王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

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「殿下、再び噂が広がっております。『追放された令嬢が帝国で評判を上げている』と」

 

執務机に背を預けた王太子レオンハルトは、報告書の束を閉じた。蝋燭の火が揺れ、壁に映る影が重くなる。

 

「帝国の辺境など、王都の舞台には及ばぬ。些末な風聞だ」

 

皮肉を込めた声色とは裏腹に、彼は床に落ちた紙片を靴先で隠した。そこには『ヴァレンシュタイン嬢、鍛冶屋の救世主に』と大書されている。

 

 

側近オスカーが一歩踏み出す。

 

「殿下が彼女を処分した経緯を疑問視する貴族もおります。対外書簡の裏取りを急がねば、評議会で追及が――」

 

「叔父上の派閥か?」

 

「否定は出来ませぬ」

 

レオンハルトは額を指で押さえる。宮廷の空気は凍るほど冷たいのに、こめかみだけが不自然に熱い。

 

 

執務室の奥、飾り棚には王家の紋章入り杯が並ぶ。レオンハルトは一本を手に取り、指で縁をなぞった。

 

「私は間違ったか?」

 

「殿下……」

 

「いや、質問が悪い。間違いを正すにはどうすべきかと問うている」

 

オスカーは答えを急がず、机上の地図を指した。王国と帝国を隔てる山脈に細い街道が描かれている。

 

「彼女を追うのは得策ではありませんが、真偽を確かめる必要はあります。使者を出しましょう」

 

「使者か。──私が行くと言えば?」

 

「政治は空白を許しません」

 

正論にレオンハルトは苦笑する。杯を棚に戻すと、窓辺へ歩き、薄曇りの空を仰いだ。

 

「雨が近いな。あの人は雨が嫌いだったか、好んだか」

 

「殿下は覚えておられぬ?」

 

「覚えているのは皮肉と微笑みばかりだ」

 

 

廊下を隔てたサロンでは、若い貴族たちが囁いていた。

 

「婚約破棄は勇み足だったのでは?」

 

「令嬢を擁護するのか」

 

「王太子の決断が揺らげば、我らの縁談も影響する」

 

金糸を織り込んだカーテン越しにそのざわめきが届き、レオンハルトは目を伏せた。言葉より沈黙が鋭く刺さる。

 

 

夕刻、王宮の石庭を歩きながら、彼は幼い日にリリエルと競った学芸試験を思い出す。彼女は常に二番手で、しかし笑っていた。――一番を譲りたくなかったのは、私か彼女か。

 

 

夜、執務室に戻ると机に小箱が置かれていた。宛名はなく、封蝋は見知らぬ紋章。開けると銀の指輪が転がった。かつて返されたそれと似て、しかし細部が違う。内側に刻まれた文字を灯にかざす。

 

『誇りは叩かれて光る』

 

短い銘に胸がざわつく。送り主を問いただそうと扉を開けるが、廊下には誰もいない。

 

 

オスカーが遅れて戻り、指輪を見て目を見開く。

 

「帝国の鍛冶印……まさか令嬢から?」

 

「証拠はない。だが私宛だ」

 

「殿下、ご覚悟を」

 

「自らの決断と向き合う時が来たか」

 

レオンハルトは指輪を掌で包み込む。冷たい銀はすぐに温もりを吸い取り、形だけが残る。

 

「私が築く未来に、過去の影を踏みつけたままでは進めぬ。──使者ではなく私が行く。帝国へ」

 

オスカーの表情が強張る。

 

「陛下の許可が下りましょうか」

 

「許可を得る前に、許す人を忘れたくない」

 

言い切る声に、かつての驕りは薄い。残ったのは素顔に近い若者の迷いと意地。王冠をまだ戴かぬ王太子は、戸惑いながらも一歩を踏み出す構えを見せた。

 

 

同じ夜、更けた鍛冶場の裏庭では、炉の火が静かに眠っていた。銀の匙が月光を反射し、リリエルの寝台の枕元でほの白く輝く。

 

王都と辺境、離れた二つの場所で、同じ銀が異なる意味を帯びて瞬いた。
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