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第三章
二
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永禄九年(一五六六)八月。
尾張国、小牧山城本丸、奥御殿。
「市、近江矢島におわす足利義秋殿の遣いが参ったそうじゃ」
信長は愛妾於市と戯れながら、耳元で囁くように告げた。
「して殿、如何遊ばすおつもりですか……?」
於市は白い湯帷子の上か信長の胸に人差し指でのの字を書いてみせた。
「会うてみようと思っておる」
「彼のお方は、亡き公方様の御舎弟様と御聞きしております」
「然様じゃ。つまり義秋殿の狙いは上洛。京に上って都から三好一党を追い出し、将軍になることが夢。そのためこの俺に露払いをせよ、と仰せじゃ」
「されど殿、都はこの尾張からは遠ございます」
於市が含み笑いを浮かべながら言った。
すると信長は一瞬渋面を作った。
尾張から山城へ向かうには、いくつかの道があった。一つ目は先年信長が初めて上洛した時と同じように伊勢を経て鈴鹿越えだ。二つ目は美濃を通り近江を経て都に出る。何れにせよ、美濃斎藤、北近江浅井、南近江六角、伊勢北畠と言った名立たる戦国大名が信長の行く手に待ち構えていた。
「市、腹の子共々嫁いでくれ」
信長の思い掛けない提案に於市は狼狽し、言葉を失ってしまった。
「……嫌っ、嫌でございます」
愛する男からのあまりの仕打ちに、於市は激しく取り乱した。
この時、彼女の腹の中には信長の子供がいたのだ。
「嫁ぎ先は北近江浅井じゃ。俺は浅井と手を結ぶことに決めた」
「嫌ぁっ、嫌です。妾は殿のお傍を離れとうはございません」
悲し気な目をして、於市はかぶりを振り続ける。そして少し目立ち始めたお腹を摩る。
小牧山城本丸主殿対面の間で、信長は足利義秋の使者と会った。
「某、先の公方様の御供衆を務めておった細川与一郎藤孝でござる」
信長を見据えたまま名乗った藤孝は、烏帽子を被った頭を下げた。身に纏う直垂は色鮮やかな海松色。
対する信長は、黒と赤の地に金糸で織田木瓜の家紋を入れた大紋だ。
「兵部大輔殿、遠路遥々斯様な山奥によう御越し下さったと、申し上げたいところじゃが、某、生憎なところ無作法故、都の仕来りを知らぬ」
ぶっきら棒に言うと信長は、藤孝の斜め後ろで平伏する初老の武将に目を向けた。烏帽子を被り、水浅葱色の素襖姿だ。
「ふむ、その方、何度か会ったな。最後に会ったのは十年、いやもう少し前だったか、正徳寺で舅殿と対面した折、斎藤の御家来衆の末席で見た顔じゃ」
「はい。よく覚えておられまするな。如何にも某、斎藤山城守入道道三殿に従い正徳寺へ参った折、織田様の御顔を拝見致しております」
初老の武将は、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「名は何と申す」
「明智十兵衛光秀と申しまする。道三公亡き後、只今は越前朝倉殿の御恩情に甘え捨扶持を頂いておりまする」
「ほう、やはりあの十兵衛であったか……久しいの」
「はい。ご無沙汰しておりまする。して織田様、奥方様はご健勝でございますか」
「奥方? ん、帰蝶のことか」
「はい。僭越ながら、某と織田様の奥方様とは従兄妹同士にいて」
「おう、そうであったな」
信長は忘れていたことを思い出し、素っ気なく言った。
於市と男女の関係なって以来、信長は正室帰蝶とは疎遠になった。元々、尾張織田と美濃斎藤の両者の仲を結びつけるためだけの政略結婚だったのだが、道三亡き後はその意味を持たなくなってしまった訳だ。とは言え、実家へ戻す訳にいかず、未だ身分は正室として小牧山城の奥御殿でひっそりと暮らしている。
「会ってみるか十兵衛」
「奥方様にでござるか」
「然様じゃ、せっかくこんな辺鄙な山城まで訪ねて参ったのじゃ、帰蝶に会ってやってくれ」
「さりとて今更どのような顏をして会えば宜しいのか、困り申す」
「十兵衛、何故そちが困るのじゃ」
「拙者、今は朝倉殿から捨扶持を頂く身。遂この間までは牢人でござった故。それに今は細川兵部大輔殿のお供に加わり、足利義秋公の名代として」
「然様でござる、織田殿。某とここに控える明智の二人は、織田殿に是非とも御力添えを頂きたく罷り越した次第にて」
藤孝がここぞとばかり口を挟んだ。
前将軍の実弟で、辛くも難を逃れ、今は近江国八島御所で暮らしている義秋の使者として、信長の前に現れた本当の理由を語り始めた。
「一色左京大夫(義龍)殿が一子、一色式部大輔(龍興)殿と和睦し、義秋公を援け早々に御上洛して頂ければ、当方もこれ幸いでござる」
「斎藤と和議を結べと仰せか、そこもとはっ!?」
