呪われた悪女は獣の執愛に囚われる

藤川巴/智江千佳子

文字の大きさ
33 / 74

33

しおりを挟む
 

 獣人の生態に関する記録は、やはり彼らがグラン帝国に移住してくる以前の物が見当たらない。

 彼らが長らく居住の地としていたエストヴァル地方は、北の魔の森を抜けた先にある寒冷地だ。

 以前は温暖な気候の豊かな森だったと聞いているが、徐々に森の調子が狂い、今では常に雪が吹きすさぶ不毛の地となっている。

 春にはサクラと呼ばれる美しい木が桃色の花を咲かせる美しい国であったらしいが、今は見る影もない。

 その土地へ足を踏み入れることができれば、グラン帝国へ移住してくる以前の獣人たちの暮らしぶりや、彼らの生態についても理解を深めることができそうだが、誰一人としてそれを行う者はいない。

 北の魔の森は神秘の森と呼ばれる場であり、その所以は常に森を覆っている強大な魔力のミストにある。

 獣人たちは濃いミストの影響で常時生気を奪われ、獣軍の屈強な騎士たちであっても、気を失う者が出るほどであると聞く。

 魔力の強い魔術師であっても、長時間その場にあれば脳が陶酔するような熱を味わうらしい。

 人が寄り付かない北の魔の森には、やはり強い魔獣が多く生息している。グラン帝国の最北部に位置する魔の森から魔獣たちが下りてくることは滅多にない。しかし、安全のため、魔の森の周囲には決して居住しないこと、そして何よりも魔の森には足を踏み入れないようにと帝王からお触れが出されている。

 獣軍と魔術師の合同訓練は、魔の森を調べる絶好の機会だ。この好機をソフィアが逃すはずもない。

 獣軍基地の書庫で地図を広げたソフィアは、美しく整えられた爪先で、今は亡きフェガルシア領が置かれていたらしいエストヴァル地方をなぞり、静かにため息を吐いた。

 ——君の、獣人の腕輪の効果に関する推論はよくわかった。だが、下級魔獣と獣人では、やはり効果が違う可能性もあるだろう?

 ソフィアは、二週間前に敬愛する王子殿下に指摘された言葉を思い返して、ゆっくりと視線をあげた。獣軍基地の書庫は、合同訓練が行われる広場が良く見える場に位置している。

 三階にある書庫の窓から外の様子を見下ろしたソフィアは、炎天下の中でも漆黒の軍服を身に着け剣を振るう男の姿をぼんやりと見つめた。

 ——獣人の腕輪を外して様子を見てくれないかい。そうしても良いと思える相手が、一人くらい、居るように見える。

 間違いなく、あの日のユリウスはルイス・ブラッドのことを思い浮かべていただろう。ユリウスは殺伐とした厳しい計画の中でふいに、こうしてソフィアを困らせて反応を愉しむ愉快犯だ。

 しかし、ユリウスの言葉が正しいことも、ソフィアはよくわかっている。

 ライの脚に嵌められていたバングルの紋様は、いまだに解読に至っていない。古代文字の類であることを疑って、ソフィアはすでに100冊以上の古書を読み直しているが、その中のどこにも該当する文字を見つけられていなかった。強大な力を持つ魔術師であれば、自らにしか読解することのできない魔方陣を描くこともできる。もし、その類の魔方陣であったならば、何人たりともその紋様を解読することはできない。

 つまり、一つひとつの事象を検証し、どういう類のまじないが仕掛けられているのか、見極めなければその効果を確認することができないというわけだ。

 しかし、だからと言って、いきなりルイスに近づきすぎるのは危険だ。

 ソフィアは視線の先に立つ男が、不意にこちらを振り返ったのを見て、吃驚に息を殺してしまった。

 男は、かなり前からソフィアの視線を感じていたのだろうか。特段驚いた様子もなく、射抜くようにソフィアの目を見据えた。ルイスがソフィアの目を見ながら唇を薄く開きかけた時、彼女はようやく自分が我を失っていたことに気付いて即座にカーテンを閉めた。

