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45 余波
しおりを挟む(ミハエル視点)
鉄格子の冷たい影が、牢の石壁に落ちていた。その中央に、ミハエル・グリーグ――もはや公爵令息ではなくなった男が、ぼんやりと座っていた。
どこか遠くを見つめるような視線の奥で、熱に浮かされたような思考が巡っている。
(後悔なんかしていない。ルーカスを殺したことに、何一つ。)
そう言い聞かせるように、何度も心の中で繰り返す。
あれは事故だ。いや、計画だった。けれど、奴はそれに値した。
下賎な平民のくせに、俺のものを奪おうとした。
(全部、あいつのせいだ。美貌も、才能も、人に好かれる力も……)
嫉妬が喉を焼いた。
ルーカスは“持っていた”。
貴族の血筋もないくせに、誰よりも気高く、まっすぐで、愚かで――だからこそ、皆に愛された。
(マーガレットも、あいつに……)
思考が止まった。
――あの瞬間。
ルーカスの腕に、すがるように触れたマーガレットの姿が、脳裏に焼きついて離れない。
(あれがすべてを狂わせた……いや、最初から……)
思い返す。
王家主催の春のお茶会で、初めて出会ったマーガレット・ヘイウッド。
陽差しを纏うような金の髪、知性と気品を感じさせる澄んだ瞳。
まさに理想そのものだった。だから、欲した。
グリーグ家とヘイウッド家が政治的に対立していようと構わなかった。
婚約を無理に申し込ませたのは、父ではなく自分自身だった。
(あれは、運命だったはずだ。俺が彼女を選んだ。俺が、愛していた。俺こそが、彼女にふさわしかったはずだ)
なのに。
彼女は冷たく告げた。
「穢されたとは何のことでしょうか。私には見に覚えのないお話です」
その瞳には一切の感情が排除されていた。
拒絶だった。否定だった。
自分という存在そのものを、断罪するような冷たいまなざしだった。
(どうして……あんな目をする?)
俺は、赦してやったのに。
穢された君でも、大切にすると言ってやったのに。
それすらも、感謝もせず……!
「君の不貞を赦してやったのに。この仕打ちか……!」
思わず叫んだ言葉は、むなしく壁に吸い込まれていった。
静寂が戻る。
牢獄の冷気が、骨の芯まで染み込んでくる。
それでも、ミハエルは膝を抱えて座り込み、ただ己の中で沸騰する怒りと悔しさと、理解できない喪失に耐えていた。
(全部、ルーカスのせいだ。死んでも、俺を苦しめる)
唇を噛んだ。
血の味がした。
(ならば、俺は……どうすればよかった?)
誰にともなく問いかける。
けれど、返事はなかった。
外では春の風が吹いていた。
牢の中には、それすらも届かない。
彼は、自分が壊れていく音を、誰にも知られぬまま聞き続けていた。
~~~~~~~~~~~~
ミハエル・グリーグ――かつての公爵令息が平民に落とされ、国外追放となったという報せは、まるで落雷のように王都を駆け抜けた。
一部の貴族たちは顔を強張らせた。表立って関係を絶っていた者もいれば、密かに利権を共有していた者もいた。裁判で明るみに出た密貿易や不正献金、隠された資産の記録は、彼一人では到底成立しえない複雑な構造を示していた。
王家はそれらを慎重に摘出し、表沙汰にせずに関係者を静かに処分した。
グリーグ家は、領地と称号を剥奪された。王家に接収されたその領土は、管理官の監督下で再編が進められている。爵位は子爵にまで引き下げられ、かろうじて家名だけが残された。新たに当主に据えられた次男は、表情を失ったように命令を受け入れ、王家の意向に従う姿勢を見せた。
王城の噴水前で、誰かが吐き捨てるように言った。
「グリーグ家も、終わりね。公爵の威光で守られていただけの空っぽな器だった」
一方、市井の人々の反応は冷ややかだった。噂好きの女たちは広場で口をひそめ、かつて街道整備を遅らせられた商人たちは、酒場で杯を掲げて笑い飛ばした。
「奴の馬車が通るからって、工事を止めさせられたことがあったんだ。あれが最後の見栄だったな」
「これでようやく、公正な交易ができるってもんだ」
その笑いの裏には、見えない恐怖が剥がれ落ちた安堵があった。
ミハエルの暴虐は、恐れによって封じられ、沈黙のうちに飲み込まれていた。今ようやく、正しさが公にされたのだと、人々は感じていた。
王太子の名は、この一件でさらに信頼を集めた。
かつてミハエルと近かった一部の家門は、あわてて自家の姿勢を見直し、次代の政に乗り遅れまいと必死だった。
――そして、静かに涙を流す者もいた。
それは、ルーカスを知る人々だった。
将来を嘱望され、才能にあふれた若き絵描き――
彼の死は、まぎれもない悲劇だった。
王都の片隅で、密かにその名を知る者たちは、せめて正義が果たされたのだと、胸を撫で下ろしていた。
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