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「どうだ、アイ。ここのソルベは格別だろう?」
冷菓室の中に用意された小さなテーブルで、殿下は新しいアイス…今度は真っ赤な木苺のソルベを満足げに口に運んでいる。
私の前にも、淡いピンク色の、桃のソルベが置かれていた。
「……はい、とても美味しいです」
口に含めば、甘酸っぱい香りが広がる。最高級の素材を使って、一流の職人が腕によりをかけて作ったものだ。美味しくないはずがない。
なのに、その味はどこか遠くに感じられた。まるで、薄い膜を一枚隔てているかのように、心が味を認識するのを拒んでいる。
「そうだろう、そうだろう! やはり君は笑顔が一番だ」
私が無理に作った微笑みを、殿下は心からの笑顔だと信じて疑わない。
その無邪気さが、今は少しだけ恨めしかった。
結局、私はここでも、婚約破棄の話を二度と切り出すことはできなかった。
殿下のあまりにも楽しそうな顔を前にして、とてもそんな雰囲気ではなかったし、何より、私の言葉を真剣に取り合ってくれないだろうという諦めが心を支配していたからだ。
小一時間ほど他愛のない話をした後、殿下は「ああ、いけない。少し長く居すぎたな」と名残惜しそうに立ち上がった。
「すまない、アイ。執務が残っているんだ。また後で、夕食の時に」
「はい、殿下。お勤め、頑張ってくださいませ」
完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けて、私は執務室へと向かう殿下の背中を見送った。
一人、冷菓室に残される。ひんやりとした空気が、やけに肌寒く感じられた。
私は、ほとんど手をつけていないソルベの器をただ、ぼんやりと見つめていた。
婚約破棄もできない、かといって、このまま何事もなかったかのように王太子妃になることも受け入れられない。
私はどうしたらいいのだろう。
重い足取りで冷菓室を出て、自室へと続く長い廊下を一人、とぼとぼと歩く。
誰にも会いたくなかった。今はただ、部屋にこもって静かに心を落ち着けたかった。
けれど、そんな私のささやかな願いは、聞き届けられることはなかった。
「ごきげんよう、ス・クリーム公爵令嬢」
背後からかけられた、鈴を転がすような、しかしどこか粘りつくような甘い声に、私はびくりと肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、豪奢なドレスに身を包んだ、一人の令嬢。
燃えるような真紅のドレスは、彼女の気の強そうな美貌を一層引き立てている。
ショコラ・トルテ侯爵令嬢。
そして、彼女の周りには、いつも通り二人の取り巻き令嬢が控えている。
「トルテ侯爵令嬢……ごきげんよう」
内心の動揺を押し殺し、私はかろうじて貴族令嬢としての挨拶を返す。
ショコラ様は、艶やかな黒髪を片手で払うと、蠱惑的な笑みを浮かべて私に近づいてきた。
「まあ、アイ様とお呼びしてもよろしいかしら? 私たち、未来の君主を支える者同士、もっと親しくなりませんと」
「……ええ」
曖昧に頷くことしかできない私に、彼女は心底心配しているというような表情を作って見せた。
「お顔の色が優れないようですわ。先ほど殿下とご一緒だったと伺いましたが、何か悩み事でも?」
その言葉に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
どうしてこの人は、私が一番触れられたくない部分を、的確に探り当ててくるのだろう。
「いいえ、何も。殿下とは、楽しくお茶をいただいていただけですわ」
「まあ、そうですの。それならよろしいのですけれど」
ショコラ様はそう言うと、扇を優雅に広げて口元を隠した。けれど、その瞳は笑っていない。
「殿下は、本当にお優しい方ですものね。常に周りを気遣い、誰に対しても寛大でいらっしゃる。だからこそ、婚約者であるアイ様のお気持ちを、誰よりも慮っていらっしゃるのでしょう」
一見、殿下を褒め称えているだけの言葉。
