【完結】時計台の約束

とっくり

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51 誕生

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 雪解け水が勢いよく川石を打ち、山からの風が診療所の木窓を震わせた初春の夜。
その音に紛れるようにして、アリシアの腹に走ったのは、刃物のように鋭い痛みだった。

 最初の痛みは、眠りのふちで夢かと思えるほど淡かった。
けれど、それが二度、三度と襲い来るたび、全身に警鐘のように響いた。

「……っ、きた……!」

 掠れた声をもらし、アリシアはゆっくり体を起こす。額にはすぐに汗が滲み、腹部は岩のように固く収縮していた。

 物音に気づいたのは、看護師のユゼットだった。
「アリシア!どうしたの?痛みが……?!」

「・・・はい、たぶん……陣痛……です」

 慌てず騒がず、それでも目を大きく見開いたユゼットはすぐさま廊下を駆け出し、当直のマリーネを呼びに行った。

 老医師イシュトバーンもすぐに姿を見せる。眠気のかけらもなく、着る間も惜しんだのか上着の襟が裏返ったままだ。

「この子は頑張り屋だからな、早く会いたくなったんだろう」

 彼の言葉は冗談めいていたが、その瞳は真剣そのものだった。
 簡易の産褥が整えられ、アリシアは手を借りながら診察室の奥へと運ばれる。

時間の感覚が消え始める。

 波のような痛みが押し寄せ、引いてはまた襲う。そのたびに全身の筋肉が張りつめ、指先が冷たくなる。

 マリーネは濡らした布で額をぬぐいながら、優しく声をかけた。
「深く吸って、そう、それでいい。頑張るのよ、アリシア!」

「はい……がんばります……この子に会えるのが、嬉しいから」

 唇が震えていたのは、痛みのせいばかりではなかった。
目を閉じれば、ルーカスの微笑みがよみがえる。

『アリシア…君なら大丈夫』


「――“守る”んだろう?」

 イシュトバーンが、低く静かな声で言った。
「ただ産むだけじゃない。これから何十年も、君はこの命を守るんだ」

 アリシアは頷いた。唇を噛みながら、両手で腹を支える。
「この子のために、私は生きる。あなたの分まで」

 痛みは増し、息は浅くなり、意識が遠のきそうになる。マリーネが手を握り、ユゼットが背中を支え、イシュトバーンの指示が飛ぶ。夜の静けさに、命の誕生を告げる声が重なっていく。

「いきんで! いまだ、アリシア!」

全身の力を込めた。叫びとともに、腹の奥から何かが動く。
熱いものが内から流れ出し、次の瞬間――

鋭い産声が、夜の天井を突き抜けた。

診療室の空気が、一気に変わる。

ユゼットが「男の子です!」と叫び、マリーネが手早くタオルにくるむ。
そして小さな命は、そっとアリシアの胸元へ運ばれた。

その重みが、信じられないほど愛おしかった。濡れた金髪、ぎゅっと握られた小さな拳、しっかりとした泣き声――

「……ルーカス」

 思わずこぼれた名は、亡き恋人へのものだった。

 でも、その名にしがみつくのではなく、彼へ伝えるように呟いたのだ。

(・・・無事に生まれたよ。あなたも見てくていたでしょう?)

 赤子が小さく身じろぎし、眠たげにまぶたをひくつかせた。

アリシアは額をそっと近づける。

「あなたが遺してくれた愛を、私の手で育てるよ。――ちゃんと、未来へ届ける」

 誰の代わりでもない、この子だけの人生が、今始まったのだ。

 やがて産声は静まり、母の胸で、幼い寝息が始まる。
 窓の外には、雪解けの水を運ぶ風が柔らかく枝を揺らし、空がゆっくりと明るみ始めていた。

 マリーネが、新しい白布をそっとかけ、静かに告げる。
「おめでとう、アリシア。よく頑張ったわ」

イシュトバーンは肩越しに深く頷き、言った。

「この子は強いぞ。そして……母親もな」

 アリシアは頬を濡らしながら、赤子を胸に抱きしめた。
痛みを超え、祈りを超え、今ここにある新しい命。
――それは、別れではなく、はじまりだった。

夜が明ける。
この日からアリシアは、母となる。
ルーカスと共に過ごした日々を胸に、未来へ歩いていく。

そして、新しい家族の朝が、光とともに訪れた。
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