元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第七章 謀叛

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 光秀を無礼打ちしようと、信長が太刀の柄に手を掛けたまさにその時だった。
「木下藤吉郎めにございまする」
 と秀吉が現れた。
 信長は、その視線を光秀から秀吉に移した。
「何じゃ、猿っ!?」
 信長は秀吉を睨み付けた。
「一大事にござりまする。浅井備前守殿、御屋形様を裏切り、朝倉方に与した由に……」
「ん!? その方まで斯様な戯言を申すかっ!」
「虚説ではござりませぬ。お市様お付きの雑兵が先ほどこれを」
 と言って、秀吉は信長に紙縒りを差し出した。
「お市の使いの者じゃと……?」
 信長は秀吉から紙縒りを受け取ると、それを解いて広げた。
「何と書いてござる」
 光秀が問い掛けるが、信長は両肩を震わせ答えようとはしない。
「長政めがこの俺を裏切った……」
 信長は怒りのあまり声を震わせた。
「最早これ以上の進軍は無用でござる。この上は早う退くのが肝要かと存じ上げ奉る」
 光秀が言上するが、その言葉は信長の耳には届かなかった。
「な、何故浅井備前が……この俺をっ!? おのれ、長政め……」
 信長は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、歯軋りする。
「この猿めに殿軍を仰せ付け下さりませっ」
 秀吉は信長の前に進み、殿(しんがり)を志願する。
「木下殿だけでは心許ない。某も殿(しんがり)の役目を果たそう」
 光秀は秀吉に向かって言う。
「明智様……」
 秀吉は目を潤ませた。
「さっ、早う織田殿はお退き遊ばせ」
 光秀は信長に言上する。
 信長は光秀を一瞥し、その酷薄な唇の端に微笑を浮かべるのであった。
「……是非に及ばず」
 力なく言うと、信長は、
「木下藤吉郎、明智十兵衛、池田八郎三郎(勝正)の三名に殿軍を命じる。心して懸かれやっ」
「仰せの儀、十兵衛確と承知仕った」
「この猿め、我が命御屋形様に捧げまする」
「八郎三郎、承知致し申した」
 三名が、殿(しんがり)を拝命したのを確認し、信長は馬の頭を近江に向けた。馬上の人となった信長は、只管馬の尻に鞭を入れた。
 なお、殿軍の中心となった主力部隊は、定説通りの木下秀吉隊ではなく、此度の朝倉攻めの陣に加わるため三千名の将兵を率い、摂津池田城から越前入りした池田勝正であった。
 他には、最前線に陣取っていた徳川勢が、必然的に殿軍の役割を果たすことになった。
 義弟浅井長政謀叛の一報を聞いて、早々に陣払いした信長は、大和信貴山城主の松永久秀と親交がある朽木谷の土豪朽木信濃守元網を嚮導として、一路京を目指し湖西をひた走った。所謂これが朽木越である。その後、元網はこれを機に信長に仕えるようになった。

 義兄織田信長を裏切り、盟友朝倉義景に付いた浅井長政は、近江・越前国境へ向け進軍中であった。この時長政は、信長が既に浅井離反を知り退却を始めたことを知らなかった。
「間もなく国境じゃ。皆の者、心して懸かれ」
 馬上の長政は、手綱を強く握りしめた。
「応っ!」
 浅井の将兵たちの気合は充分に高まっていた。
 浅井勢の先鋒が近江・越前の国境に差し掛かった時、そこにいる筈の織田勢の姿はなく、蛻の殻だった。殿軍となった部隊だけを残し、足軽、雑兵までも含んだ一兵卒たりとも残さず、忽然と戦場から消えていたのだ。
「これは何としたことか!?」
 海北綱親が唖然とした表情で唸った。
「してやれました信長めに」
 と赤尾清綱が渋面を作った。
「ふん、露見していたか」
 遠藤直経が憮然と吐き捨てた。
「して、御屋形様如何致しまするか」
 綱親が長政の采配を仰ぐ。
「朝倉殿に遣いを」
 長政は短く告げた。
「はぁっ」
 綱親は一礼すると、使い番の騎馬武者に指示を出した。
 長政は夜空に横たわる天の川を見上げた。
 誰じゃ、一体誰が漏らしたのじゃ……?
 長政は怪訝に思い顔を顰めた。
 浅井離反を誰が信長に伝えのか?
 考えられることは一つある。
「お市か……まさかな?」
 長政は遣り切れない思いのまま嘆息を吐いた。

 元網を嚮導として、夜を徹して西近江の山中を駆けた織田勢は、翌三十日夜明けとともに入京した。
「我が織田木瓜と永楽銭の旗印を樹てよっ!」
 信長の甲高い声が、夜が明けたばかりの青白い京の空に響いた。
 信長を裏切った浅井と裏で通じ、朝倉と誼を結ぼうとする足利義昭と公達どもへの当て付けの意味が込められている。織田本隊は殆ど無傷のまま京に戻って来た、ということを見せつけてやらなくてはならない。
「勝三郎っ、勝三郎はおらぬかっ」
 信長は、乳兄弟の池田勝三郎恒興を呼んだ。
「俺は岐阜にとって帰る前に、あの腐れ公方に会って参る。そちは岐阜に残った留守居どもに此度のこと報せ、美濃・近江の国境を固めよ」
「はっ、確と承りました」
 恒興は一礼し、すぐさま拝命した内容を実行するべく動いた。
 浅井との盟約が手切れとなってしまったからには、国境に兵を差し向け警戒しなくてならない。更に厄介なことは、これまで上洛する折に通っていた中山道が、安全ではなくなったということだ。
「くっ、長政め、お市をくれやった筈なのに、よくも俺を裏切りおったな」
 信長は悔しさのあまり目を潤ませ、下唇を噛んだ。血が滲み出し、口いっぱい腥い血の臭いが広がった。
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