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レナードが数日前に渡してくれた作り置きの料理は、美味しくて翌日には無くなってしまった。容器は慎重に洗って、食べ終わった日の翌日には彼の家の玄関扉に掛けて返した。
カードに感想でも書いて添えようかと思ったが、相手が不快に思わない褒め方が分からなかった。ありきたりな礼の言葉だけを書き添えておく。
それから、またいつも通りの数日が過ぎていく。
仕事と、実験と、たまに病院に呼ばれての魔術の行使。これまで通りの日々なのに、乾いたパンも干し肉も、美味しく思えないほど舌が肥えてしまって困った。彼の存在に慣れるということは、僕にとっては悪影響なのかもしれない。
その日も昼近くに目を覚まして、食事を面倒がりながら床に広げた魔術式を読み耽っていた。ミィヤの来訪に伴って片付いたはずの家は、また元通りの惨状へと成り果てている。
唐突に、通信魔術が飛んでくる。相手を確認すると、病院の事務職員からだった。
『こんにちは、ニッセさん。レナードさんという患者さんが、世話になったニッセさんに渡したいものがある、とのことで品物をお持ちなんですが、事務室で受け取っておきましょうか? できるのなら、そちらの仕事場にお邪魔したいそうなんですが……』
レナード、という名前にどくりと胸が跳ねる。そういえば、彼は定期的に通院していると言っていた。
少し乾いた喉を開く。
「あぁ。来てもらって構わない。すまないが、場所だけ案内してもらえるか?」
『分かりました。お伝えしておきます』
礼を言って、通信魔術を終える。周囲を見渡せば、おおよそ人を招くような部屋ではない。玄関で受け取るだけで済ませるべきだろう。
はあ、と長く息を吐いて、玄関を軽く片付ける。流石に玄関まで物が散乱している訳ではなかったが、一歩でも足を踏み入れれば樹海だ。
一通り片付いたころ、すぐ近くで呼び鈴が鳴った。わざと時間をおいて、気持ちゆっくりと扉を開く。
「こんにち、……は……」
レナードの声は、言葉が続くごとに萎んでいった。彼の瞳は驚いたように僕のつむじから爪先までを見下ろしている。
髪だけは梳かしていたが、隈の浮いた目元と、何年も着古したローブ。彼と会った時はまだ小綺麗な格好をしていたのに、今の僕はまったくの素だった。
「すまない。仕事中で、人を迎えるような格好ではなくて」
「……ああ、違うよ。驚いたのは体調が悪そうに見えて…………」
そっと彼の指が僕の頬に触れ、目の下をなぞった。太い指先は水仕事も多いのか、かさついている。
「ちゃんと寝てる?」
「さっき起きたところで。しっかり寝てはいるんだが、隈が消えないんだよな」
「そうか……。やっぱり、もっと食べさせたいな」
レナードは思い出したように、手元の袋を持ち上げた。このあいだ受け取ったものと同じように、日持ちのする料理が詰められている。
だが、彼にとっては大量に詰めてくれているのだろうが、僕にとっては一日で消えてしまう気がした。
「ありがとう。この前もらった料理も美味しくて、すぐ食べ終わってしまった」
「そう。作ったお菓子もほとんど食べ切っていたし、たくさん食べるんだね」
彼は困ったように眉を下げ、僕が受け取った袋を見下ろしている。おそらく、レナードとしては食生活が改善するくらいの量を食べさせたいのだろうが、互いにそこまで無理はできない。
僕は料理を受け取って終わりにするつもりだったが、彼は来訪をなかなか切り上げなかった。
「……ずっと考えていたんだ。俺は仕事を終えると夜になってしまって、君に家に来て貰って食事を振る舞えない」
「ああ。でも、こうやって食事を用意して貰えるのだって嬉しいが……」
僕はそう言って今の距離を肯定しようとしたが、相手が望んでいるのはこの言葉ではないようだった。
