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世紀のロイヤルウェディング、と銘打たれた私たちの結婚式は、もう、三日後に迫っていた。
国中が、祝福と熱気に浮き足立ち、王宮も、公爵家も、その準備の最終段階で、誰もが忙しなく立ち働いている。
そんな喧騒の中、式の前の最後の夜を、私は、久しぶりに家族水入らずで、静かに過ごしていた。
自室の暖炉には、ぱちぱちと音を立てて、オレンジ色の炎が揺れている。
「アイ、少し、話せるかい?」
ノックと共に部屋に入ってこられたのは、お父様と、お母様だった。
その表情は、どこか寂しげで、それでいて、娘の門出を祝う、誇らしげな色も浮かんでいるように見えた。
「もちろん、お父様、お母様。どうぞ、こちらへ」
私たちは、暖炉の前の柔らかなソファに、三人で腰を下ろした。
最初は、式の準備の進捗など、当たり障りのない話をしていた。けれど、やがて、話は自然と、昔の思い出へと移っていく。
「お前が、初めてお菓子を作った日のことを、今でも覚えているよ」
お父様が、懐かしそうに目を細めた。
「小さな手で、一生懸命にクッキーの型を抜いてな。顔中を小麦粉だらけにして、それはもう、ひどい有様だった」
「まあ、あなた。およしなさい、そんな昔の話」
お母様はそう言いながらも、その口元は、楽しそうに綻んでいる。
「でも、あの子が初めて焼いた、少し焦げたクッキーは、本当に美味しかったわね」
初めてダンスのレッスンで、お父様の足を踏んでしまって、大泣きした日のこと。
初めての夜会で、緊張のあまり、誰とも話せずに、壁の花になっていた日のこと。
次々と思い出される、臆病で、不器用だった、かつての私。
そんな、温かい思い出話に、ふと、沈黙が落ちた。
そして、お父様が、おもむろに、私に向き直った。その顔は、いつになく真剣だった。
「アイ。……お前に、ずっと、謝らなければならないと、思っていたことがある」
「お父様……?」
「お前が、王太子妃候補として、どれほど辛い思いをしていたか。心ない周りの声に、どれほど、心を痛めていたか……。この父は、気づいてやることが、できなかった」
お父様は、そう言うと、公爵としての威厳も何もかもかなぐり捨てて、私の前で、深く、深く、頭を下げた。
「父親、失格だ。本当に、すまなかった……!」
「お父様! やめてください、どうか、頭を上げてくださいまし!」
私は、慌てて立ち上がり、お父様の肩に手を置く。
厳格で、いつでも私を厳しく、しかし正しく導いてくれた父の、初めて見る、弱い姿。
「わたくしの方こそ、ご心配ばかりおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
私は、父の顔をまっすぐに見つめると、はっきりと、告げた。
「でも、もう大丈夫です。わたくしは、殿下のおかげで、たくさんの方々の愛情に支えられて、強くなれましたから。だから、もう、ご自分を責めないでください」
その言葉に、ずっと黙って涙を堪えていたお母様が、私のことを、力強く抱きしめた。
「ええ、本当に、立派になって……。あなたは、お父様とお母様の、世界一の誇りよ、アイ」
その温かい腕の中で、私も、涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
その、感動的な雰囲気を、破ったのは、来客を告げる侍女の声だった。
タイミングを見計らったかのように、レピオド殿下が、夜分にもかかわらず、私の顔を見に、訪れてくれたのだ。
殿下を応接室に迎え入れると、お父様は、一つ咳払いをして、居住まいを正した。
そして、ス・クリーム公爵としてではなく、ただの、一人の父親として、私の婚約者である、彼に向き直った。
「殿下。……いや、レピオド殿」
その声は、少しだけ、震えていた。
「今宵は、ただの父親として、あなたに、一つだけ、お願いがある」
お父様は、次の瞬間、その場に膝をつくと、レピオド殿下に向かって、頭を下げた。
「娘を、アイを、どうか、よろしく頼む」
「お父様!?」
「あの子は、少しおっとりしていて、不器用なところもあるかもしれん。だが、誰よりも、心の優しい、自慢の娘だ。どうか、あなたのその手で、生涯をかけて、幸せにしてやってはくれまいか」
目に、大粒の涙を浮かべながら、必死に訴える父の姿。
その、あまりにも深い愛情に、私の胸は、張り裂けそうになった。
けれど、レピオド殿下は、少しも、動じなかった。
彼は、静かに、お父様の前に歩み寄ると、その両肩に手を置き、力強く、立ち上がらせた。
「お義父様。どうか、お顔をお上げください」
そして、その赤い瞳で、まっすぐにお父様を見つめると、はっきりと、力強く、宣言した。
「誓います」
その声は、この国の未来を背負う、王の誓いだった。
「俺の生涯のすべてをかけて、必ず、アイを、世界で一番、幸せな女性にしてみせます。この命に代えても、彼女を、守り抜くと」
その、あまりにも誠実で、力強い言葉。
お父様は、安堵したように、何度も、何度も、頷いた。お母様は、もう、声を上げて泣いていた。
そして、私も。
私を、心の底から愛してくれる、両親と、そして、世界で一番、愛しい人。
その、三つの大きな愛情に包まれて、ただ、幸せの涙を、静かに、流し続けることしか、できなかった。
