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しおりを挟む色褪せて薄汚れた麻のシャツ、うつ伏せに倒れた背中は斜めに大きく斬られている。
擦り切れたウールのズボン、靴底に巻いた布はいかにも夜盗といった風だが、その布だけが衣類とは違って新しく、結び目が解けている。
男はひどく痩せていて、顔色は青白く目元は栄養不足か薬物の影響か、濃い隈ができている。
「お前がこの男を斬ったのか?」
ニールスに問いかけに、兵卒は姿勢を正した。
「はい、手向かって来たので斬りました。」
兵卒の手はかすかに震え、青ざめた顔をしている。
「戦場経験はないのか?」
「い、いえ、先のマーケン国との大戦に参加しておりました。」
「暑いのか? ずいぶん汗をかいてるな。」
冷え切った夜半過ぎの空気の中で、兵卒の額には玉のような汗が浮かんでいる。
「なぜ後ろから切った?」
ニールスはまた兵卒に聞いた。
「逃げようとしたので…」
兵卒の汗が、地面に落ちた。
「捕まえようとは思わなかったのか?」
「さ、先に逃げている、賊を追いかけることに、夢中で…」
「伯爵様!」
兵卒を問い詰めるニールスに、補給倉庫の責任者である少尉が割って入る。
「我々の調査をお疑いですか?」
少尉は拳を握り締め、悔しさに顔を歪めた。
「そう力むな、リューデル少尉。疑っているわけではない、せっかくここまで出向いたんだ、少しは働かせてくれ。」
リューデルはわずかに表情を緩めたが、納得はいかないような様子でいる。
「残りの夜盗は必ず我々が挙げてみせます!」
リューデルの言葉に、後ろに控えていた彼の部下達も力強く頷いた。
「期待している、リューデル少尉。」
ニールスは目の前の、気位の高い年上の下級将校の面子をとりあえず優先することにした。
リューデルが部下を連れ立って、鼻息荒く夜盗捜索に出かけると、ニールスは管理棟にある執務室にカールを伴った。
「カール、どう思った?」
執務室の硬い椅子に座りながら、ニールスが言った。
「怪しい点があり過ぎるくらいありましたね。少尉の様子も、どうにも…」
「少しお前の方でも、調べてみてくれ。リューデルに気づかれんようにな。」
リューデルは気位ばかり高くて、実務に疎い。だが部下からの信は厚く、そこが厄介だった。
カールは、承知したという風にニールスに頷いて、執務室を後にした。
エルムンド領の東の端を流れる川沿いの、小さな村の神父から嘆願書が届いた。
様子のおかしな者がこのところ多く出ている、どうも薬に溺れているようだ。
そんな内容だった。
人が変わったように言動が粗暴になり食事も摂らず、眠らなくなり、やがて衰弱して死亡する。
おかしくなったうちの一人が軍の支給品の薬瓶を持っていた事がわかり、嘆願書がニールスにまで届くことになり、軍の補給拠点の一斉監査が行われた。
不正を嫌うニールスの軍にあって、備品、補給品に手を出すのは、御法度。
カールはニールスが派遣した兵士の報告書に舌打ちした。
『東の補給倉庫周辺の村で、麻薬成分のある薬品が横流しされている。』
兵卒のほとんどが平民で、生活が楽な者はいない。
兵士になれば本人だけなら食い詰めることはないし、わずかながら俸給も出る。
それでも中には家族に病人を抱えていたり、借財を抱える者も少なからずいる。
カールは家族に使うためだったり、小遣い稼ぎ程度なら薬の流用を見逃した。
薬を売り捌いていた兵士は、村の外から薬を買いに来た常習者を夜盗に仕立て、始末してあった。
「どういうことだ軍曹!俺が横流しを見逃してるのは、困窮している兵卒だけだ。ヤランお前は十分俸給を受け取っているだろう、横流しの量も限度を超えている!」
カールは、目の前の男の襟ぐりをつかみ上げたが、殴るのを堪え、地面に叩き付けた。
「お前が欲をかいたおかげで大変なことになっているんだぞ!それになんだ、あの夜盗は。あんな浮浪者まがいの痩せぎすの夜盗なんてどこにいるんだ!リューデルの阿呆じゃなかったらごまかせなかったぞ!」
カールは叩きつけられ地面に両手をついたまま、青い顔で震えているヤランを見て大きく息を吐いた。
「もういい、俺に後の捜査を任された───リューデルは貴族出身を鼻にかけるだけの使えないやつだ。適当に踊らせて責任をとってもらうさ。」
カールは伏したままのヤランを立たせて、上着の土を払ってやった。
「もう失敗は許されない、しっかりやれ。」
ヤランは涙を上着の袖で拭いながら、カールに頷いた。
ニールスは疲労感に目を閉じ、小さな執務室の椅子の背に体を預けた。
『今週中には軍の方も落ち着く、来週は時間をとってゆっくり話そう。』
セシリアに言った言葉は、結局嘘になった。
『さようですか、お気をつけて。』
ニールスが、急に補給庫に向かうことになったことを詫びると、セシリアは不思議そうに、それでいて心から納得したようにそう言った。
とくに期待もしていない。
それとも、今さら何を?
