元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第六章 上洛

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 八月に入って間もない頃である。季節は既に夏から秋に移っていた。
 小谷城下の清水谷の屋敷で、長政は愛妻お市の方が暮らす奥へ足を運んだ。その足捌きは、心持ち軽やかであった。
「市っ。岐阜の義兄上様から書状が届いた。一つは俺宛、もう一つは其方に下されたものじゃ」
 襖障子を開けるなり、長政は弾んだ声で告げた。
「兄上から……」
 お市はどこか不安気に首を傾げる。
「何じゃ、嬉しゅうないのか」
 怪訝に思い、長政も小首を捻った。
 お市は、兄信長から届いた書状を、夫長政から手渡され、
「左様なことはございません。嬉しゅうございます」
 と答えた。
 信長が妹お市のために、書状をしたためることなど滅多にはなかった。それ故、彼女は夫が目の前にいるにも拘らず困惑したのだ。
「俺宛の文には、此度義昭公を奉じての上洛の日取りが目出度く決まった、と書いてあった。して、其方の方には何と書いてあった」
「……同じようなことが綴られておりました」
「左様か……うん? どうした?」
 長政が尋ねる。
「途中佐和山のお城に立ち寄られるとのこと、久し振りに私の顏が見とうなったと、兄上は仰せでございます」
「左様か、佐和山城に……」
「はい」
 お市は夫長政の双眸を見据え頷いた。
「早速饗応役を決めねばならぬな……市よ、誰が適任と思う、遠慮脳申してみよ」
「はい」
 お市は一礼すると、
「遠藤喜右衛門殿か、磯野丹波殿当たりが適任かと」
 と長政に進言した。
「相分かった。然らば其方の意見を聞き入れて、遠藤喜右衛門に義兄上の饗応役の任を命じよう」
 長政は、愛妻の意見と自分の意見が一致し、満足すると声を弾ませ告げた。
 その足で小谷城に登城すると、長政は早速直経を召し出した。小谷城本丸主殿対面の間で、直経が現れるのを待った。
 暫くすると、素襖姿の直経が長政の眼前に現れた。
「喜右衛門。此度、岐阜の織田殿が義昭公を奉じご上洛致されることに相成った」
「いよいよ上洛なされるか……して、お屋形様某を召しい出したるその訳は」
 直経は視線を逸らさず、上座に着く主君長政を見据えたまま問い掛けた。
「喜右衛門、ついてはその方に義兄上の饗応役を任せたい」
「饗応役? 某が、信長殿の……?」
 突然のことに直経は驚きの表情を浮かべた。
「お市のたっての願いじゃ、聞き届けよ」
 言いながら長政は直経の反応を窺った。
「奥方様の願いとあらば某お引き受け致さぬ訳には参りませぬな。承知仕った」
 直経は凄く真剣な顔つきになった。
 この時、直経は信長を密かに暗殺しようと企んだ。
 織田信長という男を生かしておくと、何れ浅井家に仇となる存在だと確信したのだ。

 八月七日。信長は長政と対面するため、磯野員昌の佐和山城を訪れた。
「義兄上、初めて御意を得ます。某、浅井備前守長政にござる」
 佐和山城本丸御殿対面の間で、長政は信長と面会した。
「であるか、俺が織田弾正忠信長じゃ」
 信長はきっと長政を見詰めた。
「義兄上、あちらに宴の席を設えてあります」
 長政は顎を墨絵が描かれた襖障子に向けた。
「ふむ」
 信長は小さく頷いた。
 この場に同席する浅井家臣は、佐和山城主磯野員昌、遠藤直経、浅井縫殿助、中島九郎次郎らである。対する織田家臣は、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀ら重臣、そして木下秀吉の姿も末席にあった。
 饗応役に案内され、信長たちは宴の席に着いた。しかし生憎信長は下戸で、酒を嗜む習慣はなかった。
「備前守殿、市は達者であるか」
「はい、お市も二人の子らも健やかでござる」
「然様か……。次は、是非とも市と子らに会いたいの」
「これは気づきませなんだ。平にご容赦を」
 長政は、信長との対面に妻子を同伴しなかったことを深く詫びた。

 この席に於いて信長暗殺を計画していた直経は、長政が中座しないため、計画実行の許可を得られず、已む無く小谷城の久政の許に人を遣わした。
 数刻後、久政から返答があった。厠に行くと言って中座した直経は、別室で久政から書状を開き中身を確認した。
「ご隠居様は何と仰せでござるか」
 浅井縫殿助が尋ねる。
「人の道に外れると仰せじゃ」
 直経は憮然とかぶりを振った。
「儂は、刺し違えてもこの場で信長を殺める」
 直経は覚悟を決めた。
 しかし宴の席に戻ってみると、そこに木下秀吉の姿がなかった。直経は訝しく思い、小首を傾げた。
「木下殿は、如何された」
 直経は織田家臣の末席が空席なため、この場に同席する池田恒興に尋ねた。
「木下は先ほど厠に行くと言って席を離れたが、途中会わなかったのでござるか」
 恒興に問い掛けられ、直経は顎髭を紙縒りながら、
「然様でござったか」
 適当に誤魔化した。
「如何した喜右衛門っ」
 長政が直経を睨んだ。
「いえ、他意はござらん」
 直経はバツ悪く思い、神妙な面持ちを作り鼻を摩った。
 背後の襖障子が開き、秀吉が戻って来た。
「いやぁぁ、慣れぬ故迷うてしもうた……」
 半笑いを浮かべながら秀吉は末席に着き、斜め前に座る直経を見やる。猿顏を綻ばせ薄い笑みを浮かべている。
 信長は頗る機嫌がよく、長政との会話が弾んでいる。一方、信長暗殺の好機を逃した直経は、不機嫌気味に歯軋りをした。
 二刻(約四時間)ほど、佐和山城に滞在した信長一行は西日が琵琶湖の上に差した頃帰路に就いた。

 関ヶ原の峠に差し掛かった時、秀吉が信長の許に馬を寄せた。
「猿、先ほどは大儀であった」
「危のうござりましたな、御屋形様。遠藤喜右衛門め、御屋形様と刺し違える気でござった」
 秀吉は、配下の美濃川並衆蜂須賀党の細作から、予め信長暗殺の情報を得ていたのだ。機転を利かし、直経の動きを封じ、見事信長暗殺の機会を奪うことに成功した。
「して、猿。俺の命を狙ったのは、長政の差し金か、それとも彼奴の父親の」
 信長が恐ろしいほど冷たい目で秀吉に尋ねた。
「備前守(長政の官名)殿並びに下野守(久政の官名)殿の差し金ではござりません。恐らくは遠藤喜右衛門が一人の考えかと……。そうじゃな小六殿」
 秀吉は、蜂須賀小六に問い掛けた。小六は侍の身分ではないため、馬には乗れず徒歩のままだった。
 信長も小六を見た。
「藤吉郎殿が申される通りでござる」
「であるか……。あ奴、遠藤喜右衛門と申したな。喰えぬおとこよ、覚えておこう」
 信長は唇の端に薄笑みを浮かべた。そして髭を一撫ですると、馬の腹を蹴った。
 秀吉は離れていく馬上の信長の背中を目で追い、今日の宴の席で於市に会えるのではないかと期待していたが、それが外れてしまったことを少し悔やんでいた。
「お市様……」
 秀吉は口の中で思いを寄せる女性の名を呼んだ。

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