傾国の女 於市

西村重紀

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第二章

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 沢彦宗恩の予言通り、信長率いる織田勢は田楽桶狭間山で中食を摂る今川本陣の奇襲に成功した。生憎の篠突く雨の所為で、視界が悪く、また地面を叩きつける激しい雨音もあって馬の蹄の音が消え、織田勢が間近に迫るまで気づかなかったのだ。
 総大将の義元は最初、織田勢の奇襲を雑兵、足軽どもが喧嘩を始めたと勘違いしていた。
「あれは何じゃ……!?」
 風を受け靡く織田木瓜と永楽銭の幟旗を見て、義元は顔色を変えた。
「……織田の奇襲」
 信じられないと言った表情で、関口親永が声を震わせる。
「御屋形様、ここは危のうござる。こちらに輿を用意致しました故、御動座頂けたく存じ上げ奉る」
 朝日奈親徳が、足軽雑兵に命じ用意した輿を指差した。
 本来戦場に老いて武将と言うものは騎馬にて移動するものだが、義元と言う人物は余りの肥満体型であったため、馬に跨ることが出来ず仕方なく輿を移動手段に用いていたのだ。
 それが仇となり、敵方に易々と総大将今川義元の所在を明らかにしてしまった。

 木下藤吉郎は、信長の密命を受け、早い時期から手下の乱波を、駿河、遠江、三河の今川領内に潜入させていた。
 その上で藤吉郎は、
「御屋形様、今川治部殿は胴長短足故、馬に乗ることが出来ませぬ。何処に行くにも彼の御仁は輿を使います」
「相分かった。ならば戦場で輿に乗った人物こそが今川治部大輔義元本人と見て相違ないっ」
 奇襲作戦に入る前、信長はこの合戦に参加する家臣たちに、狙うのは今川義元一人だけ、義元は必ず輿に乗っている、他の者には目をくれるな、討ち取った敵兵の首はその場で打ち捨て捨てよ、と厳命していた。
 歯向かう今川方の武将を斬り捨て、織田勢は信長の厳命通り義元ただ一人に狙いを定め、なだらかな桶狭間山の斜面を駆け上がって行った。
 大混乱の最中、二つ引両と赤鳥の幟旗や旗指物が倒され、足軽たちによって踏み荒らされて泥塗れになっていた。泥濘に足を取られ、義元を乗せた輿を担ぐ足軽、雑兵たちは思うように斜面を歩くことが出来ないでいた。
「ん!? あれはぁっ!?」
 毛利新介良勝が、足軽に担がれ逃げ惑う輿に乗る肥満体の武将をその視界に捉えた。
「間違いないっ、あれこそは今川治部っ!」
 服部小平太一忠が叫んだ。
 両名は同時に義元らしき人物が乗る輿に駆け寄った。
「ひっひいぇぇぇぇぇぇーっ!」
 輿を担いでいた足軽は、義元をその場に放り出し、我先に逃亡する。義元の馬廻衆が、抜刀し織田方の将兵に手向かう。刀や槍が激しくぶつかり、火花が散った。
 義元は、嘗て舅である武田信虎から婿引出物として贈られた宗三左文字の刀を抜き、自らも織田方と戦う覚悟を決めた。
「我こそが源朝臣足利治部大輔今川三河守義元なりっ」
 義元は総大将らしく名乗りを上げ、刀を振った。
「織田上総介が家臣、服部小平太見参っ」
「同じく毛利新介っ」
「ふむ。懸かって参れぇっ」
「いざっ」
 先ず、小平太が槍を義元の足に突き刺し、彼の動きを封じた。しかし、義元も必死の形相で抵抗を試み、刀を振るい、小平太の膝を斬った。
 すると新介が義元に向かって飛び掛かり、巨体をその場で押し倒し、馬乗りになった組み伏せた。
「御覚悟召され、治部大輔様。御生涯遊ばせ召し」
 脇差を抜き、新介は義元の喉元に突き立てた。その時、義元の抵抗に遭い、新介は指を噛み千切られた。だが、力を込めて白刃を首筋に押し込め、義元の息の根を止めた。
 大動脈が切断され、鮮血が宙を舞った。返り血を浴びた新介の顔面が真っ赤に染まった。
「織田上総介三郎信長が家臣、毛利新介良勝っ、今川治部大輔義元殿の御首級、討ち取ったりっ!!」
 新介は高々と誇らしげに宣言し、たった今討ち取った義元の鉄漿首を五月の天に掲げた。
「織田上総が家臣、毛利新介殿が、今川治部様が御首級頂戴仕ったぁぁっ」
 味方に知らせるため、その場に居合わせた織田方の将兵が大声で叫んだ。
 怒涛が沸き起こった。
 今川勢は、総大将の討ち死にを知った途端戦意喪失となって、戦場から逃亡する者が現れた。
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