【完結】時計台の約束

とっくり

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35 捨てられない希望

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 アリシアは筆箱を胸に抱えたまま、その場にゆっくりと腰を下ろした。

 冷たい石畳が、濡れたスカート越しに容赦なく体温を奪っていく。
 潮風が髪を乱し、頬を打つのに、彼女はもう身じろぎもしなかった。

 ぬかるんだ地面に足を投げ出すようにして、ただぼんやりと、目の前の海を見つめる。霧にかすんだ水平線。灰色に濁った空。すべてが、まるで遠くの景色みたいだった。

 筆箱の冷たさが、じわじわと胸の奥に染みこんでくる。けれどそれは、哀しみというより――拒絶だった。

 こんなもので終わるはずがない。
 ルーカスが、こんな形で消えてしまうはずがない。

 彼は生きている。
 どこかで、きっと道に迷っているだけ。
 あるいは、追手に気づいて身を隠しているだけかもしれない。

(そうよ……ルーカスは、賢い人だから)

 涙を拭い、アリシアは自分に言い聞かせた。この筆箱は「死」を証明するものなんかじゃない。
 彼が慌てて落とした、あるいは隠す時間も余裕もなく、ただ置いていかれた――それだけ。

 そうでなければ、あの人がこれを手放すなんてありえない。

 彼の笑顔を思い出す。
 あたたかく、優しく、傷ついて、それでも前を向こうとしていた人。
 アリシアの手を握り、「共に生きよう」と言ってくれたあの声が、まだ耳の奥に残っている。

(……生きてる。きっと、どこかに)

 立ち上がらなければ。
 探さなければ。
 ここで座っているだけじゃ、あの人にはもう二度と会えない。

 まだ終わってない。
 まだ、すべてを失ったわけじゃない。

 アリシアは、濡れた頬を袖でぬぐい、筆箱をそっと胸元に押し当てた。それは、彼がここにいた証。そして――希望のかけらでもあった。

 たとえ誰も信じてくれなくても、自分だけは信じ続ける。
 そうしなければ、歩いていけない。
 彼のいない未来を受け入れるには、あまりにも早すぎた。

 海霧の向こうを見つめながら、アリシアは小さく息を吸い、もう一度立ち上がった。
 足元はまだふらつく。体は冷えきって震えている。

 それでも、希望を捨てるには――まだ、早すぎる。



~~~~~~~~~~~


 アリシアは、足元の覚束ないままに港の人々へと声をかけて回った。
 冷たい霧雨が頬を打ち、視界を曇らせても、彼女の目は焦点を失わなかった。

「この辺りで、昨夜の事故……
何か知りませんか?」
「若い男の人が……ここで何か……」

 だが、返ってくるのは、首を振る仕草や、曖昧な伝聞ばかりだった。

「そういえば、夜明け前に騒ぎがあったとか……」
「でも本当のことは誰も知らんさ」
「運ばれた? ああ、それは聞いた。けど、どこにかは――」

 聞いても聞いても、確かな手がかりは得られなかった。皆、アリシアがすでに知っている話ばかりを、まるで何度も擦り切れるように繰り返すだけだった。

 そんな中、一人の老いた船乗りが、ふと呟くように言った。

「夜が明けるちょっと前だったな。港の外れで、黒い服を着た男が……粗末な馬車で何かを運んでいくのを見たよ」
「妙に慎重で……誰かが寝かされてたようにも見えた。いや、布で覆われてたから、はっきりとは……」

 アリシアの手から、筆箱が滑り落ちそうになった。

「それは……それは、ルーカスじゃない……っ」

 否定した。必死に否定した。
 けれど、その言葉とは裏腹に、血の気が音を立てて引いていくのが分かった。

 視界がぐらつき、足元が波打つように感じられた。
 まるで海そのものが、アリシアを呑み込もうとしているかのように。

 そのまま、彼女は言葉もなく、その場に崩れ落ちた。

 ──夜通しの馬車移動。
 そして、冷たい雨に打たれ続けながらの、丸一日の捜索。
 希望だけを支えに立ち続けていた身体は、もう限界だった。


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