【完結】時計台の約束

とっくり

文字の大きさ
22 / 53

21 小さな光

しおりを挟む
夕暮れ時。
 
 寮の門から少し離れた、小さな公園の片隅に冬の風が吹き抜ける。裸の木々が枝を揺らし、冷たい空気の中にうっすらと夕焼けの名残が溶け込んでいた。

 仕事帰りのアリシアは、ベンチに立つひとつの姿を見つけて、小さく息を吐いた。
コートの裾を風になびかせながら、彼女は迷いなくその人影へと歩み寄っていく。

「待たせた?」

「いや。今来たところ」

 そう答えたルーカスは、どこか照れくさそうに笑いながら、片手に小さな布袋を提げていた。中には職場で余った昼のパンと、小さなノート。
 最近始めた筆記の練習道具――かつて自分を支えていた絵筆の代わりに、今の彼を形づくる一歩だった。

「話って……?」

 ベンチに並んで腰を下ろすと、ルーカスはしばし沈黙したまま、指先で袋の紐をいじっていた。

アリシアは口を挟まず、そっと彼の表情を待つ。

「・・・近いうちに、自分でアパートを借りようと思ってるんだ。」

 その言葉は、思ったより穏やかに口をついて出た。
けれど、その一言に込められた思いは深い。
これまでの迷いと葛藤、そして今ようやく芽生えた決意。

 アリシアは少しだけ目を見開いたが、すぐに静かに問い返す。

「どうして?」

 ルーカスは手のひらを見つめる。包帯で巻かれた右手を、左手でそっと覆うようにして。

「……アリシアが借りてくれた宿は、居心地が良すぎて。僕、駄目になっちゃいそうでさ」

 唇に苦笑が浮かぶ。だがそれは、弱さを認めた上で踏み出そうとする強さでもあった。

「君に甘えてばっかりだった。いつまでもこのままじゃ、自分が自分じゃなくなりそうで……だから、自分の足で立ちたいんだ。そうじゃなきゃ、いつかきっと後悔すると思った」

また少しの沈黙が落ちる。

けれど、アリシアは微笑んでいた。

「……そう思ったなら、きっとその方がいいんだと思う」

「……怒ってない?」

思わず出た問いに、アリシアは優しく首を振った。

「怒るわけないよ。少し寂しいけど……でも、嬉しいの。ルーカスが、自分の意思で前に進もうとしてることが」

 その言葉に、ルーカスの喉の奥が熱くなる。
どれほどこの人の言葉に支えられてきたか、何度その手にすがりたくなったか。――だけど今は、彼女の隣に立ちたくて、踏み出そうとしている。

「ありがとう、アリシア。……本当に、ありがとう」

 アリシアはそっと、彼の左手を握った。包帯を巻かれていない方の手を、まっすぐな気持ちで。

「困ったときは、いつでも頼っていいんだよ。でも……まずは自分で頑張るって、大事だよね」

ルーカスは、小さく頷いた。

 この人の隣にいるためには、自分がもっと強くならなければならない。
そう思えるほどに、アリシアの存在は温かく、眩しかった。

風が一瞬、木々の間を抜け、二人の間に優しく吹き込んだ。

 ルーカスはそっとアリシアの頬に
手を伸ばし、指先でその輪郭をなぞった。
彼女の肌は冬の空気に少しだけ冷たくて、それでも彼の手を拒むことはなかった。
アリシアは何も言わず、静かに目を閉じる。

そして――

二人の唇が、ゆっくりと、静かに重なった。

 それは、言葉よりも確かな想いの交換だった。
触れ合った手はそのまま離れず
小さなぬくもりを確かめるように
そっと指先が絡んだ。

唇を伝って、あたたかなものがアリシアの心の奥に広がっていく。

けれど、その幸せの中に
ほんのわずかな陰が差すのを、彼女は見逃さなかった。

ルーカスの瞼の裏に浮かんでいるのは
今この瞬間を共にする自分なのか――

それとも、かつて彼が何度も描いた
あの面影なのか。

一瞬だけ、彼の唇がふと震えた気がした。
抱き寄せる手に、わずかな躊躇いが滲んでいた。

それでもアリシアは、何も言わなかった。
彼が過去に心を惹かれていた人がいたことを、彼女は知っている。

そして、その痛みごと抱えたまま、前を向こうとしている彼の姿も、誰よりも知っていた。

――それでいい。
それでも、今ここにいるのは自分なのだから。

アリシアはそっと目を開け、わずかに潤んだ瞳でルーカスを見つめた。
微笑んで、何も問わずに、彼の手をそっと握り返す。

夜の風が頬を撫で、木々がかすかにざわめいた。その中でも、二人の間には確かな温もりが灯っていた。


ルーカスは、静かにアリシアの額に唇を落とした。

過去はまだ消えない。けれど、今は確かにアリシアがいる。
それだけで、胸の中に小さな光が差し込んだ気がした。

――明日も、会いたい。
そう願ってしまう自分に、ルーカスは気づいていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

これ以上私の心をかき乱さないで下さい

Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。 そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。 そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが “君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない” そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。 そこでユーリを待っていたのは…

背徳の恋のあとで

ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』 恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。 自分が子供を産むまでは…… 物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。 母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。 そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき…… 不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか? ※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

婚約破棄、ありがとうございます

奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。

嘘が愛を試す時 〜君を信じたい夜に〜

月山 歩
恋愛
サラとマリウス・ハンプトン侯爵夫婦のもとに、衝撃的な告白を携えた男が訪れる。「隠れてサラと愛し合っている。」と。 身に覚えのない不貞の証拠に、いくらサラが誤解だと訴えてもマリウスは次第に疑念を深めてゆく。 男の目的はただ一つ、サラを奪うこと。 *こちらはアルファポリス版です。

あなたが遺した花の名は

きまま
恋愛
——どうか、お幸せに。 ※拙い文章です。読みにくい箇所があるかもしれません。 ※作者都合の解釈や設定などがあります。ご容赦ください。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

『すり替えられた婚約、薔薇園の告白

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。 社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に 王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。

処理中です...