【完結】時計台の約束

とっくり

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50 胎動

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 診療所の朝は、鳥の声より早くゆるやかに始まる。
薬棚の硝子瓶に薄陽が差し込むころ、アリシアは離れから小径を渡り、まだひんやりした廊下を歩いて帳場へ入った。
 老医師イシュトバーンは白衣の袖をたくし上げ、包帯を巻く準備をしている。中年の看護師マリーネとユゼットは、湯気の立つ薬草茶を盆に載せて彼女に微笑んだ。

「無理はしないでいい。立っているだけで助かるんだから」
 そう言いながらも、イシュトバーンはきちんと帳簿を手渡す。
 アリシアはインク壺のふちでペン先を整えると、数字を一行ずつ揃えてゆく。
 桁違いの薬代や診療費を計算しながら、ふと懐かしい感覚が胸をくすぐった。――商会で事務をしていた頃の手際。そこに「役に立てる」という呼吸が戻ってきた。

 午前の診察がひと段落すると、足の悪い老婦人が、薬草を煮出した布を腕に巻きながらアリシアに声をかける。

「若いのに、よく働くねぇ。お腹の子も、きっとお利口さんになるよ」

そう言ってにこにこと笑う彼女に、アリシアは少し恥ずかしそうに頭を下げた。

「この子が生まれる頃には、もっと早く帳簿をつけられるようになってるかもしれません」
冗談めかして答えると、老婦人は大きく頷いた。
「帳簿より、おむつ替えが早くなるといいねぇ、ふふふ」

 別の日には、転んで額を擦りむいた少年が、診察のあとアリシアに向かって小声で尋ねてきた。
「ねえ、お姉ちゃんの赤ちゃんって、もうしゃべるの?」

アリシアは思わず笑いながら、
「まだお腹の中だからね、内緒話しかできないの」
と返すと、少年は何やら真剣な顔で彼女のお腹に向かって呟いていた。

「僕、がんばって泣かないって言ったの。だから君も、お腹で泣かないでね」

アリシアは思わず目を細めて、その小さな背に優しく手を添えた。

 昼休みになると、マリーネが縫いかけの白い産着を渡してくれる。
針を持つ指が震えないほどに体調が安定してきた証拠だ。小さな袖口をとじながら、彼女はまだ見ぬ我が子の腕を想像する。
窓辺を淡い陽射しが撫で、帳場の埃が金色に舞った。

 ここは「一時の避難所」ではなく――「帰れる場所」に変わりつつあった。


~~~~~~~~~~~

 その夜。
灯りを落とし、静かに布団に身を沈めたときだった。ふいに、お腹の奥でぽこりと何かが弾けた。

「……えっ」

 反射的に息を呑む。驚きで胸がきゅうと締めつけられた。
思わず両手をそっとお腹に当てると、今度ははっきりと――内側から、もう一度。
 小さく、けれど確かに、生きている証が指先に伝わった。
 ほんのわずかな動きなのに、全身が震えるほどの衝撃だった。

「……ルーカス、聞こえる?」

 囁いた声は、すぐに涙にほどけた。
静まり返った部屋に、自分の鼓動と重なるように、もう一つの命の音がある。
まるで、彼が「ここにいるよ」と応えてくれたようで。

 顔を横に向ければ、月明かりが差し込む窓枠の向こう、机の上のスケッチブックがぼんやりと浮かんで見えた。
表紙の角がわずかに開き、最後のページ――あの、拙い線で描かれた自分の姿がそこにある。乱れた輪郭。震えた線。何度もなぞった眉と唇。

 完璧じゃない。でも、だからこそ伝わるものがあった。

目を閉じて思い出す。

右手がもう満足に動かなかった日々。
アリシアに気付かれぬよう、こっそりと震える指で、何度も何度も、自分を描いてくれていたのだ。

(いつか、見せてくれる予定だったのかな)

 次の瞬間――ぽん、と優しい拍動がまた返ってきた。

返事のように。鼓舞するように。

自分の中で、彼が託した命が、今、息づいている。

 胸の奥に灯る温かさと切なさが、涙となって溢れ出す。

でも、もう泣くだけの夜ではなかった。
涙の奥には、たしかに微笑があった。

ルーカスが遺してくれたものが、今ここにいる。 

未来を恐れずに迎えに行ける。
あの夜、アリシアはそう信じられた。

そして、胸の中でそっとささやく。

―ールーカス。私、ちゃんと、頑張るからね。

 静かな夜に、母になる準備が一つ進んだ。新しい命とともに、心の中で愛は確かに息づいていた。
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