傾国の女 於市

西村重紀

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第一章

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 翌天文十六年(一五四七)初夏。
 森山城本丸主殿の奥の寝所で、北の方が女児を出産した。
「女子(おなご)か……」
 些か納得がいかない様子の信光は、低い声で唸ると小さく溜め息を吐いた。
「殿、姫様の御名は如何致しまするか」
 乳母が訊ねると、信光は庭の南天の枝を見ながら、
「壱、で如何じゃ」
 と吐き捨てた。
「壱とは、これ些か芸がございませぬな」
「ならばその方は何とする」
 だが乳母は答えようとはしなかった。乳母如きがあれこれと口出しすることではないのだ。
「壱が駄目ならば市と致す。決めた、儂はこの姫を市と名付ける。於市じゃ」
 江戸時代に、秋山内記なる人物が書いた徳川幕府歴代将軍の生母、御台所、側室の伝記である『以貴小伝』には、『諸書にしるす所、みな妹といふ、然るに渓心院といふ女房の消息をみしに、信長の従兄妹なりといふ、もしハいとこにておハせしを、妹と披露して長政卿にをく送られしにや』となっており、北の方が産んだ姫こそ、後に浅井長政の許へ嫁いだ於市の方である。

 於市が誕生した翌天文十七年(一五四八)、信光の兄信秀は、長年東海道の覇権を争っていた美濃の蝮こと斎藤山城守秀龍入道道三と、和睦することになった。それを裏で進めていたのが、二番家老の宿老平手中務丞政秀だ。彼は、信秀の嫡男信長の傅役でもあり、信長の幼少期から仕えていた数少ない人物の一人だ。
 和睦と姻戚関係を結ぶ背景には、前年の天文十六年(一五四七)の加納口の戦いの大敗があった。
 信秀は、越前の朝倉氏と結び、九月二十二日に斎藤氏の居城稲葉山城を攻めるべく美濃に侵攻した。だが、結果は五千人以上の将兵が討死するという散々なものだった。信秀の実弟で犬山城主の織田与次郎信康、家老で嫡男信長の傅役の一人青山三右衛門信昌も討死した。
 この天文十七年(一五四八)には、斎藤道三が三河岡崎城主の松平次郎三郎広忠と手を組み、更に広忠が駿河の今川義元と結び信秀に対抗した。そして、三月十九の第二次小豆坂の合戦に於いて、太原雪斎率いる今川勢に織田勢は大敗を喫してしまった。
 美濃の道三に敗れ、駿河の今川に敗れ、八方塞がりとなった信秀は、遂に政秀の進言を聞き入れ、道三との和睦の道を選んだ訳である。
「よくもまあ、あの蝮の道三入道が、愛娘をうつけの許へ嫁がせる気になったものじゃ」
 森山城の本丸主殿の居間で、近習からこの話を聞いた時、流石の信光も我が耳を疑ったほどだ。
「蝮殿も年には勝てぬか……。耄碌したものよ」
 呆れ果てたように言うと、信光は乳母に抱かれ乳を飲む於市に目をやった。その傍らでは、北の方が目を細め、健やかに育つ我が子を愛おし気に見詰めていた。
「美濃と結ぶか……それとも駿河今川か……二つに一つぞ」
 信光があれこれ思案していると、北の方がそうと夫の手を握り、耳元で囁いた。
「どちらか一つに決めずとも、お二つとも選べば宜しかろう」
「室よ、良きことを申すのぉ。流石は策士と謳われた内膳正(信定)殿が娘よ」
「お戯れを……父松平内膳(信定)は愚か者でございました」
「何故、斯様なことを申すのじゃ?」
 信光は怪訝気味に小首を傾げる。
「松平の宗家に楯突くも結局は勝てませなんだ……松平の一族の力を削いだだけ。三河は今川の手に渡りました」
「なるほどの。そちの目には我が舅殿がそのように映ったか」
「はい」
 北の方は頷くと、乳母の乳首を吸う愛娘の方に目を向けた。
「この於市には幸せになって貰いとうございます。良き殿方の許へ嫁がせて」
「何じゃ、その物言いはぁ、まるでこの儂が悪いと申しておるようなものじゃ」
「あら、殿のお耳には左様に聞こえましたか」
「些か口が過ぎるぞ」
 気分を害した信光は、顔を顰めたまま無言で立ち上がった。
「何処へ行かれる」
「厠じゃ」
 捨て台詞を吐き、信光は奥の間を離れた。
 渡り廊下をドンドンと音を立て歩く。ふと庭に目をやると、風を受け笹がそわそわと戦いでいた。
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