26 / 33
兄との対話
しおりを挟む
「お兄さまはご存知でしたの」
執務室に出向いたクロエは兄にたずねた。兄は熱心に書物をしていたが、彼女の質問にふと顔を上げた。
「お前の姉が実は一癖も二癖もある人間だということか?」
「……」
「知っていたさ。母上をわざわざ家へ呼び戻したのはエリーヌだぞ?」
そうなんだ、とクロエは思った。何も知らなければ、エリーヌはただ優しさから夫人を呼び戻したと言い返したことだろう。もう、今は信じることができなかったけれど。
「お兄さまは違うの?」
「私はいまさら戻ってきてもらっても困ると思っていた。実際面倒なことになっているしな」
兄の答えはいっそ薄情といえるほど淡白であった。そこに実母に対する憐れみや親子の情は感じられなかった。
「男と女は違うからな。私は確かに幼い頃お前の存在を許しがたく思っていたし、父のことを軽蔑もした。母を気の毒にも思えた」
だが次第にそれも変わったという。
「今ならば父がああいった愚かな行動をとった気持ちもわかる気がする。政略結婚で嫌々娶った母を愛せなかった理由も、必死に尽くそうとする母の態度を煩わしいと思った感情も。お前の母があっけなく死んだあと、何の未練もなくこの世を去った選択も」
「お兄さまも、結婚したらそうなるかもしれないってこと?」
「まさか、と言いたい所だが、結婚していない身では何とも言えないな。ただ今のところ、そんな面倒なことを起す気はないと言っておく」
兄はまだ結婚していなかった。なぜだろうと思っていたが、彼もまた両親の複雑な家庭環境に自分の人生を狂わされたのかもしれない。全うな道を歩んでいると思っても、健全な人間から見ればやはり歪な道筋を辿っているような。
「……わたしには、わかりません。わかりたくも、ない」
だろうな、と兄は特に反論もせず頷いた。
「お前の生い立ちを考えれば、そうなるのも自然なことだ」
自然なこと。
(わたしは、普通じゃないの?)
「お姉さまがああなったのも、わたしのせい?」
「さぁ、どうだろうな。お前にも原因があったかもしれないし、放っておいた私たちにも責任はあるだろう。だが元々の原因は私たちの親だろう。あるいは……」
「あるいは?」
いや、と兄は答えてくれなかった。
「どちらにせよ、ここにお前を愛してくれる人間はいない」
改めて突き付けられる現実にクロエは断崖絶壁に一人立たされているような心地になった。いっそこのまま飛び降りてしまって、孤独から解放されたい。
「誰かに愛されたいと望むなら、ここじゃない、別の場所で、別の誰かに望むしかない」
クロエが愛されたいと望む人間はたった一人だった。その望みも潰えた今、彼女はただ静かに暮らしたかった。
「言っておくが、修道院に入りたいという願いは聞き入れるわけにはいかない」
「……今までわたしを育ててきた意味がないから?」
「そうだ」
よくわかっているじゃないか、と兄の顔は笑っていた。
「両親のことで私たちに引け目を感じているのならば、すまないと思っているのなら、この家のためになる結婚をしろ。縁を作れ。それがお前にできることであり、役目だ」
兄の言うことは、もっともだと思った。衣食住に困ることなく、学校まで通わせてもらった。感謝して恩返しするのが道理だろう。
「だが困ったことは、母だ。彼女はおまえがアルベリク殿のもとへ嫁ぐことを決して許さないだろう」
あの人はいまだエリーヌが嫁ぐべきだと思っている。そしてエリーヌ自身も。
「いっそアルベリク殿がおまえの居場所を突き詰めた時、責任をとらねばならない身体にしてしまえばよかったのにな。彼は意外と律儀らしい。お前を心底愛しているということかもしれないな」
兄がエリーヌに伝えなかったのも、わざと傍観していたのも、問題を片付けるためだった。厄介者のクロエの行き先を。
「どうする、クロエ。自分の置かれた立場、今の私の考えを知って、おまえはどうしたい」
どうしたい。自由があるようで、実際選べる道はわずか……いや、一つだけだろう。
「お兄さまに、頼みがあります」
兄は片眉を器用に上げた。
「――わかった。では、そうしよう」
執務室に出向いたクロエは兄にたずねた。兄は熱心に書物をしていたが、彼女の質問にふと顔を上げた。
「お前の姉が実は一癖も二癖もある人間だということか?」
「……」
「知っていたさ。母上をわざわざ家へ呼び戻したのはエリーヌだぞ?」
そうなんだ、とクロエは思った。何も知らなければ、エリーヌはただ優しさから夫人を呼び戻したと言い返したことだろう。もう、今は信じることができなかったけれど。
「お兄さまは違うの?」
「私はいまさら戻ってきてもらっても困ると思っていた。実際面倒なことになっているしな」
兄の答えはいっそ薄情といえるほど淡白であった。そこに実母に対する憐れみや親子の情は感じられなかった。
「男と女は違うからな。私は確かに幼い頃お前の存在を許しがたく思っていたし、父のことを軽蔑もした。母を気の毒にも思えた」
だが次第にそれも変わったという。
「今ならば父がああいった愚かな行動をとった気持ちもわかる気がする。政略結婚で嫌々娶った母を愛せなかった理由も、必死に尽くそうとする母の態度を煩わしいと思った感情も。お前の母があっけなく死んだあと、何の未練もなくこの世を去った選択も」
「お兄さまも、結婚したらそうなるかもしれないってこと?」
「まさか、と言いたい所だが、結婚していない身では何とも言えないな。ただ今のところ、そんな面倒なことを起す気はないと言っておく」
兄はまだ結婚していなかった。なぜだろうと思っていたが、彼もまた両親の複雑な家庭環境に自分の人生を狂わされたのかもしれない。全うな道を歩んでいると思っても、健全な人間から見ればやはり歪な道筋を辿っているような。
「……わたしには、わかりません。わかりたくも、ない」
だろうな、と兄は特に反論もせず頷いた。
「お前の生い立ちを考えれば、そうなるのも自然なことだ」
自然なこと。
(わたしは、普通じゃないの?)
「お姉さまがああなったのも、わたしのせい?」
「さぁ、どうだろうな。お前にも原因があったかもしれないし、放っておいた私たちにも責任はあるだろう。だが元々の原因は私たちの親だろう。あるいは……」
「あるいは?」
いや、と兄は答えてくれなかった。
「どちらにせよ、ここにお前を愛してくれる人間はいない」
改めて突き付けられる現実にクロエは断崖絶壁に一人立たされているような心地になった。いっそこのまま飛び降りてしまって、孤独から解放されたい。
「誰かに愛されたいと望むなら、ここじゃない、別の場所で、別の誰かに望むしかない」
クロエが愛されたいと望む人間はたった一人だった。その望みも潰えた今、彼女はただ静かに暮らしたかった。
「言っておくが、修道院に入りたいという願いは聞き入れるわけにはいかない」
「……今までわたしを育ててきた意味がないから?」
「そうだ」
よくわかっているじゃないか、と兄の顔は笑っていた。
「両親のことで私たちに引け目を感じているのならば、すまないと思っているのなら、この家のためになる結婚をしろ。縁を作れ。それがお前にできることであり、役目だ」
兄の言うことは、もっともだと思った。衣食住に困ることなく、学校まで通わせてもらった。感謝して恩返しするのが道理だろう。
「だが困ったことは、母だ。彼女はおまえがアルベリク殿のもとへ嫁ぐことを決して許さないだろう」
あの人はいまだエリーヌが嫁ぐべきだと思っている。そしてエリーヌ自身も。
「いっそアルベリク殿がおまえの居場所を突き詰めた時、責任をとらねばならない身体にしてしまえばよかったのにな。彼は意外と律儀らしい。お前を心底愛しているということかもしれないな」
兄がエリーヌに伝えなかったのも、わざと傍観していたのも、問題を片付けるためだった。厄介者のクロエの行き先を。
「どうする、クロエ。自分の置かれた立場、今の私の考えを知って、おまえはどうしたい」
どうしたい。自由があるようで、実際選べる道はわずか……いや、一つだけだろう。
「お兄さまに、頼みがあります」
兄は片眉を器用に上げた。
「――わかった。では、そうしよう」
96
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
蔑ろにされた王妃と見限られた国王
奏千歌
恋愛
※最初に公開したプロット版はカクヨムで公開しています
国王陛下には愛する女性がいた。
彼女は陛下の初恋の相手で、陛下はずっと彼女を想い続けて、そして大切にしていた。
私は、そんな陛下と結婚した。
国と王家のために、私達は結婚しなければならなかったから、結婚すれば陛下も少しは変わるのではと期待していた。
でも結果は……私の理想を打ち砕くものだった。
そしてもう一つ。
私も陛下も知らないことがあった。
彼女のことを。彼女の正体を。
拝啓 お顔もお名前も存じ上げない婚約者様
オケラ
恋愛
15歳のユアは上流貴族のお嬢様。自然とたわむれるのが大好きな女の子で、毎日山で植物を愛でている。しかし、こうして自由に過ごせるのもあと半年だけ。16歳になると正式に結婚することが決まっている。彼女には生まれた時から婚約者がいるが、まだ一度も会ったことがない。名前も知らないのは幼き日の彼女のわがままが原因で……。半年後に結婚を控える中、彼女は山の中でとある殿方と出会い……。
元公爵令嬢、愛を知る
アズやっこ
恋愛
私はラナベル。元公爵令嬢で第一王子の元婚約者だった。
繰り返される断罪、
ようやく修道院で私は楽園を得た。
シスターは俗世と関わりを持てと言う。でも私は俗世なんて興味もない。
私は修道院でこの楽園の中で過ごしたいだけ。
なのに…
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 公爵令嬢の何度も繰り返す断罪の続編です。
嘘つきな婚約者を愛する方法
キムラましゅろう
恋愛
わたしの婚約者は嘘つきです。
本当はわたしの事を愛していないのに愛していると囁きます。
でもわたしは平気。だってそんな彼を愛する方法を知っているから。
それはね、わたしが彼の分まで愛して愛して愛しまくる事!!
だって昔から大好きなんだもん!
諦めていた初恋をなんとか叶えようとするヒロインが奮闘する物語です。
いつもながらの完全ご都合主義。
ノーリアリティノークオリティなお話です。
誤字脱字も大変多く、ご自身の脳内で「多分こうだろう」と変換して頂きながら読む事になると神のお告げが出ている作品です。
菩薩の如く広いお心でお読みくださいませ。
作者はモトサヤハピエン至上主義者です。
何がなんでもモトサヤハピエンに持って行く作風となります。
あ、合わないなと思われた方は回れ右をお勧めいたします。
※性別に関わるセンシティブな内容があります。地雷の方は全力で回れ右をお願い申し上げます。
小説家になろうさんでも投稿します。
思い出さなければ良かったのに
田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。
大事なことを忘れたまま。
*本編完結済。不定期で番外編を更新中です。
お姉様優先な我が家は、このままでは破産です
編端みどり
恋愛
我が家では、なんでも姉が優先。 経費を全て公開しないといけない国で良かったわ。なんとか体裁を保てる予算をわたくしにも回して貰える。
だけどお姉様、どうしてそんな地雷男を選ぶんですか?! 結婚前から愛人ですって?!
愛人の予算もうちが出すのよ?! わかってる?! このままでは更にわたくしの予算は減ってしまうわ。そもそも愛人5人いる男と同居なんて無理!
姉の結婚までにこの家から逃げたい!
相談した親友にセッティングされた辺境伯とのお見合いは、理想の殿方との出会いだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる