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桜の頃 …1
しおりを挟む「きゆちゃん、田中先生はいつ頃退院できそうなの?」
足立きゆがこの田中医院に勤め出してすぐ、院長先生が持病の心臓病を悪化させ、となりの島の大きな病院に入院した。
元々、小さな島にある小さな病院だ。
人口の減少に伴い患者数も徐々に減り、そのため今では、この病院も高齢の院長先生と看護師の奥様と二人で細々と営んでいた。
「まだどれくらいかかるか分からないみたい。
私は看護師だから院長先生の代わりはできないけど、とりあえず病院は開けててほしいって先生が言うから。
今の仕事は島のおじいちゃん、おばあちゃんの相談相手かな」
きゆが笑ってそう言うと、二軒先の薬局に勤める峰子がため息をついた。
「でも、きゆちゃん、何があって島に帰って来ちゃったの?
きゆちゃんの年の女の子が帰ってくるって珍しいからさ」
この小さな島に小学校と中学校は一校しかない。
子どもの数は減少し、もちろん、若者は出て行ったきり帰ってくることはほとんどなかった。
「たまたま、役場のホームページを見たら看護師の募集案内が出てて、なんか東京の生活にも飽きてきてた頃だったから、親孝行ついでに帰ってきたみたいな感じ。
ま、半分、勢いでかな…」
きゆより10歳年上の峰子は、きゆの事をよく知っていた。
3人兄妹の一番末っ子のきゆは大人しく気の優しい子供だった。
「そっか…
うちの薬局はここの病院の薬の調剤もやってるから、何かあったらすぐに相談にきて」
「……うん、ありがとう」
きゆは笑顔で手を振って出て行く峰子を見送った。
そして、誰もいない待合室の椅子に座り、窓から見える青空をぼんやりと見た。
ここに帰ってきた理由は単純なもの…
大好きだったあの人を忘れるため…
流人とつき合っただけでも夢を見させてもらったのかもしれない。
小さな島で生まれ育ったこんなちっぽけな私が、池山総合病院の跡取りドクターと結ばれるなんて、地球がひっくり返ってもあり得ないことだもの。
でも、それでも、こんな私だけど人並みに結婚に憧れていた。
あの私の26歳の誕生日までは…
池山流人は自他共に認める将来を有望視される敏腕整形外科医だ。
手術の腕前はベテランの先生をしのぐほどで、学ぶ事に関して言えば、努力と時間を惜しまない人間だった。
でも、仕事を離れると、今風のノリのいいチャラ男に成り下がる。
大きな二重の瞳に鼻筋の通った綺麗な鼻、口角の上がった唇はたまに妖しげな色気を醸し出した。
流人が他の病院での修行を済ませ自分の病院に帰ってきた時、私は整形外科担当の看護師だった。
整形外科と言わず他の科も合わせ皆の注目の的だった流人は、ニ世ドクターらしくない軽いノリで皆に溶け込んだ。
品のいいチャラ男というのが、その頃の流人のあだ名だった。
軽いジョークで皆を笑わせ、暇があれば合コンにもよくつき合う、そんな流人の彼女の席を皆が狙うようになってきた頃、私は流人に食事に誘われた。
「きゆさん、俺が、きゆさんが今まで食べたことがないくらいの、ほっぺが落っこちそうになるほど美味しいハンバーグを食べさせてあげる」
別にハンバーグにつられたわけじゃない。
白衣を脱いだ流人は意外に普通の男性だった。
医者の息子だとか、家がお金持ちとだか、まるっきりそんなものを感じさせないし、逆に私の田舎の話を羨ましそうに聞いていた。
「いいな~、俺もそんなところに生まれたかった」って…
それから二人の距離は急速に縮まった。
流人は私の事を俺だけのきゆと呼び、いつも愛おしそうに抱きしめてくれた。
私達はあっという間に恋に落ち、特に私は、流人なしでは生きていけないほどに彼にのめり込んだ。
流人はちょっとチャラくて優しくて、でも、時折、俺様気質が出現する。
「きゆ、仕事上しょうがないけど、俺以外の男をベタベタ触んじゃね~ぞ」とか、
「仕事以外のきゆの時間は俺のものだからな」とか、他たくさん…
俺様流人は裏の顔で、病院で見せる流人先生は明るく面倒見がいい癒し系ドクター。
そして、私は、私だけに見せる流人の裏の顔を愛していた。
きゆは一人待合室の椅子に座り、流人の事をぼんやり考えていた。
流人を忘れるためにこの島に戻ってきたのに、流人への想いは募るばかり…
幼い時から慣れ親しんだこの風も空気も風景も、傷ついたきゆの心を癒すことはできなかった。
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