私の人生は、こんなにも、たくさんの愛で、満たされていたのだ。
国中が、祝福と熱気に浮き足立ち、王宮も、公爵家も、その準備の最終段階で、誰もが忙しなく立ち働いている。
そんな喧騒の中、式の前の最後の夜を、私は、久しぶりに家族水入らずで、静かに過ごしていた。
自室の暖炉には、ぱちぱちと音を立てて、オレンジ色の炎が揺れている。
「アイ、少し、話せるかい?」
ノックと共に部屋に入ってこられたのは、お父様と、お母様だった。
その表情は、どこか寂しげで、それでいて、娘の門出を祝う、誇らしげな色も浮かんでいるように見えた。
「もちろん、お父様、お母様。どうぞ、こちらへ」
私たちは、暖炉の前の柔らかなソファに、三人で腰を下ろした。
最初は、式の準備の進捗など、当たり障りのない話をしていた。けれど、やがて、話は自然と、昔の思い出へと移っていく。
「お前が、初めてお菓子を作った日のことを、今でも覚えているよ」
お父様が、懐かしそうに目を細めた。
「小さな手で、一生懸命にクッキーの型を抜いてな。顔中を小麦粉だらけにして、それはもう、ひどい有様だった」
「まあ、あなた。およしなさい、そんな昔の話」
お母様はそう言いながらも、その口元は、楽しそうに綻んでいる。
「でも、あの子が初めて焼いた、少し焦げたクッキーは、本当に美味しかったわね」
初めてダンスのレッスンで、お父様の足を踏んでしまって、大泣きした日のこと。
初めての夜会で、緊張のあまり、誰とも話せずに、壁の花になっていた日のこと。
次々と思い出される、臆病で、不器用だった、かつての私。
そんな、温かい思い出話に、ふと、沈黙が落ちた。
そして、お父様が、おもむろに、私に向き直った。その顔は、いつになく真剣だった。
「アイ。……お前に、ずっと、謝らなければならないと、思っていたことがある」
「お父様……?」
「お前が、王太子妃候補として、どれほど辛い思いをしていたか。心ない周りの声に、どれほど、心を痛めていたか……。この父は、気づいてやることが、できなかった」
お父様は、そう言うと、公爵としての威厳も何もかもかなぐり捨てて、私の前で、深く、深く、頭を下げた。
「父親、失格だ。本当に、すまなかった……!」
「お父様! やめてください、どうか、頭を上げてくださいまし!」
私は、慌てて立ち上がり、お父様の肩に手を置く。
厳格で、いつでも私を厳しく、しかし正しく導いてくれた父の、初めて見る、弱い姿。
「わたくしの方こそ、ご心配ばかりおかけして、本当に申し訳ございませんでした」
私は、父の顔をまっすぐに見つめると、はっきりと、告げた。
「でも、もう大丈夫です。わたくしは、殿下のおかげで、たくさんの方々の愛情に支えられて、強くなれましたから。だから、もう、ご自分を責めないでください」
その言葉に、ずっと黙って涙を堪えていたお母様が、私のことを、力強く抱きしめた。
「ええ、本当に、立派になって……。あなたは、お父様とお母様の、世界一の誇りよ、アイ」
その温かい腕の中で、私も、涙がこぼれそうになるのを、必死で堪えた。
その、感動的な雰囲気を、破ったのは、来客を告げる侍女の声だった。
タイミングを見計らったかのように、レピオド殿下が、夜分にもかかわらず、私の顔を見に、訪れてくれたのだ。
殿下を応接室に迎え入れると、お父様は、一つ咳払いをして、居住まいを正した。
そして、ス・クリーム公爵としてではなく、ただの、一人の父親として、私の婚約者である、彼に向き直った。
「殿下。……いや、レピオド殿」
その声は、少しだけ、震えていた。
「今宵は、ただの父親として、あなたに、一つだけ、お願いがある」
お父様は、次の瞬間、その場に膝をつくと、レピオド殿下に向かって、頭を下げた。
「娘を、アイを、どうか、よろしく頼む」
「お父様!?」
「あの子は、少しおっとりしていて、不器用なところもあるかもしれん。だが、誰よりも、心の優しい、自慢の娘だ。どうか、あなたのその手で、生涯をかけて、幸せにしてやってはくれまいか」
目に、大粒の涙を浮かべながら、必死に訴える父の姿。
その、あまりにも深い愛情に、私の胸は、張り裂けそうになった。
けれど、レピオド殿下は、少しも、動じなかった。
彼は、静かに、お父様の前に歩み寄ると、その両肩に手を置き、力強く、立ち上がらせた。
「お義父様。どうか、お顔をお上げください」
そして、その赤い瞳で、まっすぐにお父様を見つめると、はっきりと、力強く、宣言した。
「誓います」
その声は、この国の未来を背負う、王の誓いだった。
「俺の生涯のすべてをかけて、必ず、アイを、世界で一番、幸せな女性にしてみせます。この命に代えても、彼女を、守り抜くと」
その、あまりにも誠実で、力強い言葉。
お父様は、安堵したように、何度も、何度も、頷いた。お母様は、もう、声を上げて泣いていた。
そして、私も。
私を、心の底から愛してくれる、両親と、そして、世界で一番、愛しい人。
その、三つの大きな愛情に包まれて、ただ、幸せの涙を、静かに、流し続けることしか、できなかった。
私の人生は、こんなにも、たくさんの愛で、満たされていたのだ。
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