信長は藤孝を睨みつけた。
すると忽ち藤孝は、蛇に睨まれた蛙に固まってしまった。
「時期尚早じゃ。俺が小牧山を留守にしたその隙を狙って、約定を反故にし、斎藤の者に攻め入られては叶わんからな」
信長は本音を口にした。
藤孝は口を真一文字に閉じ、困り果てた表情となった。脇に控える光秀の顏をチラリと見やった。
光秀は小さく頷くと、
「某が説得致す」
毅然と答えた。
「相分かった、ならば十兵衛、そちに任せよう、やってみよ」
「承知仕った」
光秀は自信に満ちた顔をして、信長に一礼した。
尾張国、小牧山城本丸、奥御殿。
「市、近江矢島におわす足利義秋殿の遣いが参ったそうじゃ」
信長は愛妾於市と戯れながら、耳元で囁くように告げた。
「して殿、如何遊ばすおつもりですか……?」
於市は白い湯帷子の上か信長の胸に人差し指でのの字を書いてみせた。
「会うてみようと思っておる」
「彼のお方は、亡き公方様の御舎弟様と御聞きしております」
「然様じゃ。つまり義秋殿の狙いは上洛。京に上って都から三好一党を追い出し、将軍になることが夢。そのためこの俺に露払いをせよ、と仰せじゃ」
「されど殿、都はこの尾張からは遠ございます」
於市が含み笑いを浮かべながら言った。
すると信長は一瞬渋面を作った。
尾張から山城へ向かうには、いくつかの道があった。一つ目は先年信長が初めて上洛した時と同じように伊勢を経て鈴鹿越えだ。二つ目は美濃を通り近江を経て都に出る。何れにせよ、美濃斎藤、北近江浅井、南近江六角、伊勢北畠と言った名立たる戦国大名が信長の行く手に待ち構えていた。
「市、腹の子共々嫁いでくれ」
信長の思い掛けない提案に於市は狼狽し、言葉を失ってしまった。
「……嫌っ、嫌でございます」
愛する男からのあまりの仕打ちに、於市は激しく取り乱した。
この時、彼女の腹の中には信長の子供がいたのだ。
「嫁ぎ先は北近江浅井じゃ。俺は浅井と手を結ぶことに決めた」
「嫌ぁっ、嫌です。妾は殿のお傍を離れとうはございません」
悲し気な目をして、於市はかぶりを振り続ける。そして少し目立ち始めたお腹を摩る。
小牧山城本丸主殿対面の間で、信長は足利義秋の使者と会った。
「某、先の公方様の御供衆を務めておった細川与一郎藤孝でござる」
信長を見据えたまま名乗った藤孝は、烏帽子を被った頭を下げた。身に纏う直垂は色鮮やかな海松色。
対する信長は、黒と赤の地に金糸で織田木瓜の家紋を入れた大紋だ。
「兵部大輔殿、遠路遥々斯様な山奥によう御越し下さったと、申し上げたいところじゃが、某、生憎なところ無作法故、都の仕来りを知らぬ」
ぶっきら棒に言うと信長は、藤孝の斜め後ろで平伏する初老の武将に目を向けた。烏帽子を被り、水浅葱色の素襖姿だ。
「ふむ、その方、何度か会ったな。最後に会ったのは十年、いやもう少し前だったか、正徳寺で舅殿と対面した折、斎藤の御家来衆の末席で見た顔じゃ」
「はい。よく覚えておられまするな。如何にも某、斎藤山城守入道道三殿に従い正徳寺へ参った折、織田様の御顔を拝見致しております」
初老の武将は、唇の端に薄い笑みを浮かべた。
「名は何と申す」
「明智十兵衛光秀と申しまする。道三公亡き後、只今は越前朝倉殿の御恩情に甘え捨扶持を頂いておりまする」
「ほう、やはりあの十兵衛であったか……久しいの」
「はい。ご無沙汰しておりまする。して織田様、奥方様はご健勝でございますか」
「奥方? ん、帰蝶のことか」
「はい。僭越ながら、某と織田様の奥方様とは従兄妹同士にいて」
「おう、そうであったな」
信長は忘れていたことを思い出し、素っ気なく言った。
於市と男女の関係なって以来、信長は正室帰蝶とは疎遠になった。元々、尾張織田と美濃斎藤の両者の仲を結びつけるためだけの政略結婚だったのだが、道三亡き後はその意味を持たなくなってしまった訳だ。とは言え、実家へ戻す訳にいかず、未だ身分は正室として小牧山城の奥御殿でひっそりと暮らしている。
「会ってみるか十兵衛」
「奥方様にでござるか」
「然様じゃ、せっかくこんな辺鄙な山城まで訪ねて参ったのじゃ、帰蝶に会ってやってくれ」
「さりとて今更どのような顏をして会えば宜しいのか、困り申す」
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「拙者、今は朝倉殿から捨扶持を頂く身。遂この間までは牢人でござった故。それに今は細川兵部大輔殿のお供に加わり、足利義秋公の名代として」
「然様でござる、織田殿。某とここに控える明智の二人は、織田殿に是非とも御力添えを頂きたく罷り越した次第にて」
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