を用意させた。あとで家来共に寺へ運ばせる」
「して弾正忠殿、此度我ら両名の者を召し出された訳は?」
 怪訝に思い光秀が尋ねる。
「うん、他意はない。その方ら、上洛した暁には足利家被官のままでいるか、それともこの俺に仕える気はあるか、と問うたまでの子と」
 信長は恐ろしく低い声で言うと、藤孝と光秀の二人を交互に見詰めた。
「大変嬉しきお言葉を頂戴仕ったが、織田様、某は代々足利家に仕える三淵家の出でござれば、おいそれと主君を変えることは出来兼ねまする」
 藤孝は信長を前にし、臆することなく毅然とした態度で答えた。
「うん、左様か」
 信長は別段気にも留めていないようで、藤孝の言葉を聞き流す。
 そして藤孝の隣に座る光秀を見やった。
「その方は?」
「……」
 返答に困った光秀は沈黙してしまった。
 案の定、信長の顔が険しさを増した。眉間に深い縦皺が刻まれていく。
「ありがたき幸せなれど……」
「左様か、そちも断ると申すのじゃな」
「いいえ、その」
「まあよい。忘れろ。戯言じゃ」
 信長は冷笑を浮かべると、
「さて、これ以上義昭殿を待たせては悪い、そろそろ寺の方へ参ろうではないか」
 と告げ徐に腰を上げた。
 藤孝と光秀の両名は、書院を離れる信長に平伏した。
 信長と義昭の対面は、立政寺の本堂で執り行われることとなった。
 立政寺本堂には既に、主だった織田家の諸将が居並んでいた。
 そこに着替えを済ませた信長が小姓を従い現れた。先ほど派手な素襖でなく、地味な素襖を身に纏っていた。頭には烏帽子も被っている。嘗て、岳父斎藤道三と正徳寺で会見した折もそうだったように、貴人に面会する武士として身嗜みは彼なりに心得ていた。
 信長織田家臣団の上座に着くと、数人の者が渡り廊下を歩く足音が聞こえて来た。
 藤英、藤孝兄弟、光秀ら御供衆に伴われた義昭が、織田家臣団の前に現れた。彼らはそのまま上座に着いた。信長を始めとする織田家側は、皆恭しくその場にひれ伏した。
「予が左馬頭である。皆の者、苦しゅうない面を上げよ」
 義昭は相変わらず鷹揚な口調で告げる。
「はっ」
 信長がゆっくりと頭を上げ、上座に着く義昭を見やった。
 主君に倣うように、柴田勝家を筆頭に織田家臣団の面々も頭を上げた。
「上様におかれましては遠路遥々、斯様な辺鄙な処にお出で遊ばし、この弾正忠信長まことに恐悦至極」
「ふむ、大儀である」
「ははぁっ」
 信長は形ばかりであるが、額ずいてみせた。
「さて、某、あちらに上様のために用意させた品々がござればご覧あれ」
 信長は本堂に隣接した書院に顎を向けた。
 つられ義昭も目を向ける。
「ふむ、予のための品々とは……」
 義昭は何事かと思い、首を傾げた。
「某が案内致しまする。どうぞこちらへ」
「相分かった」
 信長の案内で、義昭主従は献上の品々が用意された書院へ足を運んだ。
 書院には、銅銭、太刀、武具など献上の品々が所狭しと並んでいた。
「おおうっ何とっ!?」
 自らへの献上の品々を見るなり、義昭は驚嘆の声を上げた。
「こ、これをみな、この儂に下さるのか……織田殿?」
 自が出てしまった。義昭は幼くして俗世を離れ僧侶として育てられた故、こういったことに慣れていなかったのだ。
 信長は、その酷薄な薄い唇の端に冷笑を浮かべ、静かに頷いた。
「はい。この品々は全て上様のために某が用意させたものばかりでござる。どうぞお納め下さい」
「忝い、織田殿。見よ、弥四郎、与一郎、十兵衛。ここにあるもの全て、織田殿が儂のために用意して頂いた品じゃそうじゃ。このような款待を受けるのは生まれて始めじゃ」
 義昭は興奮気味に語った。
「上様におかれましてはご満足頂き、この弾正忠信長、用意させた甲斐がござった」
「信長殿、これからも末永くお頼み申し上げまする。儂は、儂は信長殿だけが頼りじゃ、信長殿だけが頼りなのじゃ」
 義昭は満面の笑みを浮かべ、全身で悦びを表現した。

 義昭との会見を無事に済ませた信長は、岐阜城に戻ると、早速細川藤孝と明智光秀の両名を呼びつけた。
「噂に違わぬ浮世離れしたご仁よ、義昭殿は」
 信長は平然と口にした。
「あのお方が、これから我が一丸となって担がねばならぬ神輿でございまする」
 藤孝は、上座に座る信長を見据えたまま意見を述べた。
「であるか」
 信長は、低い声で頷いた。
「して、織田殿。ご上洛の日取りは?」
 光秀が信長に問い掛けた。
「うん、斯様に暑くて兵どもの身がもたぬ故、もう少し和らいでからだ。そうじゃな、九月に入ってからでどうだ」
「九月で、ござりまするか」
「左様じゃ、明智よ。何か都合でも悪いのか」
「いいえ、滅相も」
「うん、易学に長じた軍師に吉日を占わせ、出陣の日取りを定めよ」
「はっ」
 藤孝と光秀は声を揃え、信長に平伏した。
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