【完結】時計台の約束

とっくり

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36 命

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ーーーアリシアが再び目を覚ましたのは、それから三日後のことだった。

 小さな部屋の天井は白く、木の香りがわずかに漂っている。
窓の外からは、鳥のさえずりと、どこか遠くで鳴る鐘の音が微かに届いていた。

 けれど、アリシアの意識はまだ、現実と夢の境をさまよっていた。その三日間、彼女は確かに、ルーカスと一緒にいた。
 

 最初の夢は、あの日の孤児院。
まだ幼い彼と初めて出会った、あの瞬間だった。

 現実の記憶では、ルーカスは薄暗い食堂に迎えられ、アリシアは人の輪に入れず、遠くからただ見つめることしかできなかった。

 けれど夢の中では、明るい陽射しが降り注ぐ中庭。風に揺れる草の匂いが懐かしく、そこに、皆に囲まれて戸惑う少年――ルーカスがいた。

(行かなきゃ、こそ)

夢の中のアリシアは、迷わずその輪に歩み寄り、小さく声をかけた。

「……はじめまして、ルーカス」

少年は少し驚いたように目を見開き、それからふわりと微笑んだ。

は、遠くから寂しそうに見ていた君が……はこうして、話しかけてくれるんだね」

アリシアは恥ずかしさに肩をすくめて、くすっと笑った。

「……はね、あなたに見惚れちゃって、声をかけるのが遅れたの」

 風が二人の間を通り抜け、光が草を揺らしていた。まるで、その時間だけが優しく守られていたようだった。

 

場面が変わる。

 別れの朝――ルーカスが侯爵家に引き取られる日。
あの日、アリシアはただ黙って手を振るしかできなかった。

でも、夢の中では違った。
馬車の扉が閉じようとしたその瞬間、彼女は走り出していた。

「ルーカス!」

彼が驚いて振り返る。アリシアは息を切らしながら叫んだ。

「ずっと好きだったの! 離れたくない!」

「・・・黙ってて、ごめんね」

「……え?」

「別れるのが、あまりにも……悲しくて」

ルーカスはそう言って、小さく笑った。

「ルーカスも、悲しかったの?」

「うん。だから、は……何も言えなかった」

「じゃあ、は……?」

彼はほんの少しだけ視線を落とし、それから静かに彼女を見つめた。

「――また、会えるよ」

けれどその微笑みには、どこか取り返しのつかない寂しさが滲んでいた。

 

 次に映ったのは、見慣れたルーカスの部屋。ベッドの上、2人は静かに寄り添い合って眠っている。優しく触れ合う手、静かな吐息、穏やかな時間。手を重ね、眠るふたり。

ルーカスが、ぽつりと呟いた。

「……この時が、一番幸せだったかも」

アリシアは眉をひそめた。心の奥がざわりと波立つ。

「何で……過去形なの? これからよ。これからもっと、幸せになるんでしょ?」

ルーカスはそれでも笑った。けれど、その笑みは涙に濡れているようだった。

「……そうだね」

まるで、最後の言葉のような優しさと痛みが、その一言に宿っていた。

 

そして、最後の夢。

 ふたりは手を繋ぎ、夕暮れの道を歩いていた。空は茜色に染まり、鐘の音がどこか遠くで響いている。

アリシアは彼に寄り添い、明るく言った。

「帰りたくないなぁ……ねえ、今日はルーカスの部屋に泊まっちゃおうかな」

けれどルーカスは、またあの笑みを浮かべた。笑っているのに、まるで泣いているような――言葉のない、別れの表情。

「ねえ、今日は泊まりダメ……?」

問いかけても、彼は首を振ることも、頷くこともなかった。

「ルーカス……? ねえ、どうして黙ってるの?」

その瞬間、ふわりと彼の腕に抱きしめられた。

「……そろそろ、行かないと」

「どこに? ……ねえ、どこに行くの?」

問いかけても、ルーカスは何も言わず、ただ静かに、優しく彼女を見つめるだけだった。

やがて、抱きしめていた腕がほどけていく。触れ合っていたぬくもりが、ふたりの間から、すこしずつ離れていく。

「時計台に行く約束……守れなくて、ごめんね」

「ルーカス……?」

「――愛してる。君の……君たちの幸せを、ずっと願ってる」

そう告げたルーカスは、光の中へ――微笑みながら、音もなく、消えていった。


「……ルーカス!」

 アリシアは叫びながら、夢から飛び起きた。
まだ濡れた頬に、彼のあたたかな手の感触が残っている気がした。

でも、それはもう、幻だった。


 冷や汗に濡れた額、激しく上下する胸の鼓動。部屋の静けさが、夢の名残を際立たせていた。

「どこ……? ルーカス……」

涙がこぼれる。夢だったと気づいた瞬間、全身から力が抜けた。

「……落ち着いてください、大丈夫です」

 優しい声に振り向くと、老いた医師と、白衣を着た看護師が傍らにいた。

「ここは町の診療所です。あなたは倒れて、三日間眠っていたんですよ」

「……三日間……?」

「雨の中を歩き回って、かなり危険な状態でした。どうにか意識を取り戻してくれて、本当によかった」

アリシアは視線を彷徨わせながら、現実と夢の間で混乱していた。

「ルーカスが……ルーカスが……!」

老医師が静かに頷いた。

「……すぐにすべてを思い出す必要はありません。まずは、身体を休めてください」

 そして、看護師がそっとアリシアの手を握り、告げた。

「あなたの身体は……もう、ひとりの命を宿しています。無理はしないで。あなたは、もうひとりじゃない」

アリシアの目が、大きく見開かれた。

 夢の中で聞いた「君達の幸せを願ってる」という言葉が、ふと胸の奥に蘇る。

――まるで、ルーカスが最後に彼女に託した想いのように。

 その意味を、彼女はまだすべて理解できていなかった。けれど確かに、今、自分の中には新しい命が灯っていた。

そして、それだけは失ってはいけないと、心がはっきりと告げていた。
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