【完結】時計台の約束

とっくり

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49 アリシアの気持ち

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 サミュエルが診療所を後にしたのは、夕暮れ前だった。

 静かに見送ったあと、アリシアは再び応接室へ戻り、椅子に腰掛けた。
胸に抱えているのは、ルーカスのスケッチブック。彼が命の最後に残した形見。

 音のない部屋。
かすかに風が吹き込み、カーテンがやわらかく揺れる。
それでも彼女は、身じろぎひとつせず、ただそこに座っていた。

 ずっと張り詰めていた何かが、静かにほどけていく。少しずつ、少しずつ、自分の中にあった痛みが、形を持って浮かび上がってくる。

「……ルーカス」

 名前を呼ぶだけで、喉の奥が締めつけられるように痛んだ。
もう、どれだけ呼んでも――もう、彼は返事をくれない。

 けれど、彼のぬくもりは、確かにこの腕の中にあった。
ページの端に残る指の跡、何度もなぞった線の震え。

 それらすべてが、言葉より雄弁に語っていた。
――ルーカスは、最後の最後まで、自分を想ってくれていたのだと。

 アリシアは、ゆっくりとスケッチブックを開いた。
そして、最後の一枚を、そっと見つめた。

 まっすぐに描かれたはずの線は、何度も狂い、擦れ、歪んでいた。
けれどその中には、確かに「彼」がいた。
不器用に、懸命に、たしかに自分を描こうとしてくれた、その想いがあった。

 震える指先で、彼女は絵の輪郭をなぞる。目元。髪。表情――どれも拙くて、けれど、自分自身であると、なぜかすぐに分かった。

(……愛してくれていたんだ)

思い込みじゃなかった。
自惚れでも、幻想でもなかった。

 どれほど不安に思っていた日々も、彼の心が別の誰かに向いているのではと疑った夜も、全部、彼の想いを信じきれなかった自分の弱さのせいだった。

ぽたり、と涙が一粒、紙の上に落ちた。

「ごめんね……私、ずっと、怖かったの」

うつむいたまま、震える声で独り言のように語りかける。

「あなたの愛が、私に向いてないんじゃないかって……
いつか終わるんじゃないかって……
あなたの心が、他の誰かのもので、私はただの……一時の慰めなんじゃないかって……
心のどこかで、ずっとそう思ってた」

 言葉にするたび、胸の奥が痛んだ。
ルーカスがそんなことをするはずがないと分かっていながら、それでも疑ってしまっていた。

――もしルーカスがこの独白を聞いていたら、彼は怒るだろうか?
温厚な彼の、珍しく傷ついた顔が目に浮かぶ。

『アリシア、ひどいな。僕の気持ちを信じてくれないなんて』

でも、きっとその後には、あの穏やかな声で、こう続けるだろう。

『君を不安にさせたのは、僕の愛情表現が足りなかったからかな?……これからは、もっと分かるように伝えないとね』

そう言って、いつものように優しく抱きしめてくれる。

(……ルーカス。あなたのせいじゃない。全部、私の弱さ)

「……私、馬鹿だな」

信じきれなかった日々が、確かにあった。

「ルーカス、ごめんね……」

ぽつりと呟いたあと、アリシアはふと、涙に濡れたまま笑った。

 それは悲しみではなく、静かな赦しのような笑みだった。
張り詰めていた霧が晴れていくように、心の中がすうっと澄んでいく。

アリシアはそっとお腹に手を当てた。

あたたかい――
この小さな命が、ここにいる。
ルーカスの一部が、自分の中に、まだ生きている。

「あなたが……残してくれたこの子と一緒に、ちゃんと、生きる」

小さな声だったけれど、そこには確かな決意があった。

もう、怯えない。
もう、自分を疑わない。

「私が守るから。あなたが大事にしてくれたもの、全部」

 スケッチブックをそっと抱きしめて、アリシアは目を閉じた。

 涙のあとに訪れた静けさは、もう苦しみではなかった。
それは、新しい朝の気配だった。

 ルーカスが守ろうとした未来を、今度は自分の手で育てていく。
それが、自分にできる「愛し返すこと」なのだと、ようやく知った。
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