【完結】時計台の約束

とっくり

文字の大きさ
47 / 53

46 絵の中の彼女

しおりを挟む
 風が静かに吹き抜ける墓地の片隅。
ひとりの令嬢が、白い花束を手に佇んでいた。

 マーガレットは、目の前の墓標にそっと膝をつくと、その名を唇の内でそっと呼んだ。
「……ルーカス」

 簡素な墓。飾られたものは何もない。
けれど、そこに刻まれた名は、彼女の胸に一生残るものだった。

「あなたは、ずっと、まっすぐな人だったわね。優しくて、誠実で……」

 震える指で花を供える。
その手元に、雫が落ちた。気づけば、静かに涙がこぼれていた。

「どうして、あの時、もっと……」

 言葉は続かなかった。
どれだけ言葉を重ねても、もう彼に届くことはないのだという現実だけが、胸を突いた。

 ずっと、好きだった。

それは幼い恋だったかもしれない。けれど、確かに心を焦がして、静かに燃えていた。

 でも、それは決して口にしてはいけない想いだった。彼は平民で、彼女は侯爵令嬢。たとえ想いが通じたとしても、許されない立場だった。だからこそ、思うだけでよかった。そばにいられるだけで、幸せだった。

「だけど、あなたは……もう……」

 彼の不在は、世界のどこかが欠けたような感覚を、毎日のように彼女に思い知らせていた。

 立ち上がると、ゆっくりと屋敷の一角へと歩き出した。かつて、ルーカスが住んでいた離れの小部屋。

 彼が出奔して以来、誰も手をつけていないその場所を、今日だけは見ておきたかった。

 扉を開けると、そこには変わらぬ静けさがあった。
簡素だが清潔に整えられた部屋。几帳面な彼の性格そのままに、本も道具も秩序を持って並んでいる。

 彼の息づかいがまだどこかに残っているようで、思わず胸が詰まった。

 机の上には、描きかけの絵。
イーゼルには、柔らかな筆致で描かれた風景や動物たち。
 スケッチブックを開くと、まるで彼の日常がそこに息づいていた。

庭に咲いた野の花。
パンと温かいミルクの朝食。
通りで見かけた猫が、丸くなって寝ている姿。

 日々の中に宿る小さな美しさ――彼は、そんなものを見逃さなかった人だった。


 スケッチブックをめくる指がふと止まったときだった。マーガレットの胸に、ひとつの記憶が鮮やかに蘇る。

――あれは、まだ自分が十ニの年。
母の慈善活動に付き添って、孤児院を訪れたときのことだった。

見慣れない場所で、少しだけ緊張していた彼女の目に、ふと目の前に現れたのはルーカスだった。

 白い頬に柔らかな髪がかかって、長い睫毛が影を落とす端正な顔は、最初、少女かと思ったほどに美しかった。
けれど、姿勢や服装、そしてその手元――
絵筆を握る指先が絵具で彩られているのを見て、彼が男の子だと気づいた。

「……あなた、絵をお描きになるの?」

 思わず尋ねると、少年は少し驚いたように穏やかに微笑んだ。その笑顔に、胸がふっと温かくなったのを覚えている。

 彼が見せてくれた絵は、どこか物語のようだった。

風に揺れる草花。空を舞う鳥。
色も構図も稚拙さを残しながら、不思議と胸に迫るものがあった。

「とても……素敵ね」

そう言った彼女の言葉に、少年――ルーカスは、照れくさそうに頬を染めた。
それが、ふたりの最初の出会いだった。


 以来、月に一度。
母の慈善活動の付き添いという名目で、マーガレットは孤児院を訪れるようになった。本を届けるふりをして、画材を持っていくこともあった。

 ルーカスの描く絵が好きだった。彼と話す時間が好きだった。
けれど、いつからか――絵ではなく、彼自身に惹かれている自分に気づいた。

 それは、言葉にしてはいけない想いだった。身分の差があまりにも大きく、決して交わるはずのない立場だった。
それでも、彼と笑い合った日々は、マーガレットの心に確かな光を灯していた。

――あのときの自分が見惚れたあの少年が、今ここにいないなんて。

胸が締めつけられるように痛んだ。

 ページをめくる手がふと止まる。
奥にしまわれていた一枚の絵を引き出した瞬間、マーガレットは息を呑んだ。

 それは、庭園の東屋で描かれた自分の肖像だった。

 光の差し込む中、優雅に本を読み、微笑む彼女。その目元には柔らかな慈しみが宿り、髪の一本に至るまで、丁寧に描き込まれていた。

――こんなふうに、私を見ていたのね。


膝が崩れ落ちた。
絵を抱きしめるようにして、彼女はその場に泣き崩れた。

 そして、その記憶の中の笑顔と、今、目の前にある絵の中の笑顔が、静かに重なった。

マーガレットは絵を抱きしめるようにして、膝をついた。


「私……は、ルーカスに好かれていたと思っていい?」

涙が止まらなかった。
けれど、彼女の心には、ほんの少し温かさが戻っていた。

――ありがとう、ルーカス。
――あなたに出会えて、本当に良かった。

やがて、立ち上がったマーガレットの瞳は、少しだけ晴れていた。
この想いを、胸に灯したまま、彼女は前を向いて歩き出した。









しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

これ以上私の心をかき乱さないで下さい

Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。 そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。 そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが “君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない” そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。 そこでユーリを待っていたのは…

背徳の恋のあとで

ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』 恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。 自分が子供を産むまでは…… 物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。 母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。 そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき…… 不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか? ※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

婚約破棄、ありがとうございます

奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。

嘘が愛を試す時 〜君を信じたい夜に〜

月山 歩
恋愛
サラとマリウス・ハンプトン侯爵夫婦のもとに、衝撃的な告白を携えた男が訪れる。「隠れてサラと愛し合っている。」と。 身に覚えのない不貞の証拠に、いくらサラが誤解だと訴えてもマリウスは次第に疑念を深めてゆく。 男の目的はただ一つ、サラを奪うこと。 *こちらはアルファポリス版です。

あなたが遺した花の名は

きまま
恋愛
——どうか、お幸せに。 ※拙い文章です。読みにくい箇所があるかもしれません。 ※作者都合の解釈や設定などがあります。ご容赦ください。

あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます

おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」 そう書き残してエアリーはいなくなった…… 緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。 そう思っていたのに。 エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて…… ※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。

『すり替えられた婚約、薔薇園の告白

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。 社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に 王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。

処理中です...