 ——フィア。

 あの声で呼ばれるのが恐ろしい。

 近頃のルイスは、以前にも増してしつこくソフィアの名を呼んでくる。まるでソフィア以外の名を忘れてしまったかのように何度も何度も彼女の耳元に名前を囁き落としては、ソフィアがもういらないと手で突っぱねようとも、気にすることなく唾液を飲ませようとしてくる。

 ソフィアは、なぜ自分がルイスにこうも執着されるようになってしまったのか、全く見当もついていない。

 肉欲を満たすための行動かと思えば、ルイスは彼女がユリウスとの時間を過ごした日以来、あの日のように手籠めにしようとしてくる素振りもない。まるで、慈しむような手つきでソフィアの身体を撫で、口づけながら抱きしめようとしてくるのだ。

 それどころか、ルイスは——。

「おや、ソフィア嬢。こんなところに」

 カーテンをぴしゃりと閉めたソフィアは、背後から聞こえる声にうんざりとため息を吐いてしまいそうになった。

 ソフィアに声をかけたのは、オリバー・マクレーンだ。呪いの熱に侵され、夢遊病患者のように外へ飛び出したその日から、オリバーは執拗と思えるほどにソフィアに纏わりついてくるようになったのだ。

 これくらいわかりやすいほうが、いっそ御しやすい。ソフィアは内心でため息をつきつつ、ゆったりと笑みを浮かべて振り返る。

「マクレーン様。ごきげんよう」
「ええ。貴女も書庫に用事が?」
「ええ、魔の森の警邏について、少し考えておりましたの」
「貴女は勤勉な司令官ですね」

 そのようなことは少しも思っていなさそうな男がにっこりと微笑んだ。ソフィアはこの手の話の長い自信過剰な殿方の相手は二人の兄の影響で頗る得意だ。

 今日も遺憾なくその術を発揮したソフィアは、恥じらう乙女のように微かに喜びの笑みを浮かべてオリバーの目を見つめる。

「マクレーン様はこちらへ何を探しにいらしたのです?」
「ええ、美しい蝶が書庫に紛れ込んでいると聞いて、捕まえようかと」
「まあ」

 ユリウスの婚約者に対して、臆することなく愛を囁いてくる男は実のところ少ないわけではない。しかしその全てがオリバーと同じくソフィアの外面に呼び寄せられただけの男だ。

 大した働きのない男だ。ソフィアは早々にこの男を危険人物のリストから除外していた。

 休日は賭け事に興じているような軟派の男だ。時折、獣人の淑女にも手を出していることがあるらしい。素行には問題がありそうだが、計略を練ることができるほどの優秀な人物とは思えない。

 引き続き警戒を解くことはせず、ソフィアは夜会で鼻を伸ばしながら彼女にダンスを申し込んでくる不埒者への対処と同じ行動を取って、オリバーへ微笑みかけて見せた。

「レディ、紅茶でもいかがですか? 外は暑いですし、日陰に逃げ込んだ蝶は羽を休ませる場を探していらっしゃるでしょう」
「ふふ、お上手ですこと」
「あちらに準備しております」
「あらあら。ありがとう」

 オリバーから茶会に誘われるのはもう三度目だ。さすがに断る理由を失くしたソフィアは、仕方なくオリバーの手にエスコートされるままゆっくりと歩き出し、書庫の中央にセットされた椅子に座り込んだ。

 魔法を使ったのか、すでにテーブルの上には茶菓子とティーセットが置かれている。

 オリバーはその場で手ずからソフィアのカップにまろやかな色合いの紅茶を注いで見せる。むわりと立ち込める紅茶の香りを嗅いだソフィアは、ゆったりと笑みを浮かべた。

 ——馬鹿馬鹿しい手を使う人だわ。

「とっても素敵な香りですわね。ハーブティかしら?」
「ええ。オリジナルブレンド・・・・・・・・・です。マクレーン家の新作ですよ」
「まあ。それは素晴らしいですわね」

 そうしてオリバーは幾多の女性を手籠めにしたのだろうか。オリバーは見目の麗しい男だ。このような手を使わなくとも、責務を全うしていれば、彼を見つめる女性は自然と現れることだろう。

 このような悪趣味なブレンドティを作り出すのがマクレーン家だと言うのなら、即刻取り潰してしまいたいものだが、ソフィアは本心を覆い隠してゆったりと紅茶のカップを唇に寄せた。