「提案なんだけど、ニッセの仕事終わりに俺の家に来て、俺が帰るまで食事を待っていてくれないかな?」
口調も早く、強い語気に気圧される。
「……はぁ。ええと、僕も夕食は遅いし構わないが」
「食事を終えたら送っていくし。……それか、そのまま泊まって、翌日の朝ご飯を食べて帰ったら?」
「それは……。僕はいいが、レナードが負担だと思う」
貰った袋を胸元で握り締め、顔を見上げる。顰められた眉からは心配、という感情が漏れ出ていた。
彼にとっては、僕が目の届かない場所にいるほうが心配であるらしい。自身の手間が増えようとも、心労が祟る、と言われそうだ。
「しばらくの間だよ。その顔色の悪さが戻るまで」
「そう、か。それなら」
おずおずと頷くと、彼は歓声を上げて僕を抱き込んだ。目を白黒させていると、レナードは我に返ったように僕を離す。
「じゃあ、夕方。明るいうちに家に来て。着替えなんかは貸すから、寝るまでに仕事をするのなら道具は持ってくるといい」
「いや。仕事は片付けてくる」
招待してくれるのなら、生活の時間を夜更かししないよう戻せばいい。今日は店休日だから食事も早そうだが、話を聞く限りでは普段の夕食の時間とちょうど合いそうだ。
レナードは僕の頭に手を伸ばすと、そろり、と撫でた。
「じゃあ、また夕方にね」
去っていった彼の肩は、一仕事やり遂げたかのように緊張が抜けて丸まっていた。渡された袋から食事を取り出すと、どれもこれも保存容器の中で色鮮やかに纏まっている。
机の上を片付け、新品に近い皿を並べる。容器から中身の料理を移し、なんとなく綺麗に見えるように形を整えた。
食事を温める魔術を紡ぐと、窓から吹いた風がカーテンを揺らす。皿に光が差し込んで、食事を誘うように彩度を上げる。
「やっぱり、美味しそう」
煮込み料理らしき品を掬い上げて口に含むと、十分に加熱された肉がほろほろと崩れた。噛み締めるとぎゅっと肉の旨みが溢れてくる。ごろごろとした野菜もしっかりと火が通り、次々と口の中の味を変えていく。
空腹に美味は劇薬だった。次々と夢中で眺め、匂いを嗅ぎ、口に入れる。慎重に噛み締めて味を覚え、また次の料理に涎が湧いた。
「…………美味しかった」
もっと長持ちさせたかったのに、保存容器の中身はかなり減ってしまった。蓋をして片付け、これまで使うことのなかった冷蔵装置に魔力を込めて仕舞い込む。
栄養を一気に摂取しすぎたのか、頭は回るし魔力も溢れそうだ。
午後から予定していた魔術の試験項目を翌日分まで機械的に回し、気がついた頃には日が落ち始めていた。時計もあるのだが、熱中していると目には入らない。夜に太陽光が消えるとはなんて優れた仕組みなのだろう、思考を散らしながら仕事道具を片付けた。
服を着替えようかと思ったが、のんびりしていては日が暮れてしまう。急いで家を出て、まだ明るさが残っている道を通って彼の家に向かった。
「いらっしゃい、遅かったね」
僕を出迎えたレナードは料理中だったようだ。部屋の奥からは何かを煮込んでいる匂いがする。
「今度は、もうちょっと早く来る」
彼は腕を広げ、僕を軽く抱きしめる。身体も、腕もなにもかもが大きい。胸元に納められれば、視界は相手の服だけでいっぱいになった。
「……手土産を持ってこようと思ったんだが、どれを買ったってレナードの方が美味しいものを作りそうで、買えなかった」
「深く考えなくていいよ。他の人が作った料理はそれだけで好きだし、学びもある」
どうぞ、と促され、家に上がり込む。玄関先で埃を落とし、また手を洗っていると、料理に戻ったレナードが不思議そうに見つめていた。
視線を合わせて首を傾げると、調理器具を持ったまま彼は口を開く。
「目元には隈、服も贈りたくなるような服なのに、特定の事だけはきちんとやるんだなって」
家に入るとき、埃を落として、手を洗う動作を指しているようだ。
「……服は薬品の調合で汚れるから、買い替えても同じだ」
