元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第八章 姉川の戦い

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 両軍の後詰めが到着後も、双方睨み合いの膠着状態が続いていた。
 織田・徳川連合軍に取り囲まれた横山城に籠る三田村左衛門尉国定以下将兵の士気は下がっていた。
 二十七日、深夜。
 大依山の朝倉方の本陣では、夜風を受け篝火が揺れていた。
「竜ヶ鼻に布陣する織田の本陣を奇襲致そう」
 と提案したのは、朝倉景健だった。
「奇襲でござるか?」
 床机に腰掛けたまま長政は首を傾げる。
「ご不満か、備前守殿は」
 少し訝し気に景健は問う。
「否、然にあらず」
 長政は徐にかぶりを振った。
「ならば他に良き手立てがおありか、備前殿の腹の内に」
「……分かり申した。朝倉殿が申された通り、我ら一丸となって織田の背後を衝きましょうぞ」
 長政は肩を怒らせながら言った。
 旧暦六月二十七日の夜空に浮かぶ月は細い。夜陰に乗じて浅井・朝倉連合軍は動いた。

 その頃、竜ヶ鼻の織田本陣では、物見の報告を受けた信長が訝し気に顔を顰め、眉間に皺を刻んだ険しい表情になった。物見を睨み返す。
「消えたじゃと? 大依山に布陣した浅井、朝倉の兵どもがぁ?」
「はっ、陣払いをして、忽然と消えました」
「解せぬ。彼奴らどこに行ったのじゃ……捜せっ、何としてでも捜し出せっ」
 信長は物見に厳命した。
「はっ」
 物見は恭しく一礼すると、信長の前から立ち去った。
「権六、どう思う?」
 信長は本陣に詰める柴田勝家に尋ねた。
「浅井備前、この横山城を見捨て、小谷城に籠る所存かと」
 勝家が意見を口にした。
 信長は勝家の隣に座る佐久間信盛を見やった。
「右衛門、そなたはどう思う?」
「某も柴田殿と同じく、浅井備前が横山城を見捨てたと見ております」
「ふむ、相分かった」
 信長はうんうんと何回か頷くと、末席に座る秀吉に目を遣った。
「猿っ、お前はどう考えておる。答えてみよ」
 顎をしゃくりながら信長は秀吉に問い掛けた。
「然らば謹んで申し上げます。此度の布陣、彼(か)の桶狭間の合戦に似とりゃす」
 秀吉の意見を聞いた途端、忽ち信長の顏から笑みが消えた。
「ん? 桶狭間の合戦じゃと!?」
 信長は恐ろしく低い声で問い返した。
 本陣に居並ぶ歴戦の猛者たちも、秀吉の言っている意味が分からなかった。
「猿。詳しく申してみよ」
「はぁっ、嘗て鵜殿藤太郎(長照)が籠る大高城に今川方として徳川様が兵糧をお運びになられました。その直後、お屋形様は寡兵を以って今川治部大輔が本陣を衝かれ。見事治部大夫輔義元の首級を挙げられました」
「阿呆戯けかぁ猿っ、そんなことはお前に言われんでも皆知っておるっ」
 呆れたように勝家が言い、他の織田家重臣たちも秀吉を嘲笑った。
 だが、信長ただ一人のみ、険しい表情を崩すことはなかった。
「浅井備前が、我が本陣を衝くと申すのじゃな、猿?」
「御意。今、横山城を取り囲む我ら織田方の最後尾は、この竜ヶ鼻に陣取るお屋形様の本陣。そこを背後から衝かれたら、今川治部大輔の二の舞い」
 秀吉の考えを聞いた途端、先ほどまで彼を猿と笑い馬鹿にしていた勝家以下織田家の重臣(おとな)どもは皆顔色をなくした。
「まさか斯様なことが……」
 臆病な信盛が震える声で言った。
「お屋形様、念のため本陣を余所にお移し遊ばせてみては如何でござるか」
 勝家が意見を口にした。
「ふむ。まあそれには及ばぬ。念のためじゃ、徳川殿の陣に使いの者を遣り、浅井、朝倉の動きに気を付けるよう申し伝えよ」
「はっ、承知致した」
 勝家は信長に一礼した。

 大依山に陣取っていた浅井・朝倉勢は、陣払いすると見せ掛け、二十七日の夜の間に大依山を下った。
「姉川を挟んだ対岸の竜ヶ鼻に織田の本陣がある。夜明けとともに襲うぞ」
 馬上の長政は、低い声で直経に告げた。
「承知仕った」
「朝倉殿には徳川を討って頂く。ここで信長と家康の両名の首を挙げ、我らがカチドキを挙げようぞっ」
「必ずや信長の首を討ち取りまする」
 清綱は長政に馬を寄せ言った。
 先鋒がもう直に姉川に到着する。織田勢は、浅井・朝倉勢が大依山を下り、姉川の北岸に向かったことをまだ知らない。
「下知あるまで仕掛けるなっ」
 何事も慎重な長政は、血気に逸る家臣団を諭すように言った。
「先の金ヶ崎の折は、織田の息の掛かった間者が、我が浅井家中に居たため、寸でのところで信長に逃げられた。しかし此度は逃がさん。彼奴は我らに背を向けておる。朝倉殿と合力して、織田信長と徳川家康を討ち取る」
 時刻は寅の下刻(午前五時頃)だった。
 辺りは青白い闇が晴れ、間もなく夜が開けようとしていた。
 浅井・朝倉連合一万三千は、姉川北岸に颯爽と布陣した。
 織田、浅井が雌雄を決する姉川の合戦が始まろうとしていた。
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