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「ほら、着いたぞ!」
王宮の渡り廊下を抜け、少し歩いた先にある王族専用の厨房。その一角に設けられた、ひんやりとした空気の漂う冷菓室の前で、殿下は得意げにそう言った。
私をここまで引っ張ってきた大きな手は、まだ私の手首を掴んだままだ。
「ここなら、いつでも最高の状態のアイスが用意されているからな」
にっこりと、太陽のような笑顔で振り返る殿下。
その眩しさに、私は思わず目を伏せてしまう。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
私の決死の覚悟は、まるで冗談みたいに受け流されてしまった。殿下は、私が婚約破棄を切り出したことなど、とうに忘れてしまったかのような素振りだ。
違う。忘れたわけじゃない。きっと、意にも介していないのだ。
私がどれだけ悩んで、苦しんで、眠れない夜を過ごして、やっとの思いで口にした言葉だったというのに。
その重みが、この人には少しも伝わっていない。
いや、違う。伝わらないように、私が振る舞ってしまっているのかもしれない。
自信に満ち溢れ、常に堂々としている殿下の隣で、私はいつも小さく縮こまっているだけ。
いつからだろうか。殿下と並んで歩くのが、怖くなったのは。
それは、数ヶ月前に開かれた、隣国の王族を歓迎する夜会のことだった。
王太子妃として、殿下のエスコートで会場に足を踏み入れた私を待っていたのは、祝福や羨望の眼差しだけではなかった。
『あれがス・クリーム公爵令嬢……思ったより、地味な方ですのね』
『ええ。お美しい方ですけれど、未来の国母としての華やかさには、少し欠けるような……』
扇で口元を隠しながらも、明らかにこちらに聞こえるように囁かれる声。
最初は、気のせいだと思おうとした。
けれど、殿下が大臣に呼ばれて少し席を外した隙に、その声はもっと明確な悪意となって私に降りかかった。
『ス・クリーム公爵家は由緒正しい家柄ですけれど、王太子殿下のお相手としては、少し力が足りないのではなくて?』
『ええ、わかりますわ。もっとこう、殿下の隣に立つにふさわしい、太陽のような方がいらっしゃるでしょうに』
その言葉は、じわじわと広がる毒のように、私の心を蝕んでいった。
私だって、わかっている。
自分がおっとりとしていて、マイペースで、きらびやかな社交界では埋もれてしまうような存在であることくらい。
それでも、殿下が私を選んでくれた。その事実だけを支えに、必死に背筋を伸ばしてきた。
けれど、日に日に大きくなる陰口は、私の心の支えをいとも容易くへし折ってしまったのだ。
『殿下が可哀想だわ』
誰かが言ったその一言が、決定打だった。
そうだ。私は、この完璧な人の隣に立つことで、彼の価値まで貶めているのではないだろうか。
私が至らないばかりに、殿下が陰で何か言われるようなことがあってはならない。
この人には、もっと相応しい人がいる。
私ではない、誰かが。
その考えに取り憑かれてから、殿下の顔をまともに見れなくなった。彼の優しささえも、私を責めているように感じてしまう。
だから、決めたのだ。
彼からこの婚約を「間違いだった」と言われる前に、私から身を引こう、と。
それが、私が唯一、彼のためにしてあげられることだと、本気で信じていた。
「アイ?」
回想に沈んでいた私の意識を、殿下の優しい声が引き戻す。
いつの間にか、彼は私の顔を覗き込むようにして、心配そうに眉を寄せていた。
「どうした? やはり疲れているのか? すまない、強引に連れてきてしまって」
「……いえ」
違うのです、殿下。あなたのせいではありません。
私が、あなたに相応しくない、ただそれだけのことなのです。
そう伝えたいのに、言葉にならない。
彼の赤い瞳に見つめられると、喉が詰まって、何も言えなくなってしまう。
「さあ、入ろう。今日は特別に、君の好きなストロベリーをふんだんに使ったソルベを作ってもらおうじゃないか」
殿下は私の返事を待たず、私の心の内など知る由もないといった様子で、冷菓室の重い扉を開いた。
ひんやりとした甘い空気が、私の頬を撫でる。
私の決意も、悩みも、この冷たい空気の中に閉じ込めて、溶かしてしまえたらいいのに。
けれど、掴まれたままの手首から伝わる殿下の体温だけが、私の心をちぐはぐに乱していく。
婚約破棄の話を、もう一度切り出さなければ。
そう思うのに、彼の背中を見つめていると、その言葉はまた、心の奥底へと沈んでいってしまうのだった。