そう言いつつ、急いでいたとはいえ仕事着で来てしまったのは不本意だ。繕えていた鍍金はばりばりと剥がれるばかりで、相手が僕を保護対象以上に思っているのかは謎だった。
唯一どうにかできる、解れた髪が気になった。料理を待っている間は時間があるだろう、と指先で絡まった髪を解いて編み直し始める。
レナードがなにか話しかけてくるかと思ったが、僕が勘だけで指先を動かしているのを黙って見ていた。
「髪を結うところは面白いか?」
「俺、料理するから髪を長くしたことがないんだ。編み物みたいにくるくる指が動くから、物珍しくて」
ふぅん、と同意を返して、わざとゆっくりと髪を編んだ。絡み付いてくる視線は不快ではないが、なんだがそわそわと背を擽るような感覚だった。
「今日は、店は休みなのか?」
「そうだよ。でも、店が休みじゃなくても、当番外で休みの日もあるかな」
「じゃあ、厨房での仕事も多いんだな」
「時間による。店では何でも屋なんだ」
以前は厨房にいることが多かったそうだが、今では柔軟に動いているそうだ。事故からの復帰直後は仕事量も減らしていたが、今では店長、という立場で仕事量もほぼ元通りらしい。
「────復帰まで数ヶ月かかるような怪我は……途方もないな」
「まあね。けど、あの時期は今の副店長が本当に頑張ってくれた。それに、近くを歩いてた俺より小さい身体の人にぶつかっていたら、その人はもっと酷い怪我になっていたと思うよ。俺のほうは日頃からしっかり食べて身体も丈夫だったし、今はもう本調子……」
自信満々に言い切ろうとして、そうではないことに彼自身も気づいたらしい。ああ、と僕が思い出したように声を上げる。
「『そっち』は僕が治療した方が早いのかもしれないが、通院しているなら魔力での処置も行われている筈なんだ。薬に別の薬を重ねるように、別の魔術を強く干渉させるのは怖い」
「あぁ、確かに。塩味に塩味、になりかねないしね」
料理というのは調薬に通じるような概念も多く、彼の察しは早かった。
「そういうことだ。だから、医療魔術師としてじゃなく知人として協力する方がいいだろうな。ただ魔力を流したり、あとは身体の面で刺激を与えてみたり」
「……刺激? 温めてみるとか?」
「いや? 局部を触ったりとか」
顔を上げると、上の棚を開けていた腕がすっぽ抜けたのが見えた。扉が勢い良く跳ね、彼の額に気持ちいいくらい見事に当たる。
濁った声と共にしゃがみ込んだ様子に駆け寄ると、呆然としたように額に手を当てるレナードがいた。
「大丈夫か? レナード」
「うん…………」
打った位置を確認すると、赤みはあるが音の大きさほど酷い傷ではない。それよりも、呆然と肩を落としている姿を見れば、原因は精神的なものらしい。
心配して肩に手を添えるのだが、手のひらをやんわりと持ち上げられて傍らに置かれた。
「あの」
「何だ?」
「俺の……男性器をニッセが触るって話をした?」
「そうだが」
きっぱりと答えると、更に難解な問いでも与えられたかのように彼は唸った。よろよろと立ち上がり、煮ていた鍋の火を止めてまた戻ってくる。力なくしゃがみ込む彼は、僕の服の裾を掴んだ。
軽くしか掴めない指先は、なんとも頼りない。
「ニッセ、は、性的に奔放かな……?」
「遊びでそんな事をする体力があったら、仕事に使いたい」
「普段、仕事でそういう事を……?」
「身体を見られたくない患者に配慮して、魔術は何かを経由しても掛けられるように設計されている」
「じゃあ、なんでそんな事を言うんだ……」
頭を抱え込んでしまった彼の反応を見るに、アルファとオメガの間で提案するには軽率すぎる発言だったようだ。髪を編むのに意識を向けていた所為か、普段なら口に出さない、線を踏み越えた発言だったかもしれない。
「ああ、悪い。レナードなら触ってくれる相手くらいいるか」
「いない。神殿に石を預けた上で遊ぶようなアルファじゃないよ」
「…………? いや、望まれるのなら触るのも吝かではないと思ったんだが、一般的には見られたくない場所か」
レナードは、僕と距離を詰めないまま言葉を絞り出す。
「……ニッセ。俺たち、神殿で相性がいいって言われたの覚えてる?」
「流石に忘れない」
「俺達は、番候補、だってことだよ」
言われてようやく、意識が薄かったことに気づいた。現状、僕たちの間では発情期は過ごせない。その前提ゆえか、新しくできた友人、という感覚になってしまっていた。
だが、目の前で困惑しているレナードは、そうではないらしい。
「友人のように、……思っていたかもしれない」
「その認識を咎めたくはないけど、ニッセが油断していたら俺はあわよくば、って思っちゃうから。そういう意識はして」
目の前にいる僕の唇に、彼の指先が当たる。ふに、と弾力を楽しんで、目の前のアルファはそっと感触の違う指を離した。
「それに、勃たなくたって、キスくらいはできちゃうしね」
すっと立ち上がると、レナードは料理に戻った。触れていった指先が、胸を引っ掻いて過ぎていく。じくじくと傷を付けられた部分が疼いて仕方なかった。
ゆっくりと立ち上がって、歩み寄った広い背中に額を当てる。
「……もうすこし、考えてみる」
相手は、数年前から雷管石を神殿に預けて、相手を待ち望んでいたような人間の筈だ。柔らかく接してくれるから、覆って隠して整えてくれるから、だから僕は見誤った。
肩を丸めてソファに戻り、脚を抱きかかえる。
雑誌に目を通す気にもなれなくて、換気をしている窓辺を眺めていると、近くの机にそっと皿が置かれる。
「お詫び。そういう顔をさせたい訳じゃなかったからね」
くしゃくしゃと髪を撫でると、彼は台所に戻っていく。添えられたフォークを持ち上げると、甘く煮付けられた果肉を突き刺して口に運ぶ。じゅわ、と甘い味が一気に舌に届く。
「あま……! 美味い」
ぽつり、と呟くと、料理の合間に笑い声がした。一瞬だけ彼の本心が見えたはずだったのに、また綺麗に隠されてしまった気がする。
すっと息は吸いやすくなったのに、求めていたのはこの結果だったのかと自問した。
カードに感想でも書いて添えようかと思ったが、相手が不快に思わない褒め方が分からなかった。ありきたりな礼の言葉だけを書き添えておく。
それから、またいつも通りの数日が過ぎていく。
仕事と、実験と、たまに病院に呼ばれての魔術の行使。これまで通りの日々なのに、乾いたパンも干し肉も、美味しく思えないほど舌が肥えてしまって困った。彼の存在に慣れるということは、僕にとっては悪影響なのかもしれない。
その日も昼近くに目を覚まして、食事を面倒がりながら床に広げた魔術式を読み耽っていた。ミィヤの来訪に伴って片付いたはずの家は、また元通りの惨状へと成り果てている。
唐突に、通信魔術が飛んでくる。相手を確認すると、病院の事務職員からだった。
『こんにちは、ニッセさん。レナードさんという患者さんが、世話になったニッセさんに渡したいものがある、とのことで品物をお持ちなんですが、事務室で受け取っておきましょうか? できるのなら、そちらの仕事場にお邪魔したいそうなんですが……』
レナード、という名前にどくりと胸が跳ねる。そういえば、彼は定期的に通院していると言っていた。
少し乾いた喉を開く。
「あぁ。来てもらって構わない。すまないが、場所だけ案内してもらえるか?」
『分かりました。お伝えしておきます』
礼を言って、通信魔術を終える。周囲を見渡せば、おおよそ人を招くような部屋ではない。玄関で受け取るだけで済ませるべきだろう。
はあ、と長く息を吐いて、玄関を軽く片付ける。流石に玄関まで物が散乱している訳ではなかったが、一歩でも足を踏み入れれば樹海だ。
一通り片付いたころ、すぐ近くで呼び鈴が鳴った。わざと時間をおいて、気持ちゆっくりと扉を開く。
「こんにち、……は……」
レナードの声は、言葉が続くごとに萎んでいった。彼の瞳は驚いたように僕のつむじから爪先までを見下ろしている。
髪だけは梳かしていたが、隈の浮いた目元と、何年も着古したローブ。彼と会った時はまだ小綺麗な格好をしていたのに、今の僕はまったくの素だった。
「すまない。仕事中で、人を迎えるような格好ではなくて」
「……ああ、違うよ。驚いたのは体調が悪そうに見えて…………」
そっと彼の指が僕の頬に触れ、目の下をなぞった。太い指先は水仕事も多いのか、かさついている。
「ちゃんと寝てる?」
「さっき起きたところで。しっかり寝てはいるんだが、隈が消えないんだよな」
「そうか……。やっぱり、もっと食べさせたいな」
レナードは思い出したように、手元の袋を持ち上げた。このあいだ受け取ったものと同じように、日持ちのする料理が詰められている。
だが、彼にとっては大量に詰めてくれているのだろうが、僕にとっては一日で消えてしまう気がした。
「ありがとう。この前もらった料理も美味しくて、すぐ食べ終わってしまった」
「そう。作ったお菓子もほとんど食べ切っていたし、たくさん食べるんだね」
彼は困ったように眉を下げ、僕が受け取った袋を見下ろしている。おそらく、レナードとしては食生活が改善するくらいの量を食べさせたいのだろうが、互いにそこまで無理はできない。
僕は料理を受け取って終わりにするつもりだったが、彼は来訪をなかなか切り上げなかった。
「……ずっと考えていたんだ。俺は仕事を終えると夜になってしまって、君に家に来て貰って食事を振る舞えない」
「ああ。でも、こうやって食事を用意して貰えるのだって嬉しいが……」
僕はそう言って今の距離を肯定しようとしたが、相手が望んでいるのはこの言葉ではないようだった。
「提案なんだけど、ニッセの仕事終わりに俺の家に来て、俺が帰るまで食事を待っていてくれないかな?」
口調も早く、強い語気に気圧される。
「……はぁ。ええと、僕も夕食は遅いし構わないが」
「食事を終えたら送っていくし。……それか、そのまま泊まって、翌日の朝ご飯を食べて帰ったら?」
「それは……。僕はいいが、レナードが負担だと思う」
貰った袋を胸元で握り締め、顔を見上げる。顰められた眉からは心配、という感情が漏れ出ていた。
彼にとっては、僕が目の届かない場所にいるほうが心配であるらしい。自身の手間が増えようとも、心労が祟る、と言われそうだ。
「しばらくの間だよ。その顔色の悪さが戻るまで」
「そう、か。それなら」
おずおずと頷くと、彼は歓声を上げて僕を抱き込んだ。目を白黒させていると、レナードは我に返ったように僕を離す。
「じゃあ、夕方。明るいうちに家に来て。着替えなんかは貸すから、寝るまでに仕事をするのなら道具は持ってくるといい」
「いや。仕事は片付けてくる」
招待してくれるのなら、生活の時間を夜更かししないよう戻せばいい。今日は店休日だから食事も早そうだが、話を聞く限りでは普段の夕食の時間とちょうど合いそうだ。
レナードは僕の頭に手を伸ばすと、そろり、と撫でた。
「じゃあ、また夕方にね」
去っていった彼の肩は、一仕事やり遂げたかのように緊張が抜けて丸まっていた。渡された袋から食事を取り出すと、どれもこれも保存容器の中で色鮮やかに纏まっている。
机の上を片付け、新品に近い皿を並べる。容器から中身の料理を移し、なんとなく綺麗に見えるように形を整えた。
食事を温める魔術を紡ぐと、窓から吹いた風がカーテンを揺らす。皿に光が差し込んで、食事を誘うように彩度を上げる。
「やっぱり、美味しそう」
煮込み料理らしき品を掬い上げて口に含むと、十分に加熱された肉がほろほろと崩れた。噛み締めるとぎゅっと肉の旨みが溢れてくる。ごろごろとした野菜もしっかりと火が通り、次々と口の中の味を変えていく。
空腹に美味は劇薬だった。次々と夢中で眺め、匂いを嗅ぎ、口に入れる。慎重に噛み締めて味を覚え、また次の料理に涎が湧いた。
「…………美味しかった」
もっと長持ちさせたかったのに、保存容器の中身はかなり減ってしまった。蓋をして片付け、これまで使うことのなかった冷蔵装置に魔力を込めて仕舞い込む。
栄養を一気に摂取しすぎたのか、頭は回るし魔力も溢れそうだ。
午後から予定していた魔術の試験項目を翌日分まで機械的に回し、気がついた頃には日が落ち始めていた。時計もあるのだが、熱中していると目には入らない。夜に太陽光が消えるとはなんて優れた仕組みなのだろう、思考を散らしながら仕事道具を片付けた。
服を着替えようかと思ったが、のんびりしていては日が暮れてしまう。急いで家を出て、まだ明るさが残っている道を通って彼の家に向かった。
「いらっしゃい、遅かったね」
僕を出迎えたレナードは料理中だったようだ。部屋の奥からは何かを煮込んでいる匂いがする。
「今度は、もうちょっと早く来る」
彼は腕を広げ、僕を軽く抱きしめる。身体も、腕もなにもかもが大きい。胸元に納められれば、視界は相手の服だけでいっぱいになった。
「……手土産を持ってこようと思ったんだが、どれを買ったってレナードの方が美味しいものを作りそうで、買えなかった」
「深く考えなくていいよ。他の人が作った料理はそれだけで好きだし、学びもある」
どうぞ、と促され、家に上がり込む。玄関先で埃を落とし、また手を洗っていると、料理に戻ったレナードが不思議そうに見つめていた。
視線を合わせて首を傾げると、調理器具を持ったまま彼は口を開く。
「目元には隈、服も贈りたくなるような服なのに、特定の事だけはきちんとやるんだなって」
家に入るとき、埃を落として、手を洗う動作を指しているようだ。
「……服は薬品の調合で汚れるから、買い替えても同じだ」
そう言いつつ、急いでいたとはいえ仕事着で来てしまったのは不本意だ。繕えていた鍍金はばりばりと剥がれるばかりで、相手が僕を保護対象以上に思っているのかは謎だった。
唯一どうにかできる、解れた髪が気になった。料理を待っている間は時間があるだろう、と指先で絡まった髪を解いて編み直し始める。
レナードがなにか話しかけてくるかと思ったが、僕が勘だけで指先を動かしているのを黙って見ていた。
「髪を結うところは面白いか?」
「俺、料理するから髪を長くしたことがないんだ。編み物みたいにくるくる指が動くから、物珍しくて」
ふぅん、と同意を返して、わざとゆっくりと髪を編んだ。絡み付いてくる視線は不快ではないが、なんだがそわそわと背を擽るような感覚だった。
「今日は、店は休みなのか?」
「そうだよ。でも、店が休みじゃなくても、当番外で休みの日もあるかな」
「じゃあ、厨房での仕事も多いんだな」
「時間による。店では何でも屋なんだ」
以前は厨房にいることが多かったそうだが、今では柔軟に動いているそうだ。事故からの復帰直後は仕事量も減らしていたが、今では店長、という立場で仕事量もほぼ元通りらしい。
「────復帰まで数ヶ月かかるような怪我は……途方もないな」
「まあね。けど、あの時期は今の副店長が本当に頑張ってくれた。それに、近くを歩いてた俺より小さい身体の人にぶつかっていたら、その人はもっと酷い怪我になっていたと思うよ。俺のほうは日頃からしっかり食べて身体も丈夫だったし、今はもう本調子……」
自信満々に言い切ろうとして、そうではないことに彼自身も気づいたらしい。ああ、と僕が思い出したように声を上げる。
「『そっち』は僕が治療した方が早いのかもしれないが、通院しているなら魔力での処置も行われている筈なんだ。薬に別の薬を重ねるように、別の魔術を強く干渉させるのは怖い」
「あぁ、確かに。塩味に塩味、になりかねないしね」
料理というのは調薬に通じるような概念も多く、彼の察しは早かった。
「そういうことだ。だから、医療魔術師としてじゃなく知人として協力する方がいいだろうな。ただ魔力を流したり、あとは身体の面で刺激を与えてみたり」
「……刺激? 温めてみるとか?」
「いや? 局部を触ったりとか」
顔を上げると、上の棚を開けていた腕がすっぽ抜けたのが見えた。扉が勢い良く跳ね、彼の額に気持ちいいくらい見事に当たる。
濁った声と共にしゃがみ込んだ様子に駆け寄ると、呆然としたように額に手を当てるレナードがいた。
「大丈夫か? レナード」
「うん…………」
打った位置を確認すると、赤みはあるが音の大きさほど酷い傷ではない。それよりも、呆然と肩を落としている姿を見れば、原因は精神的なものらしい。
心配して肩に手を添えるのだが、手のひらをやんわりと持ち上げられて傍らに置かれた。
「あの」
「何だ?」
「俺の……男性器をニッセが触るって話をした?」
「そうだが」
きっぱりと答えると、更に難解な問いでも与えられたかのように彼は唸った。よろよろと立ち上がり、煮ていた鍋の火を止めてまた戻ってくる。力なくしゃがみ込む彼は、僕の服の裾を掴んだ。
軽くしか掴めない指先は、なんとも頼りない。
「ニッセ、は、性的に奔放かな……?」
「遊びでそんな事をする体力があったら、仕事に使いたい」
「普段、仕事でそういう事を……?」
「身体を見られたくない患者に配慮して、魔術は何かを経由しても掛けられるように設計されている」
「じゃあ、なんでそんな事を言うんだ……」
頭を抱え込んでしまった彼の反応を見るに、アルファとオメガの間で提案するには軽率すぎる発言だったようだ。髪を編むのに意識を向けていた所為か、普段なら口に出さない、線を踏み越えた発言だったかもしれない。
「ああ、悪い。レナードなら触ってくれる相手くらいいるか」
「いない。神殿に石を預けた上で遊ぶようなアルファじゃないよ」
「…………? いや、望まれるのなら触るのも吝かではないと思ったんだが、一般的には見られたくない場所か」
レナードは、僕と距離を詰めないまま言葉を絞り出す。
「……ニッセ。俺たち、神殿で相性がいいって言われたの覚えてる?」
「流石に忘れない」
「俺達は、番候補、だってことだよ」
言われてようやく、意識が薄かったことに気づいた。現状、僕たちの間では発情期は過ごせない。その前提ゆえか、新しくできた友人、という感覚になってしまっていた。
だが、目の前で困惑しているレナードは、そうではないらしい。
「友人のように、……思っていたかもしれない」
「その認識を咎めたくはないけど、ニッセが油断していたら俺はあわよくば、って思っちゃうから。そういう意識はして」
目の前にいる僕の唇に、彼の指先が当たる。ふに、と弾力を楽しんで、目の前のアルファはそっと感触の違う指を離した。
「それに、勃たなくたって、キスくらいはできちゃうしね」
すっと立ち上がると、レナードは料理に戻った。触れていった指先が、胸を引っ掻いて過ぎていく。じくじくと傷を付けられた部分が疼いて仕方なかった。
ゆっくりと立ち上がって、歩み寄った広い背中に額を当てる。
「……もうすこし、考えてみる」
相手は、数年前から雷管石を神殿に預けて、相手を待ち望んでいたような人間の筈だ。柔らかく接してくれるから、覆って隠して整えてくれるから、だから僕は見誤った。
肩を丸めてソファに戻り、脚を抱きかかえる。
雑誌に目を通す気にもなれなくて、換気をしている窓辺を眺めていると、近くの机にそっと皿が置かれる。
「お詫び。そういう顔をさせたい訳じゃなかったからね」
くしゃくしゃと髪を撫でると、彼は台所に戻っていく。添えられたフォークを持ち上げると、甘く煮付けられた果肉を突き刺して口に運ぶ。じゅわ、と甘い味が一気に舌に届く。
「あま……! 美味い」
ぽつり、と呟くと、料理の合間に笑い声がした。一瞬だけ彼の本心が見えたはずだったのに、また綺麗に隠されてしまった気がする。
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