王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

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「お嬢さん、朝だぞ。炉が目を覚ます前に起きねえと」

 

まぶたに鋭い声が刺さり、リリエルは寝台から跳ね起きた。東の空はまだ灰色で、鳥の声すら遠慮がちだ。

 

昨夜、親方ユルゲンの家に転がり込んだまでは覚えている。が、毛布の重さと鉄の匂いに包まれて眠ったせいで、ここが王都どころか自室でもないことを忘れかけていた。

 

「もう少し夜を引き伸ばせませんの」

 

「太陽に頼みな。俺は火薬より早く起きるんでな」

 

枕元に立つテオは、薪割りでも出来そうな腕を組みながら笑う。それだけで布団が薄く見えた。

 

リリエルは乱れた髪を結い直す。鏡台も櫛もないが、布片で即席のリボンを作り、後れ毛をまとめる所作は侯爵令嬢時代そのままだ。

 

「粗末な身繕いで失礼いたしますわ」

 

「十分だ。炉の前じゃみんな煤だらけになる」

 

 

玄関を出れば、霧の中で鍛冶場が息を吐いていた。屋根の小窓から赤い光が漏れ、ハンマーの予感が大気を震わせる。

 

リリエルは裾を摘み上げ、濡れた石畳を踏む。

 

「親方はもう仕事中?」

 

「夜更けのうちに火を起こす。鉄が寝坊を許さねえ」

 

テオが扉を押すと、炉の炎が小さく吠えた。親方ユルゲンは白髭を揺らし、火箸で炭をつつく。

 

「嬢ちゃん起きたか。まず炉の温度を覚えろ。炎の色でな」

 

「色、ですの?」

 

「青は冷えすぎ、赤は甘い、白が丁度。言葉じゃなく眼で刻め」

 

リリエルは炉口を覗く。白に近い黄が躍り、まるで王宮のシャンデリアを溶かしたように眩しかった。

 

 

朝食は黒パンと塩漬け肉だった。炉の近くで急ぎ噛みしめ、皆無言で飲み込む。

 

「貴族の朝は優雅って聞くが、こうも違うか?」

 

テオが楽しげに眉を跳ねる。リリエルはパンの硬さに苦戦しながらも背筋は折らない。

 

「宮廷ではお粥と果物が並びます。けれど時間を食うのは同じですわ」

 

「なら問題ねえ。ここじゃ時間が金貨だ」

 

 

食後、ユルゲンが重い革手袋を差し出した。

 

「嬢ちゃんもハンマーを握れとは言わん。だが鎖を研ぐくらいは出来る」

 

「粉で髪が灰色になりますわよ」

 

「もう被ってる色だろ」

 

テオが横から笑い、リリエルは薄く息を吐く。

 

研磨石に鎖を当てる。火花が飛び、手袋の中で掌が震えた。研ぐほどに重さが腕に絡みつく。

 

「力任せじゃいかん。石と鉄の歌を聴け」

 

ユルゲンの助言は謎めいていたが、リリエルは耳でなく指で旋律を探した。鎖の節が回転するたび微かな振動が伝わる。それに合わせて圧を変えると、火花が細く均一に散った。

 

「悪くねえ。貴族の耳でも歌は分かるもんだな」

 

「耳より、暇が好きでしてよ。黙っていれば退屈しませんもの」

 

テオが石炭を足しつつ吹子を踏む。風が炉を撫で、炎が白く伸びた。鍛冶屋全体が巨大な肺のように吸っては吐く。

 

 

昼前、荷車が一台、材料を届けに来た。馬を引いていたのは老婆で、背負い袋から鋼材をがしゃりと落とす。

 

「不良在庫だ。溶かしてくれ」

 

ユルゲンはひと目で質を判じ、銀貨三枚を置いた。老婆は礼も言わず去る。

 

「帝国の鉄は粗いな」

 

テオが材料を検分しながら呟く。

 

「粗いなら粗く鍛えた美しさがありますわ」

 

リリエルが無意識に言うと、二人の男が視線を向けた。

 

「面白い嬢ちゃんだ。粗い美しさを言い当てるか」

 

「粗さを隠す方が難しいですから」

 

自身の過去を思い、リリエルは袖で汗を拭う。

 

 

午後になり、リリエルは水汲みを任された。井戸は裏庭の角、苔生した石垣に囲まれ冷たい。桶に満ちる水を見つめると、王都での顔が映って驚くほど遠かった。

 

「ここまで染みにくるとは思わなかった」

 

独りごちた背に、テオの声。

 

「よそ者が三日もすりゃ、鍛冶屋の匂いが骨に入る」

 

「骨の香りまでは要りませんわ」

 

「悪い匂いじゃない。仕事と汗の誇りだ」

 

リリエルは水面を掻き回し、映った顔を崩した。

 

「誇りね。侯爵家の誇りは軽かった」

 

「誇りは重さじゃねえ。叩けば響くかだ」

 

その言葉を消化する前に、水が溢れて足許を濡らした。リリエルは慌てて桶を抱え上げる。テオが手を貸すが、重さは共有しない。彼女が自ら運ぶのを待った。

 

 

日が傾くと、ユルゲンが作業を止めた。炉に蓋をし、鉄に油を塗る。

 

「よし、今日の火は眠らせる」

 

最後に鎚を置く音が鐘のように響き、静寂が舞い降りた。

 

リリエルは袖口をめくり、煤に染まった肌を眺める。疲労は重いが、手の平は熱かった。

 

「王宮では味わえぬ達成感でしょう?」

 

テオが水桶を替えながら笑う。リリエルはやっと己の笑みを許した。

 

「思いの外、悪くありませんわ」

 

「明日はもっと早いぞ」

 

「その言葉は悪趣味です」

 

笑い合い、炉の余熱が背を押す。太陽は山並みに沈み、炭の匂いが夜気に溶けた。

 

リリエルは掌を胸に当て、鼓動が炉と同じリズムになりつつあることに気づく。変化はゆっくり、だが確かに鍛えられていた。
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