王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

文字の大きさ
10 / 20

10

しおりを挟む
「新しい鎚の感触はどうだ?」

 

朝靄の鍛冶場で、テオが炉の火を煽りながら声をかけた。

 

「掌に吸いつくようですわ。重さも私に合わせて削ってくれたのね」

 

リリエルは鎚〈燈〉を握り、赤鉄へ向けて腕を上げた。昨日まで震えていた指先は、今や炎の呼吸と同じリズムで動く。

 

火花が飛び、金床に澄んだ音が鳴る。

 

地文は湿気をまといながらも軽やかだった。炉の温度が上がるたび、二人の間の空気もまた熱を帯びてゆく。

 

「一打一打が近づいてくる気がしますわ」

 

「鉄は打てば縮む。人の距離も同じかもしれねえ」

 

テオが笑い、リリエルは顔を赤くした。煤の薄膜が頬を隠してくれるのが、少しだけありがたい。

 

 

午前の作業が一区切りすると、親方ユルゲンが厚革の鞄を渡した。中には王都御用達の鋼材の見本帳と手紙が同封されている。

 

「帝都の商会から注文だ。『毒薔薇令嬢』の鎚を所望だとさ」

 

「私の呼び名は鉄の銘よりしぶといですわね」

 

「噂は燃え尽きるまで利用しろ。だが納期は短い」

 

テオが帳簿を開き、工程を指でなぞる。

 

「刃物二十本と鏨十本、加えて飾り細工か……二人でもぎりぎりだな」

 

「ぎりぎりを超えるのが鍛冶屋でしょう?」

 

リリエルが微笑み、鎚を肩に担ぐ。クラリスが慌てて昼食の黒パンを差し出した。

 

「お嬢様、食べながらでは危険です!」

 

「火より熱い愛情でむせそうね」

 

笑いがはじけ、鍛冶場に陽光が射し込んだ。

 

 

午後は分業だった。テオが荒鍛えを担当し、リリエルが仕上げと細工を受け持つ。真鍮板を薄く延ばし、羽根の紋様を切り抜く作業は集中を要する。

 

地文では汗の粒が滴り、火花が一層眩しく見えた。炉の白炎が二人を包み、距離を溶かす。

 

「ちょっと顔を貸せ」

 

テオが合図し、裏庭へ出る。雨上がりの空気が冷たく、鉄の匂いを中和した。

 

「……昨夜、お前が泣くのを止められなかった。鎚を作ったのは、謝罪の代わりだ」

 

沈黙が土の湿気に染み込む。

 

「謝罪より、大切なものを頂いたわ」

 

「だけど鎚じゃ足りねえ。もっと――」

 

言いかけて、テオは拳を握った。風が草を揺らし、そのざわめきが言葉の続きになる。

 

「私だって、まだ怖いの」

 

リリエルは胸の前で鎚を抱える。

 

「王都からの影も、鍛冶屋として求められる大きさも。でも、誰かが隣で火を起こしてくれれば打てる気がする」

 

テオの肩がほぐれ、笑みが滲んだ。

 

「なら俺は一生火吹き役だ。お前が夜通しでも打てるように」

 

「夜通しは遠慮しますわ。肌荒れは貴族時代からの宿敵ですもの」

 

二人は噴き出し、沈黙より深い安心を共有した。距離は炎に溶かされ、代わりに赤鉄のような結束が鍛えられていく。

 

 

夕刻、最初の刃物が仕上がった。リリエルの手で研がれた刀身は、雨上がりの夕陽を映して赤金色の光を帯びている。

 

「見事だ。帝都の商会も腰を抜かすぞ」

 

親方ユルゲンが唸り、クラリスが拍手を打つ。

 

「最終検品は明朝。今日は飯を食って寝ろ」

 

「ええ、火も心も休ませて、明日に備えますわ」

 

リリエルは鎚〈燈〉を壁に掛け、テオと目を合わせた。言葉は交わさずとも、打ち合わせ以上の約束がそこにあった。

 

炉の火は静かに落ち着き、金床が一日の終わりを告げて冷えていく。それでも二人の掌には、まだ熱鉄の余韻が脈打っていた。
しおりを挟む
感想 4

あなたにおすすめの小説

[完結]婚約破棄してください。そして私にもう関わらないで

みちこ
恋愛
妹ばかり溺愛する両親、妹は思い通りにならないと泣いて私の事を責める 婚約者も妹の味方、そんな私の味方になってくれる人はお兄様と伯父さんと伯母さんとお祖父様とお祖母様 私を愛してくれる人の為にももう自由になります

白い結婚の末、離婚を選んだ公爵夫人は二度と戻らない』

鍛高譚
恋愛
白い結婚の末、「白い結婚」の末、私は冷遇され、夫は愛人を溺愛していた――ならば、もう要らないわ」 公爵令嬢 ジェニファー・ランカスター は、王弟 エドワード・クラレンス公爵 のもとへ政略結婚として嫁ぐ。 だが、その結婚生活は冷たく空虚なものだった。夫は愛人 ローザ・フィッツジェラルド に夢中になり、公爵夫人であるジェニファーは侮辱され、無視され続ける日々。 ――それでも、貴族の娘は耐えなければならないの? 何の愛もなく、ただ飾り物として扱われる結婚に見切りをつけたジェニファーは 「離婚」 を決意する。 しかし、王弟であるエドワードとの離婚は容易ではない。実家のランカスター家は猛反対し、王宮の重臣たちも彼女の決断を 「公爵家の恥」 と揶揄する。 それでも、ジェニファーは負けない。弁護士と協力し、着々と準備を進めていく。 そんな折、彼女は北方の大国 ヴォルフ公国の大公、アレクサンダー・ヴォルフ と出会う。 温かく誠実な彼との交流を通じて、ジェニファーは 「本当に大切にされること」 を知る。 そして、彼女の決断は、王都の社交界に大きな波紋を呼ぶこととなる――。 「公爵夫人を手放したことを、いつか後悔しても遅いわ」 「私はもう、あなたたちの飾り人形じゃない」 離婚を巡る策略、愛人の凋落、元夫の後悔――。 そして、新たな地で手にした 「愛される結婚」。

【完結】私を捨てた皆様、どうぞその選択を後悔なさってください 〜婚約破棄された令嬢の、遅すぎる謝罪はお断りです〜

くろねこ
恋愛
王太子の婚約者として尽くしてきた公爵令嬢エリシアは、ある日突然、身に覚えのない罪で断罪され婚約破棄を言い渡される。 味方だと思っていた家族も友人も、誰一人として彼女を庇わなかった。 ――けれど、彼らは知らなかった。 彼女こそが国を支えていた“本当の功労者”だったことを。 すべてを失ったはずの令嬢が選んだのは、 復讐ではなく「関わらない」という選択。 だがその選択こそが、彼らにとって最も残酷な“ざまぁ”の始まりだった。

いなくなれと言った本当に私がいなくなって今どんなお気持ちですか、元旦那様?

睡蓮
恋愛
「お前を捨てたところで、お前よりも上の女性と僕はいつでも婚約できる」そう豪語するカサルはその自信のままにセレスティンとの婚約関係を破棄し、彼女に対する当てつけのように位の高い貴族令嬢との婚約を狙いにかかる。…しかし、その行動はかえってカサルの存在価値を大きく落とし、セレスティンから鼻で笑われる結末に向かっていくこととなるのだった…。

あなたは婚約者よりも幼馴染を愛するのですね?

睡蓮
恋愛
ノラン侯爵はエリステルとの婚約を築いておきながら、自信が溺愛する幼馴染であるユリアとの時間を優先していた。ある日、ノランはユリアと共謀する形でエリステルに対して嫌がらせを行い、婚約破棄をさせる流れを作り上げる。しかしその思惑は外れ、エリステルはそのまま侯爵の前から姿を消してしまう。…婚約者を失踪させたということで、侯爵を見る周りの目は非常に厳しいものになっていき、最後には自分の行動の全てを後悔することになるのだった…。

なにをおっしゃいますやら

基本二度寝
恋愛
本日、五年通った学び舎を卒業する。 エリクシア侯爵令嬢は、己をエスコートする男を見上げた。 微笑んで見せれば、男は目線を逸らす。 エブリシアは苦笑した。 今日までなのだから。 今日、エブリシアは婚約解消する事が決まっているのだから。

幼馴染を溺愛する旦那様の前からは、もう消えてあげることにします

睡蓮
恋愛
「旦那様、もう幼馴染だけを愛されればいいじゃありませんか。私はいらない存在らしいので、静かにいなくなってあげます」

婚約破棄の代償

nanahi
恋愛
「あの子を放って置けないんだ。ごめん。婚約はなかったことにしてほしい」 ある日突然、侯爵令嬢エバンジェリンは婚約者アダムスに一方的に婚約破棄される。破局に追い込んだのは婚約者の幼馴染メアリという平民の儚げな娘だった。 エバンジェリンを差し置いてアダムスとメアリはひと時の幸せに酔うが、婚約破棄の代償は想像以上に大きかった。

処理中です...