36 / 53
35 捨てられない希望
しおりを挟む
アリシアは筆箱を胸に抱えたまま、その場にゆっくりと腰を下ろした。
冷たい石畳が、濡れたスカート越しに容赦なく体温を奪っていく。
潮風が髪を乱し、頬を打つのに、彼女はもう身じろぎもしなかった。
ぬかるんだ地面に足を投げ出すようにして、ただぼんやりと、目の前の海を見つめる。霧にかすんだ水平線。灰色に濁った空。すべてが、まるで遠くの景色みたいだった。
筆箱の冷たさが、じわじわと胸の奥に染みこんでくる。けれどそれは、哀しみというより――拒絶だった。
こんなもので終わるはずがない。
ルーカスが、こんな形で消えてしまうはずがない。
彼は生きている。
どこかで、きっと道に迷っているだけ。
あるいは、追手に気づいて身を隠しているだけかもしれない。
(そうよ……ルーカスは、賢い人だから)
涙を拭い、アリシアは自分に言い聞かせた。この筆箱は「死」を証明するものなんかじゃない。
彼が慌てて落とした、あるいは隠す時間も余裕もなく、ただ置いていかれた――それだけ。
そうでなければ、あの人がこれを手放すなんてありえない。
彼の笑顔を思い出す。
あたたかく、優しく、傷ついて、それでも前を向こうとしていた人。
アリシアの手を握り、「共に生きよう」と言ってくれたあの声が、まだ耳の奥に残っている。
(……生きてる。きっと、どこかに)
立ち上がらなければ。
探さなければ。
ここで座っているだけじゃ、あの人にはもう二度と会えない。
まだ終わってない。
まだ、すべてを失ったわけじゃない。
アリシアは、濡れた頬を袖でぬぐい、筆箱をそっと胸元に押し当てた。それは、彼がここにいた証。そして――希望のかけらでもあった。
たとえ誰も信じてくれなくても、自分だけは信じ続ける。
そうしなければ、歩いていけない。
彼のいない未来を受け入れるには、あまりにも早すぎた。
海霧の向こうを見つめながら、アリシアは小さく息を吸い、もう一度立ち上がった。
足元はまだふらつく。体は冷えきって震えている。
それでも、希望を捨てるには――まだ、早すぎる。
~~~~~~~~~~~
アリシアは、足元の覚束ないままに港の人々へと声をかけて回った。
冷たい霧雨が頬を打ち、視界を曇らせても、彼女の目は焦点を失わなかった。
「この辺りで、昨夜の事故……
何か知りませんか?」
「若い男の人が……ここで何か……」
だが、返ってくるのは、首を振る仕草や、曖昧な伝聞ばかりだった。
「そういえば、夜明け前に騒ぎがあったとか……」
「でも本当のことは誰も知らんさ」
「運ばれた? ああ、それは聞いた。けど、どこにかは――」
聞いても聞いても、確かな手がかりは得られなかった。皆、アリシアがすでに知っている話ばかりを、まるで何度も擦り切れるように繰り返すだけだった。
そんな中、一人の老いた船乗りが、ふと呟くように言った。
「夜が明けるちょっと前だったな。港の外れで、黒い服を着た男が……粗末な馬車で何かを運んでいくのを見たよ」
「妙に慎重で……誰かが寝かされてたようにも見えた。いや、布で覆われてたから、はっきりとは……」
アリシアの手から、筆箱が滑り落ちそうになった。
「それは……それは、ルーカスじゃない……っ」
否定した。必死に否定した。
けれど、その言葉とは裏腹に、血の気が音を立てて引いていくのが分かった。
視界がぐらつき、足元が波打つように感じられた。
まるで海そのものが、アリシアを呑み込もうとしているかのように。
そのまま、彼女は言葉もなく、その場に崩れ落ちた。
──夜通しの馬車移動。
そして、冷たい雨に打たれ続けながらの、丸一日の捜索。
希望だけを支えに立ち続けていた身体は、もう限界だった。
冷たい石畳が、濡れたスカート越しに容赦なく体温を奪っていく。
潮風が髪を乱し、頬を打つのに、彼女はもう身じろぎもしなかった。
ぬかるんだ地面に足を投げ出すようにして、ただぼんやりと、目の前の海を見つめる。霧にかすんだ水平線。灰色に濁った空。すべてが、まるで遠くの景色みたいだった。
筆箱の冷たさが、じわじわと胸の奥に染みこんでくる。けれどそれは、哀しみというより――拒絶だった。
こんなもので終わるはずがない。
ルーカスが、こんな形で消えてしまうはずがない。
彼は生きている。
どこかで、きっと道に迷っているだけ。
あるいは、追手に気づいて身を隠しているだけかもしれない。
(そうよ……ルーカスは、賢い人だから)
涙を拭い、アリシアは自分に言い聞かせた。この筆箱は「死」を証明するものなんかじゃない。
彼が慌てて落とした、あるいは隠す時間も余裕もなく、ただ置いていかれた――それだけ。
そうでなければ、あの人がこれを手放すなんてありえない。
彼の笑顔を思い出す。
あたたかく、優しく、傷ついて、それでも前を向こうとしていた人。
アリシアの手を握り、「共に生きよう」と言ってくれたあの声が、まだ耳の奥に残っている。
(……生きてる。きっと、どこかに)
立ち上がらなければ。
探さなければ。
ここで座っているだけじゃ、あの人にはもう二度と会えない。
まだ終わってない。
まだ、すべてを失ったわけじゃない。
アリシアは、濡れた頬を袖でぬぐい、筆箱をそっと胸元に押し当てた。それは、彼がここにいた証。そして――希望のかけらでもあった。
たとえ誰も信じてくれなくても、自分だけは信じ続ける。
そうしなければ、歩いていけない。
彼のいない未来を受け入れるには、あまりにも早すぎた。
海霧の向こうを見つめながら、アリシアは小さく息を吸い、もう一度立ち上がった。
足元はまだふらつく。体は冷えきって震えている。
それでも、希望を捨てるには――まだ、早すぎる。
~~~~~~~~~~~
