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甘いものを食べるだけだった訪問に、食事が増え、更には飲酒を誘われることも増えた。
食事だけならいいが、酒を飲むとそのまま泊まっていくよう言われる。宛がわれるのはゲストルームではあるのだが、近しい距離を許され、内心では戸惑ってしまう。
友人だと思いきれば迷うこともないのに、彼を独占するという甘さが誘惑して離れない。その果実は囓ってはならない筈なのに、美味しそうに香りを放っていた。
「美月。まだ飲むか?」
今日も夕食を共にして風呂に入らせてもらい、ラフな部屋着でソファを陣取っている。背後を振り返り、美味しそうな瓶が持ち上げられているのを視界に入れた。
「飲む」
返事をすると、しばらくしてワインのボトルとグラスが二つ、目の前のテーブルに置かれた。
近くにはチーズの載った皿が添えられ、あまりにも理想的な晩酌だ。
「ありがと。美味しそうだね」
「一時期お取り寄せグルメにハマっていたことがあってな。ここのチーズは美味い」
宵知は当然のように隣に腰掛けた。
グラスにワインが注がれると、片方を渡される。有難く受け取り、軽く縁を合わせた。
「ワインは詳しくないけど、お花みたいでいい匂い」
照明の光を受け、透けた紫色がテーブルに移る。揺らして鼻先に当てると、また匂いが変化して、甘さが強くなった。
口に運ぶと、度数は強くないようで、すっきりと喉を抜けていった。
「飲みやすいね」
「良かった。美月は果物が好きだから、そっちに寄せてみた」
「お花じゃなくて?」
「俺は果物だと思ったがな」
同じ匂いでも、感じ方は違うようだ。チーズを囓りつつ、難しい、と呟く。隣から喉だけで笑う声が伝った。
「意見って合わないものだねえ」
「そうだな。どういった作品を世に出しても、得られる感想は千差万別だ」
曲のことを言っているのだろう、ということは容易に想像できた。だが、珍しいこともあるものだ。
彼はあまり曲のことを語りたがらない。そして、私も距離を置いた方がいいのだろう、と感じていた。
手の中で、グラスを揺らす。色味に光が混ざって、別の温度を持った。
「…………私。宵知の曲、全部聞いてるんだけどね」
「は?」
「聞いちゃだめだったかな?」
しゅんと肩を落とすと、作曲者は露骨に慌てたような顔をする。
「ちが……! そうじゃなくて、興味があったんだ、と意外に思っただけだ」
「最初はミミさんに寄せる切っ掛けになれば、って思って聞き始めたんだけれど。ピアノっぽい音が綺麗で耳触りがいいから、次に、次に。って、ついつい聞いちゃう」
「そうか」
宵知は言葉少なにグラスを持ち上げ、何度も中身を口に運ぶ。
頬は酒のせいではなく、わずかに染まっているように見えた。私がじい、と見つめている事に気づいたのか、顔が逸らされる。
「…………照れてる?」
「単純に嬉しい」
口元を覆って、彼は表情を隠してしまう。横から服の裾を引いても、なかなか手を下げてはくれなかった。
つい酔い混じりの悪戯心が疼く。チーズを持ち上げ、彼の口元に近づけた。
「はい。あーん」
目元だけでも、逡巡しているのが分かった。そろそろと手が離れ、口元があらわになる。軽く開かれた口に、チーズをご機嫌に押し込んだ。
にっこり、と笑ってみせる。
「美味しい?」
「美味い」
「もうちょっと曲の話、していい?」
「構わない。照れるだけだから放っておいていい」
テーブルの上に放置していた携帯電話を持ち上げ、音楽アプリを開いてみせる。よく聞いた回数順にソートすると、一気に宵知の曲ばかりになった。
肩に寄りかかり、見える位置で画面を操作する。整った顔立ちが近づいて、同じ画面を覗き込んだ。
