52 / 53
51 誕生
しおりを挟む
雪解け水が勢いよく川石を打ち、山からの風が診療所の木窓を震わせた初春の夜。
その音に紛れるようにして、アリシアの腹に走ったのは、刃物のように鋭い痛みだった。
最初の痛みは、眠りのふちで夢かと思えるほど淡かった。
けれど、それが二度、三度と襲い来るたび、全身に警鐘のように響いた。
「……っ、きた……!」
掠れた声をもらし、アリシアはゆっくり体を起こす。額にはすぐに汗が滲み、腹部は岩のように固く収縮していた。
物音に気づいたのは、看護師のユゼットだった。
「アリシア!どうしたの?痛みが……?!」
「・・・はい、たぶん……陣痛……です」
慌てず騒がず、それでも目を大きく見開いたユゼットはすぐさま廊下を駆け出し、当直のマリーネを呼びに行った。
老医師イシュトバーンもすぐに姿を見せる。眠気のかけらもなく、着る間も惜しんだのか上着の襟が裏返ったままだ。
「この子は頑張り屋だからな、早く会いたくなったんだろう」
彼の言葉は冗談めいていたが、その瞳は真剣そのものだった。
簡易の産褥が整えられ、アリシアは手を借りながら診察室の奥へと運ばれる。
時間の感覚が消え始める。
波のような痛みが押し寄せ、引いてはまた襲う。そのたびに全身の筋肉が張りつめ、指先が冷たくなる。
マリーネは濡らした布で額をぬぐいながら、優しく声をかけた。
「深く吸って、そう、それでいい。頑張るのよ、アリシア!」
「はい……がんばります……この子に会えるのが、嬉しいから」
唇が震えていたのは、痛みのせいばかりではなかった。
目を閉じれば、ルーカスの微笑みがよみがえる。
『アリシア…君なら大丈夫』
「――“守る”んだろう?」
イシュトバーンが、低く静かな声で言った。
「ただ産むだけじゃない。これから何十年も、君はこの命を守るんだ」
アリシアは頷いた。唇を噛みながら、両手で腹を支える。
「この子のために、私は生きる。あなたの分まで」
痛みは増し、息は浅くなり、意識が遠のきそうになる。マリーネが手を握り、ユゼットが背中を支え、イシュトバーンの指示が飛ぶ。夜の静けさに、命の誕生を告げる声が重なっていく。
「いきんで! いまだ、アリシア!」
全身の力を込めた。叫びとともに、腹の奥から何かが動く。
熱いものが内から流れ出し、次の瞬間――
鋭い産声が、夜の天井を突き抜けた。
診療室の空気が、一気に変わる。
ユゼットが「男の子です!」と叫び、マリーネが手早くタオルにくるむ。
そして小さな命は、そっとアリシアの胸元へ運ばれた。
その重みが、信じられないほど愛おしかった。濡れた金髪、ぎゅっと握られた小さな拳、しっかりとした泣き声――
「……ルーカス」
思わずこぼれた名は、亡き恋人へのものだった。
でも、その名にしがみつくのではなく、彼へ伝えるように呟いたのだ。
(・・・無事に生まれたよ。あなたも見てくていたでしょう?)
赤子が小さく身じろぎし、眠たげにまぶたをひくつかせた。
アリシアは額をそっと近づける。
「あなたが遺してくれた愛を、私の手で育てるよ。――ちゃんと、未来へ届ける」
誰の代わりでもない、この子だけの人生が、今始まったのだ。
やがて産声は静まり、母の胸で、幼い寝息が始まる。
窓の外には、雪解けの水を運ぶ風が柔らかく枝を揺らし、空がゆっくりと明るみ始めていた。
マリーネが、新しい白布をそっとかけ、静かに告げる。
「おめでとう、アリシア。よく頑張ったわ」
イシュトバーンは肩越しに深く頷き、言った。
「この子は強いぞ。そして……母親もな」
アリシアは頬を濡らしながら、赤子を胸に抱きしめた。
痛みを超え、祈りを超え、今ここにある新しい命。
――それは、別れではなく、はじまりだった。
夜が明ける。
この日からアリシアは、母となる。
ルーカスと共に過ごした日々を胸に、未来へ歩いていく。
そして、新しい家族の朝が、光とともに訪れた。
その音に紛れるようにして、アリシアの腹に走ったのは、刃物のように鋭い痛みだった。
最初の痛みは、眠りのふちで夢かと思えるほど淡かった。
けれど、それが二度、三度と襲い来るたび、全身に警鐘のように響いた。
「……っ、きた……!」
掠れた声をもらし、アリシアはゆっくり体を起こす。額にはすぐに汗が滲み、腹部は岩のように固く収縮していた。
物音に気づいたのは、看護師のユゼットだった。
「アリシア!どうしたの?痛みが……?!」
「・・・はい、たぶん……陣痛……です」
慌てず騒がず、それでも目を大きく見開いたユゼットはすぐさま廊下を駆け出し、当直のマリーネを呼びに行った。
老医師イシュトバーンもすぐに姿を見せる。眠気のかけらもなく、着る間も惜しんだのか上着の襟が裏返ったままだ。
「この子は頑張り屋だからな、早く会いたくなったんだろう」
彼の言葉は冗談めいていたが、その瞳は真剣そのものだった。
簡易の産褥が整えられ、アリシアは手を借りながら診察室の奥へと運ばれる。
時間の感覚が消え始める。
波のような痛みが押し寄せ、引いてはまた襲う。そのたびに全身の筋肉が張りつめ、指先が冷たくなる。
マリーネは濡らした布で額をぬぐいながら、優しく声をかけた。
「深く吸って、そう、それでいい。頑張るのよ、アリシア!」
「はい……がんばります……この子に会えるのが、嬉しいから」
唇が震えていたのは、痛みのせいばかりではなかった。
目を閉じれば、ルーカスの微笑みがよみがえる。
『アリシア…君なら大丈夫』
「――“守る”んだろう?」
イシュトバーンが、低く静かな声で言った。
「ただ産むだけじゃない。これから何十年も、君はこの命を守るんだ」
アリシアは頷いた。唇を噛みながら、両手で腹を支える。
「この子のために、私は生きる。あなたの分まで」
痛みは増し、息は浅くなり、意識が遠のきそうになる。マリーネが手を握り、ユゼットが背中を支え、イシュトバーンの指示が飛ぶ。夜の静けさに、命の誕生を告げる声が重なっていく。
「いきんで! いまだ、アリシア!」
全身の力を込めた。叫びとともに、腹の奥から何かが動く。
熱いものが内から流れ出し、次の瞬間――
鋭い産声が、夜の天井を突き抜けた。
診療室の空気が、一気に変わる。
ユゼットが「男の子です!」と叫び、マリーネが手早くタオルにくるむ。
そして小さな命は、そっとアリシアの胸元へ運ばれた。
その重みが、信じられないほど愛おしかった。濡れた金髪、ぎゅっと握られた小さな拳、しっかりとした泣き声――
「……ルーカス」
思わずこぼれた名は、亡き恋人へのものだった。
でも、その名にしがみつくのではなく、彼へ伝えるように呟いたのだ。
(・・・無事に生まれたよ。あなたも見てくていたでしょう?)
赤子が小さく身じろぎし、眠たげにまぶたをひくつかせた。
アリシアは額をそっと近づける。
「あなたが遺してくれた愛を、私の手で育てるよ。――ちゃんと、未来へ届ける」
誰の代わりでもない、この子だけの人生が、今始まったのだ。
やがて産声は静まり、母の胸で、幼い寝息が始まる。
窓の外には、雪解けの水を運ぶ風が柔らかく枝を揺らし、空がゆっくりと明るみ始めていた。
マリーネが、新しい白布をそっとかけ、静かに告げる。
「おめでとう、アリシア。よく頑張ったわ」
イシュトバーンは肩越しに深く頷き、言った。
「この子は強いぞ。そして……母親もな」
アリシアは頬を濡らしながら、赤子を胸に抱きしめた。
痛みを超え、祈りを超え、今ここにある新しい命。
――それは、別れではなく、はじまりだった。
夜が明ける。
この日からアリシアは、母となる。
ルーカスと共に過ごした日々を胸に、未来へ歩いていく。
そして、新しい家族の朝が、光とともに訪れた。
88
あなたにおすすめの小説
これ以上私の心をかき乱さないで下さい
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のユーリは、幼馴染のアレックスの事が、子供の頃から大好きだった。アレックスに振り向いてもらえるよう、日々努力を重ねているが、中々うまく行かない。
そんな中、アレックスが伯爵令嬢のセレナと、楽しそうにお茶をしている姿を目撃したユーリ。既に5度も婚約の申し込みを断られているユーリは、もう一度真剣にアレックスに気持ちを伝え、断られたら諦めよう。
そう決意し、アレックスに気持ちを伝えるが、いつも通りはぐらかされてしまった。それでも諦めきれないユーリは、アレックスに詰め寄るが
“君を令嬢として受け入れられない、この気持ちは一生変わらない”
そうはっきりと言われてしまう。アレックスの本心を聞き、酷く傷ついたユーリは、半期休みを利用し、兄夫婦が暮らす領地に向かう事にしたのだが。
そこでユーリを待っていたのは…
背徳の恋のあとで
ひかり芽衣
恋愛
『愛人を作ることは、家族を維持するために必要なことなのかもしれない』
恋愛小説が好きで純愛を夢見ていた男爵家の一人娘アリーナは、いつの間にかそう考えるようになっていた。
自分が子供を産むまでは……
物心ついた時から愛人に現を抜かす父にかわり、父の仕事までこなす母。母のことを尊敬し真っ直ぐに育ったアリーナは、完璧な母にも唯一弱音を吐ける人物がいることを知る。
母の恋に衝撃を受ける中、予期せぬ相手とのアリーナの初恋。
そして、ずっとアリーナのよき相談相手である図書館管理者との距離も次第に近づいていき……
不倫が身近な存在の今、結婚を、夫婦を、子どもの存在を……あなたはどう考えていますか?
※アリーナの幸せを一緒に見届けて下さると嬉しいです。
婚約破棄、ありがとうございます
奈井
恋愛
小さい頃に婚約して10年がたち私たちはお互い16歳。来年、結婚する為の準備が着々と進む中、婚約破棄を言い渡されました。でも、私は安堵しております。嘘を突き通すのは辛いから。傷物になってしまったので、誰も寄って来ない事をこれ幸いに一生1人で、幼い恋心と一緒に過ごしてまいります。
嘘が愛を試す時 〜君を信じたい夜に〜
月山 歩
恋愛
サラとマリウス・ハンプトン侯爵夫婦のもとに、衝撃的な告白を携えた男が訪れる。「隠れてサラと愛し合っている。」と。
身に覚えのない不貞の証拠に、いくらサラが誤解だと訴えてもマリウスは次第に疑念を深めてゆく。
男の目的はただ一つ、サラを奪うこと。
*こちらはアルファポリス版です。
あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます
おぜいくと
恋愛
「あなたの秘密を知ってしまったから私は消えます。さようなら」
そう書き残してエアリーはいなくなった……
緑豊かな高原地帯にあるデニスミール王国の王子ロイスは、来月にエアリーと結婚式を挙げる予定だった。エアリーは隣国アーランドの王女で、元々は政略結婚が目的で引き合わされたのだが、誰にでも平等に接するエアリーの姿勢や穢れを知らない澄んだ目に俺は惹かれた。俺はエアリーに素直な気持ちを伝え、王家に代々伝わる指輪を渡した。エアリーはとても喜んでくれた。俺は早めにエアリーを呼び寄せた。デニスミールでの暮らしに慣れてほしかったからだ。初めは人見知りを発揮していたエアリーだったが、次第に打ち解けていった。
そう思っていたのに。
エアリーは突然姿を消した。俺が渡した指輪を置いて……
※ストーリーは、ロイスとエアリーそれぞれの視点で交互に進みます。
『すり替えられた婚約、薔薇園の告白
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢シャーロットは幼馴染の公爵カルロスを想いながら、伯爵令嬢マリナの策で“騎士クリスとの婚約”へとすり替えられる。真面目なクリスは彼女の心が別にあると知りつつ、護るために名乗りを上げる。
社交界に流される噂、贈り物の入れ替え、夜会の罠――名誉と誇りの狭間で、言葉にできない愛は揺れる。薔薇園の告白が間に合えば、指輪は正しい指へ。間に合わなければ、永遠に
王城の噂が運命をすり替える。幼馴染の公爵、誇り高い騎士、そして策を巡らす伯爵令嬢。薔薇園で交わされる一言が、花嫁の未来を決める――誇りと愛が試される、切なくも凛とした宮廷ラブロマンス。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる