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46 絵の中の彼女
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風が静かに吹き抜ける墓地の片隅。
ひとりの令嬢が、白い花束を手に佇んでいた。
マーガレットは、目の前の墓標にそっと膝をつくと、その名を唇の内でそっと呼んだ。
「……ルーカス」
簡素な墓。飾られたものは何もない。
けれど、そこに刻まれた名は、彼女の胸に一生残るものだった。
「あなたは、ずっと、まっすぐな人だったわね。優しくて、誠実で……」
震える指で花を供える。
その手元に、雫が落ちた。気づけば、静かに涙がこぼれていた。
「どうして、あの時、もっと……」
言葉は続かなかった。
どれだけ言葉を重ねても、もう彼に届くことはないのだという現実だけが、胸を突いた。
ずっと、好きだった。
それは幼い恋だったかもしれない。けれど、確かに心を焦がして、静かに燃えていた。
でも、それは決して口にしてはいけない想いだった。彼は平民で、彼女は侯爵令嬢。たとえ想いが通じたとしても、許されない立場だった。だからこそ、思うだけでよかった。そばにいられるだけで、幸せだった。
「だけど、あなたは……もう……」
彼の不在は、世界のどこかが欠けたような感覚を、毎日のように彼女に思い知らせていた。
立ち上がると、ゆっくりと屋敷の一角へと歩き出した。かつて、ルーカスが住んでいた離れの小部屋。
彼が出奔して以来、誰も手をつけていないその場所を、今日だけは見ておきたかった。
扉を開けると、そこには変わらぬ静けさがあった。
簡素だが清潔に整えられた部屋。几帳面な彼の性格そのままに、本も道具も秩序を持って並んでいる。
彼の息づかいがまだどこかに残っているようで、思わず胸が詰まった。
机の上には、描きかけの絵。
イーゼルには、柔らかな筆致で描かれた風景や動物たち。
スケッチブックを開くと、まるで彼の日常がそこに息づいていた。
庭に咲いた野の花。
パンと温かいミルクの朝食。
通りで見かけた猫が、丸くなって寝ている姿。
日々の中に宿る小さな美しさ――彼は、そんなものを見逃さなかった人だった。
スケッチブックをめくる指がふと止まったときだった。マーガレットの胸に、ひとつの記憶が鮮やかに蘇る。
――あれは、まだ自分が十ニの年。
母の慈善活動に付き添って、孤児院を訪れたときのことだった。
見慣れない場所で、少しだけ緊張していた彼女の目に、ふと目の前に現れたのはルーカスだった。
白い頬に柔らかな髪がかかって、長い睫毛が影を落とす端正な顔は、最初、少女かと思ったほどに美しかった。
けれど、姿勢や服装、そしてその手元――
絵筆を握る指先が絵具で彩られているのを見て、彼が男の子だと気づいた。
「……あなた、絵をお描きになるの?」
思わず尋ねると、少年は少し驚いたように穏やかに微笑んだ。その笑顔に、胸がふっと温かくなったのを覚えている。
彼が見せてくれた絵は、どこか物語のようだった。
風に揺れる草花。空を舞う鳥。
色も構図も稚拙さを残しながら、不思議と胸に迫るものがあった。
「とても……素敵ね」
そう言った彼女の言葉に、少年――ルーカスは、照れくさそうに頬を染めた。
それが、ふたりの最初の出会いだった。
以来、月に一度。
母の慈善活動の付き添いという名目で、マーガレットは孤児院を訪れるようになった。本を届けるふりをして、画材を持っていくこともあった。
ルーカスの描く絵が好きだった。彼と話す時間が好きだった。
けれど、いつからか――絵ではなく、彼自身に惹かれている自分に気づいた。
それは、言葉にしてはいけない想いだった。身分の差があまりにも大きく、決して交わるはずのない立場だった。
それでも、彼と笑い合った日々は、マーガレットの心に確かな光を灯していた。
――あのときの自分が見惚れたあの少年が、今ここにいないなんて。
胸が締めつけられるように痛んだ。
ページをめくる手がふと止まる。
奥にしまわれていた一枚の絵を引き出した瞬間、マーガレットは息を呑んだ。
それは、庭園の東屋で描かれた自分の肖像だった。
光の差し込む中、優雅に本を読み、微笑む彼女。その目元には柔らかな慈しみが宿り、髪の一本に至るまで、丁寧に描き込まれていた。
――こんなふうに、私を見ていたのね。
膝が崩れ落ちた。
絵を抱きしめるようにして、彼女はその場に泣き崩れた。
そして、その記憶の中の笑顔と、今、目の前にある絵の中の笑顔が、静かに重なった。
マーガレットは絵を抱きしめるようにして、膝をついた。
「私……この絵の中でだけは、ルーカスに好かれていたと思っていい?」
涙が止まらなかった。
けれど、彼女の心には、ほんの少し温かさが戻っていた。
――ありがとう、ルーカス。
――あなたに出会えて、本当に良かった。
やがて、立ち上がったマーガレットの瞳は、少しだけ晴れていた。
この想いを、胸に灯したまま、彼女は前を向いて歩き出した。
ひとりの令嬢が、白い花束を手に佇んでいた。
マーガレットは、目の前の墓標にそっと膝をつくと、その名を唇の内でそっと呼んだ。
「……ルーカス」
簡素な墓。飾られたものは何もない。
けれど、そこに刻まれた名は、彼女の胸に一生残るものだった。
「あなたは、ずっと、まっすぐな人だったわね。優しくて、誠実で……」
震える指で花を供える。
その手元に、雫が落ちた。気づけば、静かに涙がこぼれていた。
「どうして、あの時、もっと……」
言葉は続かなかった。
どれだけ言葉を重ねても、もう彼に届くことはないのだという現実だけが、胸を突いた。
ずっと、好きだった。
それは幼い恋だったかもしれない。けれど、確かに心を焦がして、静かに燃えていた。
でも、それは決して口にしてはいけない想いだった。彼は平民で、彼女は侯爵令嬢。たとえ想いが通じたとしても、許されない立場だった。だからこそ、思うだけでよかった。そばにいられるだけで、幸せだった。
「だけど、あなたは……もう……」
彼の不在は、世界のどこかが欠けたような感覚を、毎日のように彼女に思い知らせていた。
立ち上がると、ゆっくりと屋敷の一角へと歩き出した。かつて、ルーカスが住んでいた離れの小部屋。
彼が出奔して以来、誰も手をつけていないその場所を、今日だけは見ておきたかった。
扉を開けると、そこには変わらぬ静けさがあった。
簡素だが清潔に整えられた部屋。几帳面な彼の性格そのままに、本も道具も秩序を持って並んでいる。
彼の息づかいがまだどこかに残っているようで、思わず胸が詰まった。
机の上には、描きかけの絵。
イーゼルには、柔らかな筆致で描かれた風景や動物たち。
スケッチブックを開くと、まるで彼の日常がそこに息づいていた。
庭に咲いた野の花。
パンと温かいミルクの朝食。
通りで見かけた猫が、丸くなって寝ている姿。
日々の中に宿る小さな美しさ――彼は、そんなものを見逃さなかった人だった。
スケッチブックをめくる指がふと止まったときだった。マーガレットの胸に、ひとつの記憶が鮮やかに蘇る。
――あれは、まだ自分が十ニの年。
母の慈善活動に付き添って、孤児院を訪れたときのことだった。
見慣れない場所で、少しだけ緊張していた彼女の目に、ふと目の前に現れたのはルーカスだった。
白い頬に柔らかな髪がかかって、長い睫毛が影を落とす端正な顔は、最初、少女かと思ったほどに美しかった。
けれど、姿勢や服装、そしてその手元――
絵筆を握る指先が絵具で彩られているのを見て、彼が男の子だと気づいた。
「……あなた、絵をお描きになるの?」
思わず尋ねると、少年は少し驚いたように穏やかに微笑んだ。その笑顔に、胸がふっと温かくなったのを覚えている。
彼が見せてくれた絵は、どこか物語のようだった。
風に揺れる草花。空を舞う鳥。
色も構図も稚拙さを残しながら、不思議と胸に迫るものがあった。
「とても……素敵ね」
そう言った彼女の言葉に、少年――ルーカスは、照れくさそうに頬を染めた。
それが、ふたりの最初の出会いだった。
以来、月に一度。
母の慈善活動の付き添いという名目で、マーガレットは孤児院を訪れるようになった。本を届けるふりをして、画材を持っていくこともあった。
ルーカスの描く絵が好きだった。彼と話す時間が好きだった。
けれど、いつからか――絵ではなく、彼自身に惹かれている自分に気づいた。
それは、言葉にしてはいけない想いだった。身分の差があまりにも大きく、決して交わるはずのない立場だった。
それでも、彼と笑い合った日々は、マーガレットの心に確かな光を灯していた。
――あのときの自分が見惚れたあの少年が、今ここにいないなんて。
胸が締めつけられるように痛んだ。
ページをめくる手がふと止まる。
奥にしまわれていた一枚の絵を引き出した瞬間、マーガレットは息を呑んだ。
それは、庭園の東屋で描かれた自分の肖像だった。
光の差し込む中、優雅に本を読み、微笑む彼女。その目元には柔らかな慈しみが宿り、髪の一本に至るまで、丁寧に描き込まれていた。
――こんなふうに、私を見ていたのね。
膝が崩れ落ちた。
絵を抱きしめるようにして、彼女はその場に泣き崩れた。
そして、その記憶の中の笑顔と、今、目の前にある絵の中の笑顔が、静かに重なった。
マーガレットは絵を抱きしめるようにして、膝をついた。
「私……この絵の中でだけは、ルーカスに好かれていたと思っていい?」
涙が止まらなかった。
けれど、彼女の心には、ほんの少し温かさが戻っていた。
――ありがとう、ルーカス。
――あなたに出会えて、本当に良かった。
やがて、立ち上がったマーガレットの瞳は、少しだけ晴れていた。
この想いを、胸に灯したまま、彼女は前を向いて歩き出した。
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