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34 筆箱
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港の外れにたどり着いたとき、日はもう沈みかけていた。海から吹きつける風が一層強まり、潮の香りと湿った霧が空気を重くする。
アリシアは、足をもつれさせながら石畳を進んだ。早朝から立ちっぱなしだった足はもう限界に近く、それでも彼女の背を押すのは――たった一つの思いだった。
(ルーカス……どこ……?)
人影はほとんどなかった。
波止場の灯りがぽつり、ぽつりと灯る中、朽ちたロープと貨物の影が静かに横たわっている。木箱のすき間から、風に巻き上げられた紙切れが飛び、アリシアの足元をすり抜けていく。
彼女は何度も辺りを見渡した。
目を凝らし、名前を呼ぼうと口を開いたが――声が出なかった。喉の奥がひりついて、言葉がこぼれ落ちる前に涙に変わりそうで。
そこにいた人の気配。
たしかに誰かが、ここを通った。
けれど、もう何もいない。何も残されていない。
それが何より、彼女の心を締めつけた。
(お願い、出てきて……ねえ、ルーカス……)
ふらり、と船の係留ロープを伝うように歩いた。
荷揚げを終えた船は、波間に微かに揺れている。どこかの船に、彼が乗ったのではないか――そんな希望すら脳裏をよぎる。
でも、それもすぐに打ち消される。
「遺体は運ばれた」という町の人の言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
(遺体なんて、あるはずない……だって……)
事故に遭った男の人がルーカスと決まったわけじゃない。絶対に違う。自分と一緒に、遠くへ行こうと――未来を選んでくれた。
アリシアは一歩、また一歩と波止場の奥へ進んだ。木箱の陰、積まれた荷物のすき間、濡れた地面の隅々まで――彼の姿を探して。
(どこ……どこなの……? ルーカス……)
涙が頬を伝い落ちる。
それでも歩く。見つけなければならない。
何か、ほんの小さな痕跡でも――あの人が生きている証が、ここに残っているなら。
その一心で、アリシアは夕闇の港を彷徨い続けた。
濡れた石畳の先、ひときわ潮の香りが強くなる場所で――ふと、視界の端に、小さな影が目に留まった。
それは、海霧の中でぼんやりと光を反射していた。アリシアは立ち止まり、ゆっくりと視線を落とす。
そして、次の瞬間、血の気が引いた。
――あれは。
見覚えのある、深い茶色の革。
角の部分が擦れて丸くなり、蓋の縁にはルーカスが縫い直した針目が、いびつに並んでいた。
「……うそ……」
その筆箱は、彼が毎日大事に持ち歩いていたものだった。絵を描くことが生きがいだった彼にとって、それは筆記具を入れるための単なる道具ではなかった。
夢と、記憶と、彼自身の手の温もりが詰まった“日々の一部”だった。
アリシアはおそるおそる近づき、しゃがみこんだ。
指先が震えていた。
濡れた革の感触が、指にひやりと吸い付く。
――どうして、こんなところに。
蓋の金具を開く。
中には、使いかけのペン、かすれたインクのしみ、端が折れたメモ帳。
そして、小さなビニール袋に入れたまま、干からびた四つ葉のクローバー。
それを見た瞬間、視界が滲んだ。
数ヶ月前、自分が何の気なしに差し入れたものだ。
彼は照れたように笑って「じゃあ、お守り代わりに」と言って、ずっと筆箱にしまっていた。
「……どうして、こんな……」
ひとつ、涙が落ちる。筆箱に、ぽつりと染みをつけた。
そして、それがきっかけのように、彼女の中で張り詰めていたものが崩れていく。
(違う……落としただけ、そうに決まってる。こんな大事なもの、置いていくわけない……!)
必死に否定した。
どこを探しても、彼の姿はどこにもなかった。足跡も、声も、何もない。ただ、この筆箱だけが、打ち捨てられたようにそこにあった。
(っ、ちがう、絶対に違う!)
膝が崩れるように地面についた。
筆箱を胸に抱きしめる。濡れて冷たい革が、心の中まで冷やしていく。
港を見渡しても、人の気配はなかった。
ただ波の音だけが、遠くで静かに響いている。
まるで、彼の不在を証明するように。
(ルーカス……どこにいるの??……)
唇が震え、嗚咽が漏れそうになる。
だけど泣いたら、もう「彼が生きている」って信じられなくなる気がして、必死に声を押し殺す。
――彼がここにいた。
そして、いまはもう、どこにもいない。
その事実を、否応なく突きつけるかのように。筆箱だけが、そこに残されていた。
アリシアは、足をもつれさせながら石畳を進んだ。早朝から立ちっぱなしだった足はもう限界に近く、それでも彼女の背を押すのは――たった一つの思いだった。
(ルーカス……どこ……?)