「一番聞いてたの『ラビット』って曲みたい。これ、映画の主題歌だったよね」
「ああ。恋愛映画とのタイアップで、脚本を元に作ったんだ」
「兎の寂しがりってイメージに影響受けちゃうから、私はけっこう共感できる歌詞だったな」
「あぁ。寂しいと死ぬ、だったか……」
宵知の言葉に、不味い、と顔から血が引く。
ミミさんとの別れの中で、寂しくさせたまま別れた、という事実が重くのし掛かっていた筈だ。
だが、私の予想とは相反して、彼はもう泣き崩れたりはしなかった。
「美月も、寂しがりなのか?」
「…………一人暮らしを始めてから慣れたと思ってたけれど。宵知に『泊まっていかない?』って誘われたらすーぐ泊まっちゃうから、そうなのかも」
「はは。じゃあ、また誘う」
彼は指を伸ばし、ラビットの再生ボタンを押した。流れてくる楽曲を聴きながら目を細める。
悲しい、というより、懐かしさの方を強く感じさせる表情だった。
「この曲はミミをモチーフにしたから、ちょっと我が儘な歌詞なんだよな。寂しくさせちゃ嫌だ、近くにいて、って」
「そうだね。私はそういうスタンス、憧れちゃうかもなぁ」
だから、この曲を聞き込んでしまったのかもしれない。二人の間を、音が流れていく。顔を寄せて、会話のバックグラウンドを音楽が満たしている。
宵知の表情が暗くないことに、私の唇も緩んでしまう。
「今なら、もうちょっと控えめな兎の曲を作るかもな」
「寂しいけど、来てくれるまで待ってる、みたいな?」
「そんな感じ。ちょっとだけ押しが弱くて、いじらしい感じの」
言われてみれば、彼の話すイメージもまた、多くの人が思うウサギのイメージであるのかもしれない。
一つのワインも、一つの楽曲も、一つのウサギにも、人は多様な印象を抱く。私とミミさんが違うように、種族という括りはあまりにも大雑把であるらしい。
「作ったら聴かせてね」
「ああ。一番に持っていく」
彼は棚の中からノートを取り出すと、ウサギに纏わるイメージを鉛筆で書き付け始める。隣で見ていた私も面白くなって、ウサギが持つパブリックイメージ的な文言を口出しした。
宵知は鬱陶しがることもなく、雑多な言葉を整えて書き残す。
逸話、性格、傾向。
飲酒を交えながら、長く、色々な話をしているうちに、ウサギという種族も存外悪くないんじゃないか、と思うようになった。
これは、宵知が私を肯定してくれたから生まれた感情だ。私はどうあっても、人であって、兎でしかない。
「────角の生えたウサギ、わかる?」
「分かる。一本も二本も」
「ほんと詳しい。宵知はウサギが好きなんだね」
ノートを見下ろして、彼は黒く汚れた指を擦った。ああ、と漏れた声は、豊かに感情を映す。
「ああ。今も兎は、好きだな」
手が伸びてきて、私の頭に乗る。そのまま、わしわしと撫で繰り回された。
意図が分からず、その場で首を傾げた。いくら兎に転じることができるとはいえ、今の私は完全に人の姿をしている。
「宵知。かなり酔ってる? 今は私、人間だよ」
「べつに酔ってない」
続けて両手で私の肩を掴むと、そのまま抱き込まれた。慌てて近くにあったグラスをテーブルの奥に逃がす。
他のことに気をとられているうちに、身体には腕が絡み付いていた。
「…………やっぱり、酔っ払いだ。もう寝ようか」
「それもいいかもな。気分がいい」
宵知は私を解放すると、残っていたワインをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。ご機嫌に喉は鳴っているが、あまりにも心配な光景だ。
止めに入ったのだが、飲み干す方が早かった。
「もう……! 歯磨きして寝るよ」
残ったグラスを流し台に運び、余ったチーズを口に放り込む。
ノートは放っておくことにして、一通り片付いたリビングで、ソファにもたれ掛かっている家主を引っ張り上げた。
宵知はぼうっとしているが、歩けないほどでもない。腕を引いて、いつも歯磨きをする洗面台へと連れて行った。
歯ブラシは棚に二つ並んで置いてある。私のそれはウサギのキャラクターが描かれているので分かりやすかった筈なのだが、いつの間にか同じウサギの色違いに変わっていた。
宵知のほうはシンプルな歯ブラシだったはず、と迷いつつも、自分のではない歯ブラシを持ち上げた。
「歯ブラシ変えたの?」
「ああ。前のも古くなっていたし、ウサギ柄のほうが気分が上がるから」
彼は照れも躊躇いもなくそう言い切ると、歯磨きを始めた。私は何か言うべきかと迷いながら、自分も隣で歯を磨く。
口の中を濯ぐと、一気に眠気が襲ってきた。
「私も眠くなってきたかも。早く寝室に行こう」
「ああ」
寝室へ、と言った瞬間、彼はぱあっと表情が明るくなり、率先して脱衣所から出ていく。転ばないよう気をつけながら後についていくと、廊下の途中で手が捕まった。
そのまま手を引いて、彼の寝室の前まで連れて行かれる。
ちらりと覗いたことしかない寝室の扉の先は、落ち着いた色味で纏められていた。濃い色のカーテンは分厚く、朝になっても光を通さないだろう。
部屋の隅には凝った音響が置かれていたが、カバーが掛けられ、直近で使った様子はない。
部屋の前で別れるかと思いきや、手を繋がれたまま室内へ誘導される。
「宵知……! あの、私はゲストルームに……」
そう言った瞬間、身体が持ち上げられた。成人男性の、しかも平均身長より高身長の人間である。大人になって持ち上げられた経験などない。
だが、宵知は楽しそうに私を持ち上げ、寝台に下ろした。
「へ…………?」
「寝よう」
私を追ってきた宵知は布団を持ち上げ、二人まとめて被せる。真っ暗になった視界から逃れるように布団を押し上げると、本人は隣でうれしそうに横になっていた。
逃げようとした私へ、彼は手招きをする。
「一緒に寝よう」
「狭いよ」
「狭くない」
言われたとおり、彼の寝台は二人で寝ても十分なほど広く。言い訳に使うことはできないようだ。
断り文句を考えているうちに長い腕が伸び、抱き込むように布団へと引き込まれる。
「もう……」
がっしりと身体を拘束され、足掻いても子兎でも宥めるように撫でられる。
兎の姿では普段から甘やかされていても、人の姿とはまた別だ。髪の間を過ぎていく指は、間違いなく人の私に触れている。
相手に伝わってしまわないか、考えるたびに更に鼓動は跳ねた。
「いまは私、人なんだけど……!」
「知っている」
「可愛くも、ふわふわもしてないよ……!?」
「可愛いし、ふわふわだ」
彼はそう言い張って、私の頭に頬を擦り付ける。
ぼっと体温が上がって、わたわたと腕の中で暴れた。腕が離れることはなかった。
「……兎じゃ、ないんだよ…………?」
「兎だ。俺の────」
彼はむにゃむにゃと何事か呟くと、そのまま一気に眠りへと落ちてしまった。
垂れた腕を持ち上げれば逃れられそうだったが、何となく、そのまま枕に頭を預ける。
手を伸ばして照明のものらしきスイッチを押すと、部屋は一気に暗くなった。はぁ、と息を吐いて、真っ暗な天井を見つめる。
酔いが眠気を誘って、もうこのまま眠ってしまってもいいような気がしていた。
「……宵知の兎だったら、幸せだったかもねぇ」
純粋なウサギだったら、ミミさんの後釜に座れたのだろうか。やっぱり、人の自分が邪魔なような気がするのに、皮肉にも宵知に掛けられた言葉が否定する。
恋人になって、とは、きっと人の口で言うべきだろう。喉は重苦しく詰まって、しばらく眠れはしなかった。
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