 ルイス・ブラッドが、オリバー・マクレーンのような不埒な男であれば、ソフィアもこれほどまでに心を揺さぶられたりしない。

 あの男は、ソフィアの乙女を奪っておきながら、どうしてか高潔さを失わず、ソフィアを丁重に扱おうとする。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

女性執事は公爵に一夜の思い出を希う

石里 唯
恋愛
ある日の深夜、フォンド公爵家で女性でありながら執事を務めるアマリーは、涙を堪えながら10年以上暮らした屋敷から出ていこうとしていた。 けれども、たどり着いた出口には立ち塞がるように佇む人影があった。 それは、アマリーが逃げ出したかった相手、フォンド公爵リチャードその人だった。 本編4話、結婚式編10話です。

ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~

cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。 同棲はかれこれもう7年目。 お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。 合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。 焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。 何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。 美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。 私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな? そしてわたしの30歳の誕生日。 「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」 「なに言ってるの?」 優しかったはずの隼人が豹変。 「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」 彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。 「絶対に逃がさないよ?」

婚約解消されたら隣にいた男に攫われて、強請るまで抱かれたんですけど?〜暴君の暴君が暴君過ぎた話〜

紬あおい
恋愛
婚約解消された瞬間「俺が貰う」と連れ去られ、もっとしてと強請るまで抱き潰されたお話。 連れ去った強引な男は、実は一途で高貴な人だった。

義兄に甘えまくっていたらいつの間にか執着されまくっていた話

よしゆき
恋愛
乙女ゲームのヒロインに意地悪をする攻略対象者のユリウスの義妹、マリナに転生した。大好きな推しであるユリウスと自分が結ばれることはない。ならば義妹として目一杯甘えまくって楽しもうと考えたのだが、気づけばユリウスにめちゃくちゃ執着されていた話。 「義兄に嫌われようとした行動が裏目に出て逆に執着されることになった話」のifストーリーですが繋がりはなにもありません。

コワモテ軍人な旦那様は彼女にゾッコンなのです~新婚若奥様はいきなり大ピンチ~

二階堂まや♡電書「騎士団長との~」発売中
恋愛
政治家の令嬢イリーナは社交界の《白薔薇》と称される程の美貌を持ち、不自由無く華やかな生活を送っていた。 彼女は王立陸軍大尉ディートハルトに一目惚れするものの、国内で政治家と軍人は長年対立していた。加えて軍人は質実剛健を良しとしており、彼女の趣味嗜好とはまるで正反対であった。 そのためイリーナは華やかな生活を手放すことを決め、ディートハルトと無事に夫婦として結ばれる。 幸せな結婚生活を謳歌していたものの、ある日彼女は兄と弟から夜会に参加して欲しいと頼まれる。 そして夜会終了後、ディートハルトに華美な装いをしているところを見られてしまって……?

可愛げのない令嬢は甘やかされ翻弄される

よしゆき
恋愛
両親に可愛がられず、甘え方を知らず、愛嬌のない令嬢に育ったアルマ。彼女には可愛らしく愛嬌のある自分とは正反対の腹違いの妹がいた。  父に決められた婚約者と出会い、彼に惹かれていくものの、可愛げのない自分は彼に相応しくないとアルマは思う。婚約者も、アルマよりも妹のリーゼロッテと結婚したいと望むのではないかと考え、身を引こうとするけれど、そうはならなかった話。

冷淡だった義兄に溺愛されて結婚するまでのお話

水瀬 立乃
恋愛
陽和(ひより)が16歳の時、シングルマザーの母親が玉の輿結婚をした。 相手の男性には陽和よりも6歳年上の兄・慶一(けいいち)と、3歳年下の妹・礼奈(れいな)がいた。 義理の兄妹との関係は良好だったが、事故で母親が他界すると2人に冷たく当たられるようになってしまう。 陽和は秘かに恋心を抱いていた慶一と関係を持つことになるが、彼は陽和に愛情がない様子で、彼女は叶わない初恋だと諦めていた。 しかしある日を境に素っ気なかった慶一の態度に変化が現れ始める。

【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される

奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。 けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。 そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。 2人の出会いを描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630 2人の誓約の儀を描いた作品はこちら 「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041

処理中です...