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おさとうきゅうさじ
7.
しおりを挟むいっそ愛おしいものへ囁くような、胸に焼けつくあまったるさが耳に残った。
ひどい暴言とは思えないような粘度に、指先の感覚がおかしくなる。
遼雅さんは、あまり部屋から出ないようにと言っていた。心配だからと何度も言われた。何かおかしなことはなかったかとも聞かれ続けてきた。
「橘、クソ邪魔な男だ。あいつが居なけりゃもっと早くに迎えに来てやれたのに」
「あ、…‥あ、や」
「可愛がってやるから、な?」
暗闇から手が伸びてくる。まっすぐに自分を捕らえようとしている手に抗いようもなく、ただ瞼をきつく閉じる。
遼雅さん、遼雅さん、遼雅さん——。
たすけて。
「――渡さん、厳重注意の内容は、もう頭から抜けてしまったんですか」
こころの声に、呼応する。まっすぐに響く。胸に刺さって、どこまでもつよく、燃え広がる。
「直ちに離れてください」
淡々と、怜悧な声が響いた。
感情が抜け落ちたような声をあげた人が、ぱちりと給湯室の電気を入れた。
瞼を瞑っていても光る刺激に眩んで、次に瞼を押し上げたら、すぐ目の前にしゃがみこんでいたはずの人が、立ち上がって落ち着きなく私から目をそらしていた。
その先に、よく知った人が立っているのが見えた。おかしなくらいに竦みあがっていた体から、力が抜ける。
「橘専務、私は何も……、彼女がコップを割ったようなので、指導をしていただけですよ」
あきらかに上ずった声だ。
私と目を合わせた遼雅さんが、すこしだけ目をやさしくして、渡部長の声に表情を消した。ぞっとするくらいにうつくしい顔立ちは、いっそ冷酷にも見えるのだと初めて知った。
「私が聞きたいのは弁明ではありません。厳重注意の内容を、忘れたのかと聞きました。あなたはこのフロアに足を踏み入れることを一切禁じられている。もう忘れましたか」
「ああ、うっかり、したかな……、いや、何か誤解があったようだから、直接話をしに来ただけです」
「そうですか。まず彼女から離れていただきたいですね。給湯室から出てください」
「いやだな、すこし教育していただけですよ」
白々しい笑い声にも眉ひとつ動かさない。遼雅さんの態度に、脂汗をかいた男が引きつった笑みを浮かべてこちらを見る。
「なあ、佐藤さんからも言ってくれ。すこし勘違いをしているだけだ、橘専務に教えてやってくれないか」
ぎょろりと目が動いて、息が詰まった。あきらかに挙動がおかしい。距離を取ることもできずに胸の前で守るように両手を握り合わせている。
「もう二度と、彼女にその顔を見せないでいただきたいと言っているのが、理解できませんか」
「痛っ……!」
恐ろしくて瞼を瞑った瞬間に、呻くような声が鳴る。
胸に響いて、おそるおそる顔をあげた。その先に、毎日見る人の大きな背中が見える。
「あ……」
ついさっきまで遼雅さんが立っていた給湯室の入り口で、渡部長が尻餅をついている。あの一瞬で何が起きたのか理解できず、ただ呆然としてしまった。
「……パ、パワハラだ! 痛い!」
「そうですか。それなら正式に訴えを起こしてください」
尻もちをついたまま、狂ったような声をあげている。渡部長の声に、あくまでも冷静な遼雅さんが、色のない声でしゃべり続けている。
遼雅さんが、私から渡部長を引き離してくれたのだろう。
暴力をふるったり、人を蔑んだりするような人には見えない。きっと、そうする機会も少なかったはずだ。それなのに、何の動揺もなく、遼雅さんは至って冷静に私の前に立っていた。
「なんだと……!?」
「再三の忠告の上、あなたは自身で署名した念書の規則に3点違反しました。そのうえで訴えを起こすんですよね」
「……あれは、間違いだ。俺はその女を教育してやってるだけだ」
「言い訳は結構。今すぐ退勤してください。処分は追って伝えます。――忠告通り、適正に処理いたしますから、そのおつもりで」
淡々と続く言葉で、渡部長の声のトーンに焦りが浮かんでくる。
念書も、厳重注意も、何もかも知らされていなかった。私のいないところで、遼雅さんがたくさん動いてくれていた証拠だ。
緊迫したシーンのくせに、おかしなくらい安心している。
遼雅さんが来てくれた。遼雅さんがいる。
ただそれだけで、震えがすこしおさまった気がした。
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