王宮の渡り廊下を抜け、少し歩いた先にある王族専用の厨房。その一角に設けられた、ひんやりとした空気の漂う冷菓室の前で、殿下は得意げにそう言った。
私をここまで引っ張ってきた大きな手は、まだ私の手首を掴んだままだ。
「ここなら、いつでも最高の状態のアイスが用意されているからな」
にっこりと、太陽のような笑顔で振り返る殿下。
その眩しさに、私は思わず目を伏せてしまう。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
私の決死の覚悟は、まるで冗談みたいに受け流されてしまった。殿下は、私が婚約破棄を切り出したことなど、とうに忘れてしまったかのような素振りだ。
違う。忘れたわけじゃない。きっと、意にも介していないのだ。
私がどれだけ悩んで、苦しんで、眠れない夜を過ごして、やっとの思いで口にした言葉だったというのに。
その重みが、この人には少しも伝わっていない。
いや、違う。伝わらないように、私が振る舞ってしまっているのかもしれない。
自信に満ち溢れ、常に堂々としている殿下の隣で、私はいつも小さく縮こまっているだけ。
いつからだろうか。殿下と並んで歩くのが、怖くなったのは。
それは、数ヶ月前に開かれた、隣国の王族を歓迎する夜会のことだった。
王太子妃として、殿下のエスコートで会場に足を踏み入れた私を待っていたのは、祝福や羨望の眼差しだけではなかった。
『あれがス・クリーム公爵令嬢……思ったより、地味な方ですのね』
『ええ。お美しい方ですけれど、未来の国母としての華やかさには、少し欠けるような……』
扇で口元を隠しながらも、明らかにこちらに聞こえるように囁かれる声。
最初は、気のせいだと思おうとした。
けれど、殿下が大臣に呼ばれて少し席を外した隙に、その声はもっと明確な悪意となって私に降りかかった。
『ス・クリーム公爵家は由緒正しい家柄ですけれど、王太子殿下のお相手としては、少し力が足りないのではなくて?』
『ええ、わかりますわ。もっとこう、殿下の隣に立つにふさわしい、太陽のような方がいらっしゃるでしょうに』
その言葉は、じわじわと広がる毒のように、私の心を蝕んでいった。
私だって、わかっている。
自分がおっとりとしていて、マイペースで、きらびやかな社交界では埋もれてしまうような存在であることくらい。
それでも、殿下が私を選んでくれた。その事実だけを支えに、必死に背筋を伸ばしてきた。
けれど、日に日に大きくなる陰口は、私の心の支えをいとも容易くへし折ってしまったのだ。
『殿下が可哀想だわ』
誰かが言ったその一言が、決定打だった。
そうだ。私は、この完璧な人の隣に立つことで、彼の価値まで貶めているのではないだろうか。
私が至らないばかりに、殿下が陰で何か言われるようなことがあってはならない。
この人には、もっと相応しい人がいる。
私ではない、誰かが。
その考えに取り憑かれてから、殿下の顔をまともに見れなくなった。彼の優しささえも、私を責めているように感じてしまう。
だから、決めたのだ。
彼からこの婚約を「間違いだった」と言われる前に、私から身を引こう、と。
それが、私が唯一、彼のためにしてあげられることだと、本気で信じていた。
「アイ?」
回想に沈んでいた私の意識を、殿下の優しい声が引き戻す。
いつの間にか、彼は私の顔を覗き込むようにして、心配そうに眉を寄せていた。
「どうした? やはり疲れているのか? すまない、強引に連れてきてしまって」
「……いえ」
違うのです、殿下。あなたのせいではありません。
私が、あなたに相応しくない、ただそれだけのことなのです。
そう伝えたいのに、言葉にならない。
彼の赤い瞳に見つめられると、喉が詰まって、何も言えなくなってしまう。
「さあ、入ろう。今日は特別に、君の好きなストロベリーをふんだんに使ったソルベを作ってもらおうじゃないか」
殿下は私の返事を待たず、私の心の内など知る由もないといった様子で、冷菓室の重い扉を開いた。
ひんやりとした甘い空気が、私の頬を撫でる。
私の決意も、悩みも、この冷たい空気の中に閉じ込めて、溶かしてしまえたらいいのに。
けれど、掴まれたままの手首から伝わる殿下の体温だけが、私の心をちぐはぐに乱していく。
婚約破棄の話を、もう一度切り出さなければ。
そう思うのに、彼の背中を見つめていると、その言葉はまた、心の奥底へと沈んでいってしまうのだった。
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