あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子

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おさとうきゅうさじ

8.

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あたたかい背中が見えている。

大丈夫だと言われている気がして、呼吸が落ち着いてきた。


「専務、もう、大丈夫です……、あの」


小さく囁いて、遼雅さんの肩がすこしだけ揺れたのが見えた。

こんなにも小さな声で、気づいてくれる。

心強い救世主に泣きたくなって、尻もちをついたままの人に視線を向けた。

もう関わらないでください、と言おうと口を開きかけて、妙に高ぶった声色が鼓膜にへばりついた。


「橘君は知らないかもしれないがな、佐藤——柚葉は俺の……」

「――俺のつまの名前を、気安く呼ばないでいただきたい」


冷え切った音で、背筋が凍り付いた。

聞いたことのない温度だ。まるで、すべてを凍り付かせてしまうようなもの。

ただしく怒りだと気づいたのは、目のまえで倒れ込んでいた渡部長が、顔色をなくして言葉を失ったところを見てしまったからだ。

どんなに冷たい顔をしているのだろう。


「な、にを……」

「彼女は俺の配偶者です。言いがかりをつけるのなら、法的手段も厭わない。つまを侮辱するのはやめてくれ」

「は、あ? どういう」

「まだわからないか? きみは部外者なんだ。教育も、何もかも必要ない。失せろ。気分が悪い」


威圧的な口調で、とうとう男が黙り込んでしまった。その一瞬で遼雅さんが振り返る。さっきまで怒りを浮かべていたとは思えないくらいにやさしい瞳で見つめられてしまった。


「柚葉さん」

「……は、い」

「立ち上がれる?」

「え、と」


身体に力が入らない。

ぼうぜんとする渡部長を無視してしゃがみこんだ遼雅さんが、家と同じようにあまく笑って、指先を包むように撫でてくれた。


「また冷たくなってしまいましたね。すこし、捕まっていて」


こわばった体に腕を差し込んで、つよい力で抱き起された。

反射的に首に手を回して、お姫様のように持ち上げられていることに気づく。


「あ、専務っ……」

「名前」

「ええ?」

「呼んでくれないの?」


さみしそうな瞳だ。まるで、さっきまで起こっていたことなんて忘れてしまったみたいにあまい雰囲気の遼雅さんが、こてりと首をかしげてくれている。

ギャップに目が眩んで、ちらりと視線を渡部長にそらしかけた。


「ゆずは」


絶対に見せる気のない人が、体で渡部長の姿を隠してしまった。俺だけを見て、と言われている気になって胸がくすぐられる。


「う……、え、と」

「俺の名前、忘れちゃいましたか?」

「だ、って……」

「あはは、困った顔もかわいい。俺のかわいい奥さん」

「りょ、うがさん」

「はい、どうしたの? かわいい奥さん」


くすくすと笑いながら長い脚でゆっくりと歩いてくれる。

給湯室の惨劇も、渡部長も、全部を無視した遼雅さんが、ただ私だけを見て、あまく笑いながら囁いてくれている。

冷え切った指先がじんわりと熱に侵されて、こころがあたたかくなってくる。

こころのねつが、どうしようもなく熱くなって、何も言えずに、遼雅さんの胸に額を押し付けている。

私の仕草で、遼雅さんの低い声が小さく笑ってくれていた。


「かわいい。そんなにしがみつかなくても、絶対に離さないから安心してください」

「……来てくださって、ありがとうございます」


小さく囁くうちに、部屋まで戻ってきてしまった。

私を抱えながら器用にドアを開いて、簡単に施錠してしまう。そのまま役員室の中に連れられて、ついさっきまで遼雅さんが眠っていたソファの上に、丁寧に下される。


「ゆずはさん、抱きしめて良い?」

「りょう、」


肯定する前に、やさしく抱きしめられる。

床に膝をついた遼雅さんに前から抱きしめられて、身体がいまだに震えていることに気づいた。

遼雅さんにも、気づかれてしまっているだろう。


「りょうが、さん」

「うん、ちょっとだけ、このまま待ってね。すぐ摘まみだすから」

「う、ん……?」


抱きしめたまま、片手でポケットを弄って、携帯を取り出しているのが見える。

そのままどこかに電話をかけたらしい人が、私の背中を撫でながら声をあげた。


「橘です。渡が役員フロアに来ました。はい。……そう。俺の嫁に接触した」

「うん。はい。はやく対処してくれるかな」

「はい。もう次はないから。よろしく」
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