39 / 88
おさとうろくさじ
2.
しおりを挟む落胆のような声に背筋が冷える。
長らく青木先輩に助けてもらってばかりだったから、自分で対処したこともなかったのだと今更気づかされてしまった。
『……橘専務に相談したら?』
青木先輩が心配そうな顔をしていたのを思い出して、素直にそうしておけばよかったなんて、すこし思ってしまった。
「すみません。さすがに一人では……」
「そうか、じゃあ俺が手伝う」
「え、あ、渡部長が、ですか?」
「悪いか? 一人では難しいんだろう?」
まさかの申し出に、さすがに声が絡まってしまった。渡部長がじっとこちらを見下ろしている。
まるで蛇に睨まれているような気持ちで、ひどく落ち着かない。
答えを出し渋っているうちに、渡部長はすでに決定してしまったらしい。
「きみは先にはじめていてくれ。すぐに向かう」
「あ、……はい。ありがとう、ございます」
何も訴えかけられないまま、結局鍵を受け取って、かすかに触れた指先に過剰なくらい体が反応してしまった。
かなりの苦手意識になってしまっていることを必死に隠して、渡部長の微笑みに言葉が凍り付いてしまった。
「あとで」
はじめて見たような笑顔だった。まるで、恋人に見せるみたいな。
しばらく立ち尽くして、結局一度デスクに戻って財布を鞄に入れなおした。
約束していた相手に“今日、だめになっちゃった。ごめんね”と送れば、すぐに携帯に着信が入る。
相手はもちろん金曜日のランチ相手である、私の幼馴染——峯田壮亮だ。
「はい」
『だめになったって、なんだ?』
「そうくん? なんか、お仕事終わらなくて、ごめんね」
『ああ? 昼食えねえの?』
「うん、ちょっと、倉庫の片づけ? みたいな」
『わざわざ昼に?』
「……うん、渡部長が、一緒に手伝うって言ってくださって」
『はあ?』
相変わらず口の悪い男の子だ。
嫌悪感を隠しもしない壮亮が、何度か渡部長を「いけすかねえ」と言っていたのを覚えている。たぶん、私があまりにも注意を受けるから、心配してくれていたのだろう。
「はやく行かないとまずいから、もう切るね。今度の時、お菓子おごるから」
『おい、』
壮亮が何かを言いかけていたけれど、さすがに時間がない。
携帯も鞄の中にしまい込んで、ようやく秘書室から飛び出した。エレベーターに入って1階を選択すれば、他のどの階にもとまらずに1階へとたどり着く。
エントランスへ出ていく人の波を見ながら、反対方面に足を進めて、人影のないほうへと突き進んでいった。
遼雅さんは今頃、ちゃんとお昼ご飯を食べられているだろうか。朝はしっかり摂っていたけれど、今日の商談さきは、かなり話が長引くことが多い相手だと知っている。
ふとした瞬間、あっと声をあげる束の間、怒りたい時、思い悩むとき。
何でもないそのときどきに、切り取ったどこかの、何気ない存在について声に出して伝えたい相手とは、いったいどんな存在だろう。
ただしく恋なら、すてきすぎて、まぶしい気がする。
それはまるで、遼雅さんの瞳のうつくしさのようだ。
誰もいない、会社の隅っこで、ほとんど確信している感情をひっそりと吐き下ろしていた。
手に持っている鍵を穴に差し込んで、くるりと回す。想像通りに開錠されて、それがどうしてか面白かった。
遼雅さんがあまやかしてくれるのなら、すこし、頑張ってしまおうか。
入室してはじめに、ほこりの匂いを感じていた。
あまり長時間いたくないような空気の淀み具合だ。どこかに窓があるのだろうか。真っ暗闇の室内に二歩目を踏み入れて、すぐ近くの壁に手を擦らせてみる。
ざらついた感触は、あまり清潔とは言い難い。
本当にこんなところに、設立からの資料が置かれているのだろうか。
会長の性格なら、まず初めにデータ化をしていそうなのだけれど。
「あれ……、でんき、ど、こ……?」
スイッチがなかなか見つけられない。ざらつく感触に眉を顰めながら、左右を両手で触ってみる。
「ん……? っきゃあ!?」
2
あなたにおすすめの小説
Perverse second
伊吹美香
恋愛
人生、なんの不自由もなく、のらりくらりと生きてきた。
大学三年生の就活で彼女に出会うまでは。
彼女と出会って俺の人生は大きく変化していった。
彼女と結ばれた今、やっと冷静に俺の長かった六年間を振り返ることができる……。
柴垣義人×三崎結菜
ヤキモキした二人の、もう一つの物語……。
幸せのありか
神室さち
恋愛
兄の解雇に伴って、本社に呼び戻された氷川哉(ひかわさい)は兄の仕事の後始末とも言える関係企業の整理合理化を進めていた。
決定を下した日、彼のもとに行野樹理(ゆきのじゅり)と名乗る高校生の少女がやってくる。父親の会社との取引を継続してくれるようにと。
哉は、人生というゲームの余興に、一年以内に哉の提示する再建計画をやり遂げれば、以降も取引を続行することを決める。
担保として、樹理を差し出すのならと。止める両親を振りきり、樹理は彼のもとへ行くことを決意した。
とかなんとか書きつつ、幸せのありかを探すお話。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
自サイトに掲載していた作品を、閉鎖により移行。
視点がちょいちょい変わるので、タイトルに記載。
キリのいいところで切るので各話の文字数は一定ではありません。
ものすごく短いページもあります。サクサク更新する予定。
本日何話目、とかの注意は特に入りません。しおりで対応していただけるとありがたいです。
別小説「やさしいキスの見つけ方」のスピンオフとして生まれた作品ですが、メインは単独でも読めます。
直接的な表現はないので全年齢で公開します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる