王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

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「リリエル、今日は帝都行きの大隊商が来るらしい。村の広場は大賑わいだ」

 

テオが鎚を片手に、鍛冶場の裏口から顔を出した。朝一番の熱気が髪を揺らし、火花が残香のように漂う。

 

「値打ちの張る鉄屑でも見つけてきて、と?」

 

「屑は屑でも、掘り出し物がある。嬢ちゃんの舌と目を借りたい」

 

リリエルは銀の匙を帯に挿し、手拭いで髪をまとめた。宮廷のリボンより布の方が似合っていると最近感じるのが不思議だ。

 

 

広場へ向かう途中、クラリスが息を弾ませた。

 

「お嬢様が露店に立つお姿、なんだか夢みたいです」

 

「悪夢でなければ幸いね」

 

「いえ、とても生き生きしておられます」

 

その言葉は塩のようにさっぱりしていて、リリエルの足取りを軽くした。

 

 

村の中心には行商人の幌馬車が輪を作り、人々の声が募る。布地や陶器、乾燥ハーブが並び、裏町の犬まで群がっている。

 

リリエルは鍛冶屋に必要な鋼材を探しつつ、物色する商人たちの舌戦を聴いた。値切るたびに声色が変わり、笑うたびに銅貨が跳ねる。

 

「久々に活気ある戦場ですわ」

 

「戦場と来たか。なら剣を抜くんだ」

 

テオが荷車の横で腕を組む。リリエルは前掛けを整え、露店の主へ声をかける。

 

「こちらの鋼材、一本いくら?」

 

「三枚銀貨」

 

「錫が混じっているわ。二枚でどうかしら」

 

商人は眉を吊り上げた。

 

「嬢ちゃん、混ぜ物を言い当てる目利きとは恐れ入るが、二枚じゃ儲けが出ぬ」

 

「儲けは厚みでなく速さよ。私が全部買えば在庫が空く」

 

「空いても腹が空いちゃ困る」

 

「では二枚半。ただし荷馬の荒縄も付けてね」

 

商人が唸り、周囲の客が囃した。結局、鋼材十本と荒縄が二枚半で決着する。

 

 

交渉が終わるや否や、別の商人が声を掛けてきた。

 

「嬢ちゃん、その舌でうちのワイン樽も置いていかないかい?」

 

「鍛冶屋にワインは早いでしょう。蒸留所に回すのが利口よ」

 

「回し先への口利きも含めて三枚銀貨でどうだ」

 

「口は金貨でも借りられないわ」

 

会話の端々で笑いが起き、いつの間にかリリエルを囲む輪が出来ていた。王宮で「注目」を浴びた時と違い、視線は好奇と敬意の混合だった。

 

 

午後になると、広場の陽射しが強まり、空気が熱に揺れた。露店の天幕が軋む下、叫び声が上がる。

 

「財布を盗られた!」

 

被害者は太った商人で、顔を真赤にしていた。周囲がざわめくと、小柄な少年が布袋を抱えて走り去るのが見えた。

 

テオが動くより早く、リリエルは銀の匙で地面を叩いた。

 

「皆さま、お騒ぎですが追うのは一人。残る品は?

紛失確認を急いで。混乱は盗人の味方になりますわ」

 

澄んだ声が広場に届き、商人たちが我に返る。テオは少年の逃げる方向へ鎚を振り上げ、逃走経路を塞いだ。

 

「戻せ。さもなくば腕が冷えないうちに鉄で括る」

 

少年は震えながら財布を投げ返す。通りがかりの行商人が肩を掴み、事情を聞き始めた。

 

「叔父の薬代が要るんだ。盗るしか……」

 

ざわつく空気の中、リリエルは膝を折った。

 

「薬が必要なら、私が薬草屋を紹介しましょう。支払いは分割で。盗みは代償が高すぎますわ」

 

少年は俯き、唇を噛む。商人は目を細めた。

 

「嬢ちゃん、慈善か?」

 

「慈善ではなく投資よ。彼が働いて返す道もある」

 

テオが肩を竦める。

 

「逃げずに返すなら雇い手も見つかるだろう。鍛冶場は腕が要るが手伝いくらいはさせられる」

 

少年の眼に小さな火が宿った。リリエルは内心で王都の記憶を払い、少年に手を差し伸べる。

 

「まず腹ごしらえを。取引はその後で」

 

 

夕刻、商売が終わり、村に戻る荷車は鋼材と雑多な荷で重さを増していた。クラリスが帳面に取引を記し、リリエルは荷の上で揺れながら空を眺める。

 

「剣を振り回すより、舌を回す方が疲れますわ」

 

「今日は良く働いた。鋼材も安く仕入れたし、子どもも救った」

 

「救った? まだ始まったばかりよ」

 

「でもお前の『剣』は確かに当たった」

 

リリエルは笑い、広い背をしたテオに目を向けた。鎚は夕陽に赤く染まり、まるで炉の炎が彼の肩で燃えているようだった。

 

「剣も鎚も握りようね」

 

「扱い方を覚えれば、誰だって鉄を曲げられる」

 

「私にも?」

 

「嬢ちゃんの手は細いが、心臓が火を吹いてる。だから曲げられる」

 

胸の奥で鼓動が跳ねた。王都の舞踏会では決して鳴らなかった音。

 

荷車が石畳に乗り入れ、鍛冶場の灯が見え始めた。炉はまだ眠っているが、明朝にはまた白く燃え上がる。

 

「戦場は終わり。明日は鍛冶屋の日常ね」

 

「日常が続くうちに強くなるんだ。剣より鎚のようにな」

 

リリエルは手の平を見た。細い指に、鍛冶屋の灰が薄く染みている。明日はもっと色濃く残るだろう。

 

だがそれは汚れではなく、新しい紋章だと感じられた。
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