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第三章
四
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北近江小谷城下の清水谷にある浅井屋敷の奥書院で、浅井長政が漢書を黙読していると、そこに血相を変えて父の久政が現れた。
「聞いたぞ新九郎(長政の仮名)。信長の妹を娶るそうじゃのっ!?」
父上のお耳にも届きましたか」
長政は素っ気なく言った。
「しかも孕み腹と申すではないか。噂では腹の子の父親は実の兄の信長であると聞く。もし、これがまことの話であれば、犬畜生の如き所業。まさに信長は噂通りのうつけ者っ」
久政は、信長とその妹於市との近親相姦を疑った。
「……父上、実を申せば於市殿は信長殿の妹御ではござらん」
「ふむっ、妹ではないじゃとっ!?」
久政は訝しげに眉根を寄せた。
「はい」
頷くと長政は、
「信長殿の叔父孫三郎信光殿の娘御でござる」
「何とっ、信長めは実の妹と偽り、己が手を付けた女を嫁がせる気かぁ……」
久政は呆れ顔で言うと、至極残念そうに徐にかぶり振った。
「そこまでして其方は織田に媚びる気か」
「心外でござる。某は織田殿に媚びているつもりは毛頭ござらん。媚びると申せば、父上こそ越前の朝倉殿に気を使い媚びおられるではないか」
「えいっ、申してよいことといけないことがあるっ。口を慎め、新九郎っ」
「父上の顔を見ておると気分が優れませぬっ」
長政は吐き捨てると立ち上がった。
「どこへ行く気じゃ」
「遠駆けでござる」
父久政の顔も見ずに言い捨て、長政は奥書院を離れた。
幽邃な庭園に面した広縁を不機嫌な足取りで歩き出した。
「喜右衛門っ、遠駆けに出るっ。供を致せっ」
長政は最も信頼する側近の一人である遠藤喜右衛門直経を呼んだ。
右頬に戦で受けた古傷がある直経が長政の前に現れ、片膝を衝いた。
この男は、長政がまだ猿夜叉丸と呼ばれていた幼少の頃より仕えていた重臣であった。
嘗て浅井家が南近江の六角家に服従していた折、六角家の重臣家臣平井定武の娘を長政が離縁したことがあった。その際、浅井玄蕃允と共に平井の娘を送り届けたのが直経であった。
「ご機嫌が優れませぬか御屋形様」
馬を並べ並走する直経が長政に問い掛けた。
「ああ」
小さく頷くと、長政は馬の尻に鞭を入れ、腹を蹴った。
山本山を越え、琵琶湖岸の尾上まで一気に駆け抜けた。
「織田に与すること、そちも反対か」
琵琶湖岸の砂浜に馬を止め、長政は直経の顔も見ずに問うた。長政が視線を注ぐその先には竹生島が浮かんでいた。
嘗て、長政が浅井家の家督を継ぐ際、父久政を一時的に追放した地が目の前に浮かぶ竹生島であった。
「反対ではござらぬが、何れ朝倉殿との間に遺恨が生じる筈でござる」
「然様か」
ここで振り返り、漸く長政は直経の顔を見やった。
「その折、御屋形様は織田殿と朝倉殿の何れに御味方致されるご所存かぁっ。それによって我らが浅井家の命運が決まりまするぞ」
長政は、直経のこの質問に答えることなく暫くの間湖上に浮かぶ竹生島を見やった。
その日は朝から雨が降っていた。美濃・近江の国境を越えた時、篠突く雨が嘘のように止み、伊吹の峰に虹が架かった。
「虹か……」
北近江浅井家に輿入れする於市の方の花嫁行列を警護する柴田勝家は、不吉な予感を覚えた。
古来、虹が架かると良くないことが起こる前触れであるとされる。
「柴田殿っ」
と、同じく警護の任に就く秀吉が勝家を呼んだ。
「何用じゃ猿。下郎の分際で軽々しく儂の名を呼ぶなっ」
勝家に恫喝された秀吉はムッとした表情を作り、
「あれを」
と指さした。
「んっ!?」
勝家は目を細め、秀吉が指差す先を凝視した。
丸に井桁の浅井の家紋が入った旗印が、伊吹山の麓に樹っているのが見えた。
甲冑を纏った騎馬武者が近寄って来た。
「於市御寮人のお輿入れのお行列とお見受け致す」
「如何にも然様でござる。其処許はっ」
勝家が訊ねる。
「拙者は、浅井家臣の遠藤喜右衛門と申す。我が殿、浅井備前の命を受け、参上仕った次第。これより先は我が浅井の手の者が於市様のお輿の警護を承りまする故、織田家中の方々はお引き取り頂きたい」
「何じゃとっ!?」
忽ち勝家は不機嫌になった。腰に帯びた太刀に手を掛ける。
「むむっ」
血の気が多い直経も馬上か勝家を睨み付ける。
「し、柴田殿……」
あたふたと狼狽えた秀吉が、勝家と直経の間に割って入った。
「如何致した?」
輿の御簾を少し上げ、於市は臨月に近い腹を摩りながら問うた。
「お、於市様っ、この者が……」
勝家は於市を見やったあと、バツ悪く思い頭を掻きながら直経に視線を移す。
「はっ!?」
直経は即座に馬から飛び降りた。
「お初にお目に掛かりまする。某は浅井家臣の遠藤喜右衛門と申しまする。この先は、我が浅井の者が於市御寮人のお輿の警護を致しまする」
直経は輿の傍で片膝を衝き言上した。
「お役目、大儀でございまする」
と於市は直経に言葉を掛けてから、
「されどその義には及ばずとも結構でございます。妾の達ての願いを我が兄信長が聞き届け、権六と藤吉郎の二人に警護の任せた故」
言いながら於市は、自分が乗った輿の傍に侍る甲冑姿の秀吉を見やった。
「という訳じゃ遠藤殿。於市様の達手のご所望故、この権六勝家と猿めが於市様の警護の任を務めることに致す」
勝家は勝ち誇ったように破顔した。白い歯を見せ、ケラケラと笑った。
「むむむ……ならば仕方ござらん」
直経は嘆息を吐き、於市に一礼すると馬に跨った。腹を蹴って馬を走らせる。
「おいっ、猿っ。何をぼうっと見ておる。行くぞ、早よ致せ」
勝家は顎をしゃくって秀吉の尻を蹴飛ばした。
「へい、柴田殿」
秀吉は遜ったように勝家に応えた。
「聞いたぞ新九郎(長政の仮名)。信長の妹を娶るそうじゃのっ!?」
父上のお耳にも届きましたか」
長政は素っ気なく言った。
「しかも孕み腹と申すではないか。噂では腹の子の父親は実の兄の信長であると聞く。もし、これがまことの話であれば、犬畜生の如き所業。まさに信長は噂通りのうつけ者っ」
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「……父上、実を申せば於市殿は信長殿の妹御ではござらん」
「ふむっ、妹ではないじゃとっ!?」
久政は訝しげに眉根を寄せた。
「はい」
頷くと長政は、
「信長殿の叔父孫三郎信光殿の娘御でござる」
「何とっ、信長めは実の妹と偽り、己が手を付けた女を嫁がせる気かぁ……」
久政は呆れ顔で言うと、至極残念そうに徐にかぶり振った。
「そこまでして其方は織田に媚びる気か」
「心外でござる。某は織田殿に媚びているつもりは毛頭ござらん。媚びると申せば、父上こそ越前の朝倉殿に気を使い媚びおられるではないか」
「えいっ、申してよいことといけないことがあるっ。口を慎め、新九郎っ」
「父上の顔を見ておると気分が優れませぬっ」
長政は吐き捨てると立ち上がった。
「どこへ行く気じゃ」
「遠駆けでござる」
父久政の顔も見ずに言い捨て、長政は奥書院を離れた。
幽邃な庭園に面した広縁を不機嫌な足取りで歩き出した。
「喜右衛門っ、遠駆けに出るっ。供を致せっ」
長政は最も信頼する側近の一人である遠藤喜右衛門直経を呼んだ。
右頬に戦で受けた古傷がある直経が長政の前に現れ、片膝を衝いた。
この男は、長政がまだ猿夜叉丸と呼ばれていた幼少の頃より仕えていた重臣であった。
嘗て浅井家が南近江の六角家に服従していた折、六角家の重臣家臣平井定武の娘を長政が離縁したことがあった。その際、浅井玄蕃允と共に平井の娘を送り届けたのが直経であった。
「ご機嫌が優れませぬか御屋形様」
馬を並べ並走する直経が長政に問い掛けた。
「ああ」
小さく頷くと、長政は馬の尻に鞭を入れ、腹を蹴った。
山本山を越え、琵琶湖岸の尾上まで一気に駆け抜けた。
「織田に与すること、そちも反対か」
琵琶湖岸の砂浜に馬を止め、長政は直経の顔も見ずに問うた。長政が視線を注ぐその先には竹生島が浮かんでいた。
嘗て、長政が浅井家の家督を継ぐ際、父久政を一時的に追放した地が目の前に浮かぶ竹生島であった。
「反対ではござらぬが、何れ朝倉殿との間に遺恨が生じる筈でござる」
「然様か」
ここで振り返り、漸く長政は直経の顔を見やった。
「その折、御屋形様は織田殿と朝倉殿の何れに御味方致されるご所存かぁっ。それによって我らが浅井家の命運が決まりまするぞ」
長政は、直経のこの質問に答えることなく暫くの間湖上に浮かぶ竹生島を見やった。
その日は朝から雨が降っていた。美濃・近江の国境を越えた時、篠突く雨が嘘のように止み、伊吹の峰に虹が架かった。
「虹か……」
北近江浅井家に輿入れする於市の方の花嫁行列を警護する柴田勝家は、不吉な予感を覚えた。
古来、虹が架かると良くないことが起こる前触れであるとされる。
「柴田殿っ」
と、同じく警護の任に就く秀吉が勝家を呼んだ。
「何用じゃ猿。下郎の分際で軽々しく儂の名を呼ぶなっ」
勝家に恫喝された秀吉はムッとした表情を作り、
「あれを」
と指さした。
「んっ!?」
勝家は目を細め、秀吉が指差す先を凝視した。
丸に井桁の浅井の家紋が入った旗印が、伊吹山の麓に樹っているのが見えた。
甲冑を纏った騎馬武者が近寄って来た。
「於市御寮人のお輿入れのお行列とお見受け致す」
「如何にも然様でござる。其処許はっ」
勝家が訊ねる。
「拙者は、浅井家臣の遠藤喜右衛門と申す。我が殿、浅井備前の命を受け、参上仕った次第。これより先は我が浅井の手の者が於市様のお輿の警護を承りまする故、織田家中の方々はお引き取り頂きたい」
「何じゃとっ!?」
忽ち勝家は不機嫌になった。腰に帯びた太刀に手を掛ける。
「むむっ」
血の気が多い直経も馬上か勝家を睨み付ける。
「し、柴田殿……」
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「如何致した?」
輿の御簾を少し上げ、於市は臨月に近い腹を摩りながら問うた。
「お、於市様っ、この者が……」
勝家は於市を見やったあと、バツ悪く思い頭を掻きながら直経に視線を移す。
「はっ!?」
直経は即座に馬から飛び降りた。
「お初にお目に掛かりまする。某は浅井家臣の遠藤喜右衛門と申しまする。この先は、我が浅井の者が於市御寮人のお輿の警護を致しまする」
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