だが、その裏には、ねっとりとした毒が隠されていることに、私は気づいていた。
「でも、その殿下の優しさに甘えて、ご負担をおかけしてしまうのは、未来の王太子妃としていかがなものかしら?」
核心に触れる言葉に、私は息を呑む。
「殿下ほどのお方が、本当に心からお相手としてお選びになるのは、ご自身と同じように、民を照らす太陽のような輝きをお持ちの方…そのようには思いませんこと?」
彼女の言葉の一つ一つが、鋭い棘となって私の胸に突き刺さる。
それは、私がずっと、自分自身に問いかけ続けてきたことだったから。
私が一番、恐れていたことだったから。
何も言い返せずに立ち尽くす私を見て、ショコラ様は満足そうに目を細めた。
そして、最後の一撃を放つかのように、慈愛に満ちた声音で、しかし残酷な言葉を紡いだ。
「あなたのその、憂いを帯びたお顔……。それは殿下を幸せにするどころか、いずれ、殿下を不幸のどん底に突き落としてしまうのではないかしら?」
「……っ!」
唇を噛み締める。言い返したいのに、言葉が出てこない。
なぜなら、彼女の言っていることは、紛れもない「真実」のように思えてしまったからだ。
私の存在が、レピオド殿下を不幸にする。
その恐怖が、現実となって目の前に突きつけられたような気がした。
「あら、ごめんなさい。少し、差し出がましいことを申し上げてしまいましたわね。でも、私も殿下のお幸せを心から願う者の一人ですもの。お許しになって?」
勝ち誇ったような、しかし完璧な淑女の笑みを浮かべて、ショコラ様は優雅にカーテシーをしてみせる。
そして、何も言えない私を残して、取り巻きたちと共に軽やかな足取りで去っていった。
一人、廊下に取り残された私の耳の奥で、先ほどの彼女の言葉が何度も何度も反響する。
『殿下を不幸にしてしまう』
ああ、やはり、そうだったのだ。
私の考えは、間違っていなかった。
レピオド殿下を愛しているからこそ、私は、彼の隣から去らなければならない。
ショコラ様の毒のような囁きは、私の心に深く刻み込まれ、婚約破棄という名の決意を、より一層、固く、強固なものへと変えてしまったのだった。
冷菓室の中に用意された小さなテーブルで、殿下は新しいアイス…今度は真っ赤な木苺のソルベを満足げに口に運んでいる。
私の前にも、淡いピンク色の、桃のソルベが置かれていた。
「……はい、とても美味しいです」
口に含めば、甘酸っぱい香りが広がる。最高級の素材を使って、一流の職人が腕によりをかけて作ったものだ。美味しくないはずがない。
なのに、その味はどこか遠くに感じられた。まるで、薄い膜を一枚隔てているかのように、心が味を認識するのを拒んでいる。
「そうだろう、そうだろう! やはり君は笑顔が一番だ」
私が無理に作った微笑みを、殿下は心からの笑顔だと信じて疑わない。
その無邪気さが、今は少しだけ恨めしかった。
結局、私はここでも、婚約破棄の話を二度と切り出すことはできなかった。
殿下のあまりにも楽しそうな顔を前にして、とてもそんな雰囲気ではなかったし、何より、私の言葉を真剣に取り合ってくれないだろうという諦めが心を支配していたからだ。
小一時間ほど他愛のない話をした後、殿下は「ああ、いけない。少し長く居すぎたな」と名残惜しそうに立ち上がった。
「すまない、アイ。執務が残っているんだ。また後で、夕食の時に」
「はい、殿下。お勤め、頑張ってくださいませ」
完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けて、私は執務室へと向かう殿下の背中を見送った。
一人、冷菓室に残される。ひんやりとした空気が、やけに肌寒く感じられた。
私は、ほとんど手をつけていないソルベの器をただ、ぼんやりと見つめていた。
婚約破棄もできない、かといって、このまま何事もなかったかのように王太子妃になることも受け入れられない。
私はどうしたらいいのだろう。
重い足取りで冷菓室を出て、自室へと続く長い廊下を一人、とぼとぼと歩く。
誰にも会いたくなかった。今はただ、部屋にこもって静かに心を落ち着けたかった。
けれど、そんな私のささやかな願いは、聞き届けられることはなかった。
「ごきげんよう、ス・クリーム公爵令嬢」
背後からかけられた、鈴を転がすような、しかしどこか粘りつくような甘い声に、私はびくりと肩を震わせて振り返った。
そこに立っていたのは、豪奢なドレスに身を包んだ、一人の令嬢。
燃えるような真紅のドレスは、彼女の気の強そうな美貌を一層引き立てている。
ショコラ・トルテ侯爵令嬢。
そして、彼女の周りには、いつも通り二人の取り巻き令嬢が控えている。
「トルテ侯爵令嬢……ごきげんよう」
内心の動揺を押し殺し、私はかろうじて貴族令嬢としての挨拶を返す。
ショコラ様は、艶やかな黒髪を片手で払うと、蠱惑的な笑みを浮かべて私に近づいてきた。
「まあ、アイ様とお呼びしてもよろしいかしら? 私たち、未来の君主を支える者同士、もっと親しくなりませんと」
「……ええ」
曖昧に頷くことしかできない私に、彼女は心底心配しているというような表情を作って見せた。
「お顔の色が優れないようですわ。先ほど殿下とご一緒だったと伺いましたが、何か悩み事でも?」
その言葉に、心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
どうしてこの人は、私が一番触れられたくない部分を、的確に探り当ててくるのだろう。
「いいえ、何も。殿下とは、楽しくお茶をいただいていただけですわ」
「まあ、そうですの。それならよろしいのですけれど」
ショコラ様はそう言うと、扇を優雅に広げて口元を隠した。けれど、その瞳は笑っていない。
「殿下は、本当にお優しい方ですものね。常に周りを気遣い、誰に対しても寛大でいらっしゃる。だからこそ、婚約者であるアイ様のお気持ちを、誰よりも慮っていらっしゃるのでしょう」
一見、殿下を褒め称えているだけの言葉。
だが、その裏には、ねっとりとした毒が隠されていることに、私は気づいていた。
「でも、その殿下の優しさに甘えて、ご負担をおかけしてしまうのは、未来の王太子妃としていかがなものかしら?」
核心に触れる言葉に、私は息を呑む。
「殿下ほどのお方が、本当に心からお相手としてお選びになるのは、ご自身と同じように、民を照らす太陽のような輝きをお持ちの方…そのようには思いませんこと?」
彼女の言葉の一つ一つが、鋭い棘となって私の胸に突き刺さる。
それは、私がずっと、自分自身に問いかけ続けてきたことだったから。
私が一番、恐れていたことだったから。
何も言い返せずに立ち尽くす私を見て、ショコラ様は満足そうに目を細めた。
そして、最後の一撃を放つかのように、慈愛に満ちた声音で、しかし残酷な言葉を紡いだ。
「あなたのその、憂いを帯びたお顔……。それは殿下を幸せにするどころか、いずれ、殿下を不幸のどん底に突き落としてしまうのではないかしら?」
「……っ!」
唇を噛み締める。言い返したいのに、言葉が出てこない。
なぜなら、彼女の言っていることは、紛れもない「真実」のように思えてしまったからだ。
私の存在が、レピオド殿下を不幸にする。
その恐怖が、現実となって目の前に突きつけられたような気がした。
「あら、ごめんなさい。少し、差し出がましいことを申し上げてしまいましたわね。でも、私も殿下のお幸せを心から願う者の一人ですもの。お許しになって?」
勝ち誇ったような、しかし完璧な淑女の笑みを浮かべて、ショコラ様は優雅にカーテシーをしてみせる。
そして、何も言えない私を残して、取り巻きたちと共に軽やかな足取りで去っていった。
一人、廊下に取り残された私の耳の奥で、先ほどの彼女の言葉が何度も何度も反響する。
『殿下を不幸にしてしまう』
ああ、やはり、そうだったのだ。
私の考えは、間違っていなかった。
レピオド殿下を愛しているからこそ、私は、彼の隣から去らなければならない。
ショコラ様の毒のような囁きは、私の心に深く刻み込まれ、婚約破棄という名の決意を、より一層、固く、強固なものへと変えてしまったのだった。
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