ということか。
『当然だ』頭の中の自分が自分を笑っている。
帰還してからの自分の行いを振り返るまでもなく、思い当たることしかない。
馬車寄せでのセシリアが瞼の裏によみがえる。
青白い頬、震える唇、涙にゆがむ水色の瞳。
ニールスの指先が震えた。
錫のカップに蒸留酒を少し注ぎ、あおるように飲む。
焼け付くような喉の感覚に、ニールスは、くっと息を吐きながら顔を顰めた。
ニールスは短い眠りの中で、夢を見た。
少女が白い寝間着の裾を泥で汚しながら、ぬかるみの中をどうにか歩いている。
ブーツかと思った足元は、よく見れば裸足で膝近くまで泥に染まっている。
「セシリア。」
名を呼ぶとびくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。
「ニールス様…」
消え入りそうな声で教えられた通りに名を呼ぶ。
叱られると思ったのか、眉尻を下げ、水色の瞳が不安そうに揺れていた。
ニールスは黙って、彼女を抱き上げた。
ニールスはその日の昼間、動物が好きだというセシリアを厩舎に連れて行った。
馬を見てしばらくはしゃいでいたセシリアが、一頭だけ別の厩舎に入れられている馬を見て尋ねた。
「なぜ、あの子は一人なの?」
「もうじき赤ん坊を産むんですよ。だからしばらくはこうして別にしておくんです。」
馬丁の言葉に、セシリアの目が輝いた。
「赤ちゃんが産まれるの?見たいわ!」
はしゃぐセシリアを見て、馬丁の顔が曇った。
「何か、あるのか?」
ニールスが馬丁に尋ねると、小声で答えた。
「どうも、数が多いようなんですよ。」
「双子か?」
ニールスも渋い顔になった。
馬の双子は大変珍しい。
たいていの場合、仔馬のどちらかあるいは両方が死産か、生まれて間もなく命を落とす。
母馬の命も失われてしまうこともある。
「二頭も生まれるの?」
セシリアは耳が良いようで二人の声を拾って、ますます声を弾ませた。
馬の出産は夜遅い時間であることを理由に、馬丁と侍女に反対されてセシリアは出産の立ち会いを渋々諦めた、はずだった。
「仔馬を見たいんだろう?」
泥だらけの自分を抱えるニールスを、不思議そうに見るセシリアに微笑んだ。
セシリアは満面の笑みを浮かべ、ニールスの首にしがみついた。
厩舎に着くとセシリアは馬のお産をまんじりともせず見ていた。
やはり、一頭は死んで生まれてきた。
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馬丁が手桶に母馬の乳を搾り出した。
それを待っていたかのように、母馬は子馬が立ち上がるより少し早く、命を終えた。
双子の出産に耐えられなかったのだ。
ニールスは、ハッとしてセシリアを見た。
彼女は母親を失っている。
彼女自身が生まれた時に。
セシリアは少し微笑んで「可愛い子…」小さな声で囁いた。
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