元亀戦記 江北の虎

西村重紀

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第八章 姉川の戦い

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 三つ盛亀甲の陣幕で覆われた浅井の本陣――。
 主だった家臣が集まり、嚮後に付いて軍議を重ねていた。
 信長が、小谷城攻略を諦め、横山城の攻略を始めたことは、既に長政の耳にも届いていた。
 それでも尚、長政は動こうとはしなかった。
「横山城が取り囲まれましたな」
 清綱は、未だ後詰めを出そうとしない長政に、それとなく援軍を送るよう促した。
「朝倉殿が来てから動く」
 長政は呟くように言った。
「それでは遅うござる」
 直経が異を唱えた。
「横山城に籠る三田村殿他方々は、後詰めなき故、皆お屋形様に見捨てられたと思いましょぞっ」
 カッと目を大きく見開き、直経は鬼気迫る顔付で言った。
「分かっておる。しかし織田の狙いは我が城から打って出ること。野戦に持ち込もうとしておるじゃ」
 戦上手な長政は、信長の企んでいることが手に取るように理解出来た。理解した上で、信長の姑息な戦法を目の当たりにし、苛立ちを隠せずにいたのだ。
 籠城戦に於いて城に籠る将兵は、後詰めがないと知ると忽ち士気が下がり、最終的には敵の降伏勧告を受け入れ、開城してしまう。敵と国境を接する前線の支城で、連鎖的にそういうことが起これば、芋づる式に次から次へと敵方に奔る城兵が現れることになる。東海道一と謳われた今川義元が桶狭間の合戦で討死し、その跡を継いだ氏真が、前線の城に後詰めを送らなかったがために、三河の地で戦っていた松平元康(後の徳川家康)が、織田に奔ったのだ。そして、武田が駿河に攻め入った際、今川方の諸将は主君氏真を裏切り、武田方に降り、結果戦国大名としての今川家は滅んだ。
 今、今川に起こった悲劇が浅井でも起ころうとしている。浅井家の諸将の中には既に織田方の手が伸び、疑心暗鬼になっている者も少なくはなかった。
 軍議を終えようとしていたその時だった。
 使い番が長政の前に現れ、片膝をついた。
「朝倉左衛門督殿がご一門、朝倉孫三郎殿、大依山に布陣っ」
 その報せを受けた瞬間、
「おおっ」
 浅井本陣に歓声が上がった。
「我らの手勢五千と合わせ、総勢一万三千っ。これで織田と互角に戦える」
 清綱は安堵の表情になった。
 しかし、長政はまだ蟠りを持っており、その表情は冴えなかった。
「如何なされたお屋形様?」
 清綱が怪訝そうに尋ねる。
「否、他意はない。案ずるな」
 長政は唇の端に卑屈な薄い笑みを浮かべた。

 一方その頃、横山城を取り囲む織田勢の竜ヶ鼻の本陣では、斥候の任に就いていた物見が戻って来た。
 足軽具足を身に着けた物見は信長間の前に進み出ると、
「朝倉勢、小谷城の東大依山に布陣した模様。その数八千っ」
「相分かった」
 信長は短く言った。
「その方らは、引き続き浅井、朝倉の動きを見よ」
 重臣(おとな)の佐久間信盛が、物見に指示を出した。
「はぁっ」
 物見は一礼し、竜ヶ鼻の本陣を離れた。
「……敵方の後詰めが来たか。徳川殿はまだか……」
 相変わらず信長は苛立ちを隠せず、床机に腰掛けたまま貧乏ゆすりをしていた。
 物見が立ち去ってほどなくしてから、今度は使い番が現れた。
 床机に腰掛け居並ぶ重臣に目礼し、使い番は信長の前に進み出た。片膝をつき一礼する。
「徳川三河守殿、ご着陣っ」
「おおっ、来たか徳川殿が……。ここにお通し致せ」
 信長は先ほどまで苛立ちが嘘のように破顏した。
「御意っ」
 家康が、三河の岡崎城から率いて来た徳川勢は、三千とも五千ともいう。
 江戸時代初期の旗本大久保彦左衛門忠教の著書『三河物語』による三千となっている。徳川家臣の服部半蔵による『服部犯三武功記』では五千から六千ということだ。また、武田の『甲陽軍鑑』によると五千と記されている。
 何れにしろ、家康率いる三河勢と織田本隊を合わせ総勢一万五千となり、数の上では浅井・朝倉勢とほぼ互角となった。
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