アリシアは、足元の覚束ないままに港の人々へと声をかけて回った。
冷たい霧雨が頬を打ち、視界を曇らせても、彼女の目は焦点を失わなかった。
「この辺りで、昨夜の事故……
何か知りませんか?」
「若い男の人が……ここで何か……」
だが、返ってくるのは、首を振る仕草や、曖昧な伝聞ばかりだった。
「そういえば、夜明け前に騒ぎがあったとか……」
「でも本当のことは誰も知らんさ」
「運ばれた? ああ、それは聞いた。けど、どこにかは――」
聞いても聞いても、確かな手がかりは得られなかった。皆、アリシアがすでに知っている話ばかりを、まるで何度も擦り切れるように繰り返すだけだった。
そんな中、一人の老いた船乗りが、ふと呟くように言った。
「夜が明けるちょっと前だったな。港の外れで、黒い服を着た男が……粗末な馬車で何かを運んでいくのを見たよ」
「妙に慎重で……誰かが寝かされてたようにも見えた。いや、布で覆われてたから、はっきりとは……」
アリシアの手から、筆箱が滑り落ちそうになった。
「それは……それは、ルーカスじゃない……っ」
否定した。必死に否定した。
けれど、その言葉とは裏腹に、血の気が音を立てて引いていくのが分かった。
視界がぐらつき、足元が波打つように感じられた。
まるで海そのものが、アリシアを呑み込もうとしているかのように。
そのまま、彼女は言葉もなく、その場に崩れ落ちた。
──夜通しの馬車移動。
そして、冷たい雨に打たれ続けながらの、丸一日の捜索。
希望だけを支えに立ち続けていた身体は、もう限界だった。
69
あなたにおすすめの小説
背徳の恋のあとで
ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』
恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
自分が子供を産むまでは……
物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。
母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。
そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき……
不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか?
※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
鈴宮(すずみや)
恋愛
孤児院出身のアルマは、一年前、幼馴染のヴェルナーと夫婦になった。明るくて優しいヴェルナーは、日々アルマに愛を囁き、彼女のことをとても大事にしている。
しかしアルマは、ある日を境に、ヴェルナーから甘ったるい香りが漂うことに気づく。
その香りは、彼女が勤める診療所の、とある患者と同じもので――――?
婚約破棄、ありがとうございます
奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。
私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません
藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は
愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。
夫が愛人を持つことも、
その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。
けれど――
跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。
その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。
私は悟ったのだ。
この家では、息子を守れないと。
元々、実家との間には
「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。
ならば話は簡単だ。
役目を終えた私は、離縁を選ぶ。
息子と共に、この家を去るだけ。
後悔しているようですが――
もう、私の知るところではありません。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
『すり替えられた婚約、薔薇園の告白
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。
社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に
王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。
はずれの聖女
おこめ
恋愛
この国に二人いる聖女。
一人は見目麗しく誰にでも優しいとされるリーア、もう一人は地味な容姿のせいで影で『はずれ』と呼ばれているシルク。
シルクは一部の人達から蔑まれており、軽く扱われている。
『はずれ』のシルクにも優しく接してくれる騎士団長のアーノルドにシルクは心を奪われており、日常で共に過ごせる時間を満喫していた。
だがある日、アーノルドに想い人がいると知り……
しかもその相手がもう一人の聖女であるリーアだと知りショックを受ける最中、更に心を傷付ける事態に見舞われる。
なんやかんやでさらっとハッピーエンドです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる