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うららかな午後の日差しが、王宮の庭園に設けられた東屋に優しく降り注いでいる。
テーブルの上には、淹れたての紅茶が湯気を立て、色とりどりの焼き菓子が美しい皿の上に並べられていた。
その向かい合う席で、私の婚約者であるこの国の王太子、レピオド・レイ・カルミナス殿下は、幸せそうに目を細めてバニラのアイスクリームをスプーンで掬っている。
「ん、やはりここの料理人が作るアイスは絶品だな。アイも食べないのか?」
「……いただきます」
促されるまま、私も目の前にあるストロベリーのアイスクリームに手を伸ばす。けれど、喉の奥がつかえたように、甘いはずのアイスは味気なく感じられた。
キラキラと輝く金色の髪に、情熱を宿した赤い瞳。神が精魂込めて作り上げたとしか思えない完璧な美貌を持つ殿下は、私の自慢の婚約者。
――だったはずなのに。
いつからだろう。殿下の隣にいることが、こんなにも苦しくなってしまったのは。
私の心の中に渦巻く黒い感情とは裏腹に、殿下はどこまでも優しく、穏やかだ。その優しさすら、今の私には刃のように突き刺さる。
もう、限界だった。
これ以上、自分を偽って、彼の隣に立ち続けることはできない。
私は、ほとんど溶けてしまった自分のお皿を静かにテーブルに置くと、震える唇を必死に押さえつけながら、意を決して顔を上げた。
「殿下」
「ん? どうした、アイ。そんなに真剣な顔をして」
私のただならぬ様子に、ようやく殿下もスプーンを置いた。その赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
ごくり、と喉が鳴る。今、この言葉を口にしてしまえば、もう二度と元には戻れない。
それでも、言わなければならなかった。彼のためにも、そして、もうこれ以上自分を嫌いにならないためにも。
「私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?」
やっとの思いで紡いだ言葉は、自分でも驚くほど平坦な響きを持っていた。
風が吹き、庭園の木々の葉がさわさわと音を立てる。一瞬の沈黙が、やけに長く感じられた。
てっきり驚かれるか、あるいは怒りを露わにされるかと身構えていた。けれど、殿下の反応は、私の予想を遥かに超えていた。
彼は、ふ、と柔らかく微笑んだのだ。
「俺はしないよ婚約破棄」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、私は思考が停止する。
え? いま、なんて……。
「アイよ。周りの茶番に翻弄され過ぎたようだな」
そう言って、殿下は椅子から立ち上がると、私の隣までゆっくりと歩いてきた。そして、私の頬にそっと触れる。
大きな手のひらから伝わる熱に、心臓がどきりと跳ねた。
「俺の気持ちは熱いぞ。心がとけてしまいそうにな」
情熱的な赤い瞳が、吐息がかかるほど近くで私を見つめる。甘く、囁くような声が、私の心を蕩かしていく。
ダメだ。そんな顔をされたら、そんな声で名前を呼ばれたら、せっかく固めた決心が揺らいでしまう。
私は必死に彼の視線から逃れるように顔を伏せた。その時、あるものが視界に入る。
「……アイス溶けてますよ?」
私の視線の先、テーブルの上に置かれたままだった殿下のバニラアイスは、彼の熱い言葉を体現するかのように、すっかり形を失って白い液体と化していた。
その瞬間、甘く蕩けるような雰囲気が霧散する。
殿下は私の言葉に「え?」と素っ頓狂な声を上げると、勢いよくテーブルの上を見た。
「おおっと!……何たる失態…」
さっきまでの情熱的な王子様の姿はどこへやら。彼は見るからに狼狽え、溶けてしまったアイスの皿を手に取って唸っている。
「こんな溶けかけたアイスは破棄だ!別のものを買ってくるとしよう」
そして、高らかにそう宣言すると、私の手首を優しく掴んだ。
「さあ、行くぞアイ! もっと美味しい、出来立てのアイスを食べに行こう!」
「え、あ、殿下!?」
私の返事も待たずに、殿下は私の手を引いて歩き出す。
先ほどの婚約破棄の話は、まるで最初からなかったことのように。
呆気に取られ、なすがままに手を引かれながら、私は心の中でため息をついた。
どうして、この人はこうなのだろう。
私の深刻な悩みも、決死の覚悟も、この人の前ではまるで溶けたアイスのように、あっけなく形を失ってしまう。
でも、掴まれた手から伝わる温かさに、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が安らいでいる自分に気づいてしまい、私はさらに混乱するのだった。
テーブルの上には、淹れたての紅茶が湯気を立て、色とりどりの焼き菓子が美しい皿の上に並べられていた。
その向かい合う席で、私の婚約者であるこの国の王太子、レピオド・レイ・カルミナス殿下は、幸せそうに目を細めてバニラのアイスクリームをスプーンで掬っている。
「ん、やはりここの料理人が作るアイスは絶品だな。アイも食べないのか?」
「……いただきます」
促されるまま、私も目の前にあるストロベリーのアイスクリームに手を伸ばす。けれど、喉の奥がつかえたように、甘いはずのアイスは味気なく感じられた。
キラキラと輝く金色の髪に、情熱を宿した赤い瞳。神が精魂込めて作り上げたとしか思えない完璧な美貌を持つ殿下は、私の自慢の婚約者。
――だったはずなのに。
いつからだろう。殿下の隣にいることが、こんなにも苦しくなってしまったのは。
私の心の中に渦巻く黒い感情とは裏腹に、殿下はどこまでも優しく、穏やかだ。その優しさすら、今の私には刃のように突き刺さる。
もう、限界だった。
これ以上、自分を偽って、彼の隣に立ち続けることはできない。
私は、ほとんど溶けてしまった自分のお皿を静かにテーブルに置くと、震える唇を必死に押さえつけながら、意を決して顔を上げた。
「殿下」
「ん? どうした、アイ。そんなに真剣な顔をして」
私のただならぬ様子に、ようやく殿下もスプーンを置いた。その赤い瞳が、まっすぐに私を射抜く。
ごくり、と喉が鳴る。今、この言葉を口にしてしまえば、もう二度と元には戻れない。
それでも、言わなければならなかった。彼のためにも、そして、もうこれ以上自分を嫌いにならないためにも。
「私が嫌いなら婚約破棄したらどうなんですか?」
やっとの思いで紡いだ言葉は、自分でも驚くほど平坦な響きを持っていた。
風が吹き、庭園の木々の葉がさわさわと音を立てる。一瞬の沈黙が、やけに長く感じられた。
てっきり驚かれるか、あるいは怒りを露わにされるかと身構えていた。けれど、殿下の反応は、私の予想を遥かに超えていた。
彼は、ふ、と柔らかく微笑んだのだ。
「俺はしないよ婚約破棄」
あまりにもあっさりと告げられた言葉に、私は思考が停止する。
え? いま、なんて……。
「アイよ。周りの茶番に翻弄され過ぎたようだな」
そう言って、殿下は椅子から立ち上がると、私の隣までゆっくりと歩いてきた。そして、私の頬にそっと触れる。
大きな手のひらから伝わる熱に、心臓がどきりと跳ねた。
「俺の気持ちは熱いぞ。心がとけてしまいそうにな」
情熱的な赤い瞳が、吐息がかかるほど近くで私を見つめる。甘く、囁くような声が、私の心を蕩かしていく。
ダメだ。そんな顔をされたら、そんな声で名前を呼ばれたら、せっかく固めた決心が揺らいでしまう。
私は必死に彼の視線から逃れるように顔を伏せた。その時、あるものが視界に入る。
「……アイス溶けてますよ?」
私の視線の先、テーブルの上に置かれたままだった殿下のバニラアイスは、彼の熱い言葉を体現するかのように、すっかり形を失って白い液体と化していた。
その瞬間、甘く蕩けるような雰囲気が霧散する。
殿下は私の言葉に「え?」と素っ頓狂な声を上げると、勢いよくテーブルの上を見た。
「おおっと!……何たる失態…」
さっきまでの情熱的な王子様の姿はどこへやら。彼は見るからに狼狽え、溶けてしまったアイスの皿を手に取って唸っている。
「こんな溶けかけたアイスは破棄だ!別のものを買ってくるとしよう」
そして、高らかにそう宣言すると、私の手首を優しく掴んだ。
「さあ、行くぞアイ! もっと美味しい、出来立てのアイスを食べに行こう!」
「え、あ、殿下!?」
私の返事も待たずに、殿下は私の手を引いて歩き出す。
先ほどの婚約破棄の話は、まるで最初からなかったことのように。
呆気に取られ、なすがままに手を引かれながら、私は心の中でため息をついた。
どうして、この人はこうなのだろう。
私の深刻な悩みも、決死の覚悟も、この人の前ではまるで溶けたアイスのように、あっけなく形を失ってしまう。
でも、掴まれた手から伝わる温かさに、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、心が安らいでいる自分に気づいてしまい、私はさらに混乱するのだった。
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