王太子とさようならしたら空気が美味しくなりました

きららののん

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「帝国の通行証をお持ちで?」

 

帝国辺境の関門で、衛兵が槍を構えた。雨は上がったが土はまだぬかるみ、馬の蹄は水飛沫を上げる。

 

リリエルは荷車の荷綱を締め直し、鎚〈燈〉を背に下げた。

 

「鍛冶屋クロイツ村の職人として帝都商会へ納品に向かいます」

 

淡々と告げ、帳面と商会の封書を差し出す。衛兵は目を細めて書面を読み、近くの詰所へ走った。

 

「手続きが長引きそうだな」

 

テオが荷馬を撫で、肩越しに彼方を指差す。山道の曲がり角に、王国騎士団の青い旗が揺れていた。

 

「王国の紋章……やはり来ましたか」

 

リリエルの声は冷えたが、掌の鎚は熱を帯びる。

 

 

王国騎士団を率いるのは、側近オスカーだった。銀糸の外套が風をはらみ、騎士たちは硬い表情で列を成す。

 

「ヴァレンシュタイン令嬢、王太子殿下の勅命により身柄の確認を申し渡す」

 

「確認は書状で済むとお伝えしましたわ」

 

「恐れながら、殿下ご自身が直に言葉を交わすことを望まれている」

 

テオが一歩前へ出る。

 

「ここは帝国領だ。強制は通らねえ」

 

「通行の妨害をする気か?」

 

鎧の擦れる音が雨後の空気を裂く。オスカーは手綱を引き、馬を一歩進めた。

 

「強制ではない、要請だ。令嬢が応じれば我らは剣を抜かぬ」

 

リリエルは視線を地平へ投げた。王国本街道の奥、金色の鎧を纏った青年がゆっくり進んでくる。レオンハルト王太子だった。

 

「来てしまったのね、殿下」

 

胸の奥で小さな鉄球が跳ねる。懐かしさと怒りが鍛接し、火花を散らす。

 

 

馬を降りたレオンハルトは、泥を厭う素振りもなく歩み寄った。

 

「リリエル……いや、あなたをそう呼ぶ資格が残っているか」

 

王太子とは思えぬ疲弊が声音に滲む。だが口元は昔のように端正だ。

 

「資格より結果を。殿下は何を望まれます?」

 

「過ちを正したい。あなたに伝えねばならぬ言葉がある」

 

テオが緊張を帯びた空気を裂くように前へ出た。

 

「言葉ならここで足りるだろ。王都へ連れ戻す必要はねえ」

 

レオンハルトは鎚を背負うリリエルに目をとどめる。

 

「確かに君は変わった。もう貴族の肩書きも、私の影も要らぬのだろう」

 

「遅すぎますわ」

 

リリエルの声は静かだった。かつて王宮の舞踏会で無数の視線を浴びた時よりも、凪いで強い。

 

「私に必要なのは過去の赦しではありません。未来を打つ自由です」

 

「自由は手に入れたとしても、王国と君の絆は――」

 

「絆は焼け落ちました。灰に水をかけても戻りません」

 

オスカーが横から進み出た。

 

「令嬢、王太子殿下は謝罪のうえ、新たに商約を結びたいと――」

 

リリエルは手を上げて遮る。

 

「商約なら親方を通して。私は鍛冶屋の一職人ですわ」

 

王国勢にざわめきが広がる。レオンハルトは肩を落としたが、すぐに顔を上げた。

 

「それでも――祝福はさせてほしい」

 

「祝福?」

 

「君が新しい道で幸せを掴むならば、それを祈ることくらい私にもできる」

 

リリエルは目を伏せ、一度深く息を吐いた。

 

「ならば祝福だけ置いて、ここで帰還を。それが私の望みです」

 

レオンハルトは応じるように一歩下がり、胸に手を当てる。

 

「帝国の門に立つ貴女へ、王国王太子レオンハルト・ディ・アステリアが祝福を贈る。――かつての過ちを悔い改め、今後決して、貴女の道を塞がぬと誓う」

 

騎士たちが剣を掲げ、礼を取った。帝国衛兵は驚きながらも槍を下げる。

 

テオが低く呟いた。

 

「言葉だけで済むとは思わなかった」

 

「言葉には刃より深い跡が残ることも」

 

リリエルはレオンハルトへ小さく礼をした。王子はわずかに微笑み、馬へ戻る。

 

 

王国軍列が向きを変え、土煙を上げて帰路に就く。風だけが残り、関門の旗がはためく。

 

「終わった、のか?」

 

テオがようやく息を吐く。リリエルは鎚〈燈〉を握り直し、帝国の街道へ視線を移した。

 

「過去は片付けたわ。次は帝都。納品が遅れれば噂も信用も立ちませんもの」

 

「じゃあ走るぞ。商会は気が短いからな」

 

クラリスが馬車の手綱を引きながら笑う。

 

「荷台に座ってくださいお嬢様……いえ、職人殿。王太子殿下も驚く新作を届けに参りましょう」

 

リリエルは荷台に跳び乗り、真鍮板で包んだ翼飾りを膝に抱えた。帝都の空は高く澄み、遠い鐘の余韻のように胸を叩く。

 

「距離は打てば縮まる。次は鉄より硬い信用を鍛えましょう」

 

テオが手綱を鳴らし、馬車は帝国の門をくぐる。王国の追手の背はすでに霞み、前方に広がるのは新しい市場と火花の未来だった。
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