人影はほとんどなかった。
波止場の灯りがぽつり、ぽつりと灯る中、朽ちたロープと貨物の影が静かに横たわっている。木箱のすき間から、風に巻き上げられた紙切れが飛び、アリシアの足元をすり抜けていく。
彼女は何度も辺りを見渡した。
目を凝らし、名前を呼ぼうと口を開いたが――声が出なかった。喉の奥がひりついて、言葉がこぼれ落ちる前に涙に変わりそうで。
そこにいた人の気配。
たしかに誰かが、ここを通った。
けれど、もう何もいない。何も残されていない。
それが何より、彼女の心を締めつけた。
(お願い、出てきて……ねえ、ルーカス……)
ふらり、と船の係留ロープを伝うように歩いた。
荷揚げを終えた船は、波間に微かに揺れている。どこかの船に、彼が乗ったのではないか――そんな希望すら脳裏をよぎる。
でも、それもすぐに打ち消される。
「遺体は運ばれた」という町の人の言葉が、耳の奥で何度も反響していた。
(遺体なんて、あるはずない……だって……)
事故に遭った男の人がルーカスと決まったわけじゃない。絶対に違う。自分と一緒に、遠くへ行こうと――未来を選んでくれた。
アリシアは一歩、また一歩と波止場の奥へ進んだ。木箱の陰、積まれた荷物のすき間、濡れた地面の隅々まで――彼の姿を探して。
(どこ……どこなの……? ルーカス……)
涙が頬を伝い落ちる。
それでも歩く。見つけなければならない。
何か、ほんの小さな痕跡でも――あの人が生きている証が、ここに残っているなら。
その一心で、アリシアは夕闇の港を彷徨い続けた。
濡れた石畳の先、ひときわ潮の香りが強くなる場所で――ふと、視界の端に、小さな影が目に留まった。
それは、海霧の中でぼんやりと光を反射していた。アリシアは立ち止まり、ゆっくりと視線を落とす。
そして、次の瞬間、血の気が引いた。
――あれは。
見覚えのある、深い茶色の革。
角の部分が擦れて丸くなり、蓋の縁にはルーカスが縫い直した針目が、いびつに並んでいた。
「……うそ……」
その筆箱は、彼が毎日大事に持ち歩いていたものだった。絵を描くことが生きがいだった彼にとって、それは筆記具を入れるための単なる道具ではなかった。
夢と、記憶と、彼自身の手の温もりが詰まった“日々の一部”だった。
アリシアはおそるおそる近づき、しゃがみこんだ。
指先が震えていた。
濡れた革の感触が、指にひやりと吸い付く。
――どうして、こんなところに。
蓋の金具を開く。
中には、使いかけのペン、かすれたインクのしみ、端が折れたメモ帳。
そして、小さなビニール袋に入れたまま、干からびた四つ葉のクローバー。
それを見た瞬間、視界が滲んだ。
数ヶ月前、自分が何の気なしに差し入れたものだ。
彼は照れたように笑って「じゃあ、お守り代わりに」と言って、ずっと筆箱にしまっていた。
「……どうして、こんな……」
ひとつ、涙が落ちる。筆箱に、ぽつりと染みをつけた。
そして、それがきっかけのように、彼女の中で張り詰めていたものが崩れていく。
(違う……落としただけ、そうに決まってる。こんな大事なもの、置いていくわけない……!)
必死に否定した。
どこを探しても、彼の姿はどこにもなかった。足跡も、声も、何もない。ただ、この筆箱だけが、打ち捨てられたようにそこにあった。
(っ、ちがう、絶対に違う!)
膝が崩れるように地面についた。
筆箱を胸に抱きしめる。濡れて冷たい革が、心の中まで冷やしていく。
港を見渡しても、人の気配はなかった。
ただ波の音だけが、遠くで静かに響いている。
まるで、彼の不在を証明するように。
(ルーカス……どこにいるの??……)
唇が震え、嗚咽が漏れそうになる。
だけど泣いたら、もう「彼が生きている」って信じられなくなる気がして、必死に声を押し殺す。
――彼がここにいた。
そして、いまはもう、どこにもいない。
その事実を、否応なく突きつけるかのように。筆箱だけが、そこに残されていた。
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