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診療所の庭には、春先に植えられた花が、季節を追うように少しずつ蕾を膨らませていた。
アリシアの体調も、それに歩調を合わせるように、ようやく落ち着きを見せはじめていた。
まだ疲れやすさは残るものの、午前中の数時間だけ、無理のない範囲で受付や帳簿の整理など、診療所の事務作業を手伝うようになっていた。
「本当に助かるよ、アリシア嬢ちゃん。帳簿、こんなに綺麗に整理されてるの、何年ぶりかねえ」
看護師のマリーネが感心したように言い、もう一人の看護師であるユゼットがそれに頷いた。
「さすが商会の事務をやっていただけあるね。経費の整理や在庫の記録も、こんなに正確に。」
「ありがとうございます……少しずつ、でも……何かしていないと、落ち着かなくて」
アリシアは微笑む。その頬にはかつてのような生気が戻りつつあった。
老医師イシュトバーンも、そんな彼女を目を細めて見守っていた。
「君がいてくれると助かるよ。――本当に、感謝している」
居心地のよさに、アリシア自身も気づいていた。けれど、いつまでもここに甘えてはいけない。
そう考えるようになったのは、ごく自然な流れだった。
「先生、そろそろ……退院を考えています。身の回りのことも、少しずつできるようになりましたし」
ある日、アリシアが静かに切り出すと、イシュトバーンは驚いたように目を瞬いた。
「……そうか。そう思えるまで、君の心と身体が戻ってきたのなら、私としても嬉しいよ。けれど――」
彼は少しだけ言葉を選び、そして続けた。
「診療所を出ることまで、急がなくていい。むしろ、正式に“働いて”くれないか? 事務員として。君の人柄も仕事の丁寧さ、手際のよさは、よくわかっているつもりだ」
アリシアが戸惑いを見せると、マリーネとユゼットが背中を押すように微笑む。
「先生の娘さんが、昔使ってた離れがあるの。今は使ってないけど、手入れはしてあるし、すぐ住めるわ」
「診療所も目の前だから、身体のことも無理しなくて済むし、出産までのことも、私たちがしっかり見てあげられるわよ」
“自立”とは、どこかに行くことだけを意味しない。
そう気づいたのは、この人たちがアリシアのことを“仲間”として、自然に受け入れてくれていたからだった。
「……ありがとうございます。そんなふうに言っていただけるなんて……本当に、嬉しいです。お言葉に甘えて、もう少しだけ、ここに……」
「もう少しだけなんて言わずに、好きなだけいればいい」
イシュトバーンが優しく微笑みながらそう言うと、そばにいた看護師たちも何度もうなずいた。
そのあたたかな後押しに包まれ、アリシアは診療所の離れに住むことを決めた。
木の窓枠が少し軋むけれど、陽の入る居心地のよい部屋。元は医学生だったイシュトバーンの娘が使っていた空間で、本棚には古い医学書がいくつも残されていた。
朝は診療所の受付に立ち、午後は家事や手芸をして過ごす。時折お腹をなでながら、まだ見ぬ命に語りかける。
そんな穏やかな日々の中で、アリシアの目には、ようやく少しずつ光が宿るようになっていた。
そんなある日ーー
診療所の門前に、一台の上等な馬車が静かに停まった。
馬車の紋章はヘイウッド侯爵家のものだった。馬車から颯爽と降りたのはーー
サミュエルだった。
アリシアの体調も、それに歩調を合わせるように、ようやく落ち着きを見せはじめていた。
まだ疲れやすさは残るものの、午前中の数時間だけ、無理のない範囲で受付や帳簿の整理など、診療所の事務作業を手伝うようになっていた。
「本当に助かるよ、アリシア嬢ちゃん。帳簿、こんなに綺麗に整理されてるの、何年ぶりかねえ」
看護師のマリーネが感心したように言い、もう一人の看護師であるユゼットがそれに頷いた。
「さすが商会の事務をやっていただけあるね。経費の整理や在庫の記録も、こんなに正確に。」
「ありがとうございます……少しずつ、でも……何かしていないと、落ち着かなくて」
アリシアは微笑む。その頬にはかつてのような生気が戻りつつあった。
老医師イシュトバーンも、そんな彼女を目を細めて見守っていた。
「君がいてくれると助かるよ。――本当に、感謝している」
居心地のよさに、アリシア自身も気づいていた。けれど、いつまでもここに甘えてはいけない。
そう考えるようになったのは、ごく自然な流れだった。
「先生、そろそろ……退院を考えています。身の回りのことも、少しずつできるようになりましたし」
ある日、アリシアが静かに切り出すと、イシュトバーンは驚いたように目を瞬いた。
「……そうか。そう思えるまで、君の心と身体が戻ってきたのなら、私としても嬉しいよ。けれど――」
彼は少しだけ言葉を選び、そして続けた。
「診療所を出ることまで、急がなくていい。むしろ、正式に“働いて”くれないか? 事務員として。君の人柄も仕事の丁寧さ、手際のよさは、よくわかっているつもりだ」
アリシアが戸惑いを見せると、マリーネとユゼットが背中を押すように微笑む。
「先生の娘さんが、昔使ってた離れがあるの。今は使ってないけど、手入れはしてあるし、すぐ住めるわ」
「診療所も目の前だから、身体のことも無理しなくて済むし、出産までのことも、私たちがしっかり見てあげられるわよ」
“自立”とは、どこかに行くことだけを意味しない。
そう気づいたのは、この人たちがアリシアのことを“仲間”として、自然に受け入れてくれていたからだった。
「……ありがとうございます。そんなふうに言っていただけるなんて……本当に、嬉しいです。お言葉に甘えて、もう少しだけ、ここに……」
「もう少しだけなんて言わずに、好きなだけいればいい」
イシュトバーンが優しく微笑みながらそう言うと、そばにいた看護師たちも何度もうなずいた。
そのあたたかな後押しに包まれ、アリシアは診療所の離れに住むことを決めた。
木の窓枠が少し軋むけれど、陽の入る居心地のよい部屋。元は医学生だったイシュトバーンの娘が使っていた空間で、本棚には古い医学書がいくつも残されていた。
朝は診療所の受付に立ち、午後は家事や手芸をして過ごす。時折お腹をなでながら、まだ見ぬ命に語りかける。
そんな穏やかな日々の中で、アリシアの目には、ようやく少しずつ光が宿るようになっていた。
そんなある日ーー
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サミュエルだった。
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