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2、突然の申し出
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「マリア。それを片付けたら、院長室に来てください」
「はい、先生」
当時八歳だったマリアは孤児院の中でも手のかからない良い子だと思われていた。
彼女としては気が強い子や大人に叱られるのが怖くて大人しくしているだけのつもりだったが、優しい子だと事あるごとに言われて、自然とそう振る舞うようになった。
院長であるザムエルに呼ばれた時も、他の子たちの世話を積極的に手伝い、食べ終わった食器を片付けている最中だった。
「マリアお姉ちゃん。おままごとしよう」
「これ、読んで?」
「ごめんね。院長先生に呼ばれているから、後でね」
幼い子どもたちからは姉のように慕われていたマリアは心苦しく思いながらも断り、院長室へ向かった。
「先生。マリアです」
「ああ。入りなさい」
失礼します、とマリアが中へ入ると、中にはザムエルの他に二人の男女がいた。
彼らはマリアの何度も着古してくたびれたシャツとスカートとは違う、皺がなくパリッと糊の利いた上等な衣服を着ている。帽子やアクセサリーもお洒落で、違和感なく身につけている。
丸顔でクマのような印象を与える男性は二十代のザムエルよりも年上で、鼻の下にひげがあった。
女性の方はほっそりとしたとても美しい人であったが、どこか雰囲気がやつれているように見えた。貴族の夫婦だろうか。なぜかマリアを食い入るように見てくるので、彼女はたじろいでしまう。
「あの、先生」
マリアが助けを求めるように声をかけると、ザムエルが答える前に女性が近づいてきた。
腰を屈めて、顔をよく見せてと言うように白い手袋をはめた手を頬に添えたのでマリアは固まる。
「ああ、ヒルデに似ているわ……!」
そう言ったかと思うと、美しい瞳にみるみるうちに涙を浮かべたのでぎょっとする。
「ヨゼフィーネ。落ち着きなさい」
「だって、あなた。この子、あの子にとてもよく似ているんですもの」
あの子。ヒルデ。その子に自分は似ているらしい。でも、いったい誰なのだろう。
「マリア。その方たちはリーデル伯爵夫妻です。お二人にはあなたと同じ八歳のお嬢さんがいるんですよ」
「わたしと、同じ……」
「ええ。ですが……少々事情があって、行方を探しているところなんです」
ザムエルが言葉を選びながら慎重に夫妻の事情を説明してくれた。
二年前の出来事だ。
夫妻は一人娘であるヒルデと共に湖のある美しい街を旅行していた。家族はホテルに滞在しており、長旅でヒルデが疲れて眠ってしまったので、夫妻は乳母に面倒を見させて外出した。
昼寝から起きたヒルデは両親に置いて行かれたとでも思ったのか、乳母の目を盗んでふらりとホテルの外へ出た。そして、そのまま行方不明になってしまった。
乳母と伯爵夫妻はもちろん、ホテルの関係者や街の警察も血眼になって探したが、見つからなかった。我が子の行方を諦めきれない夫妻は王家にも嘆願して手を貸してもらったが、やはりヒルデの消息はつかめなかった。
楽しい家族旅行が娘を失う出来事になってしまい、夫妻は嘆き悲しんだ。特に母親であるヨゼフィーネの悲しみは深く、体調を崩して寝込むほどだった。夫や使用人たちの献身的な支えにより、どうにか以前と同じ生活を送るまで回復したが、心は晴れないままであった。
そんな時だ。夫の勧めでメイドと共に気晴らしに街へ出かけ、おつかいを頼まれていたマリアを見かけたのは。
「あなたのその髪色を見た時、ヒルデだと思ったわ。あの子と同じ、可愛らしい髪色をしていたんですもの」
マリアの髪色は淡いピンク色をしていた。珍しいと言えば珍しい。
「でも、わたしは……」
「ええ、わかっているわ。あなたは、ヒルデではない。ヒルデであってほしいと思ったけれど……違うのよね」
ヨゼフィーネはマリアのことを調べて、孤児院出身であることを知った。マリアの両親が物心つく前に亡くなり、親戚が育てきれず知り合いが経営する孤児院に預けたことも。
「でも、そんなことは些細な問題だわ。私はあなたを見た時、運命を感じた。……マリア、あなたと一緒に暮らしたいの」
マリアは驚きのあまり言葉を失った。
「一緒に暮らしたい、って……」
「きみを私たちの娘として迎えたいんだ」
妻の言葉を補うように伯爵が告げた。要は養子として引き取りたいとのことだった。
「そんな、わたし……」
マリアは今度こそはっきりと院長であるザムエルに助けを求めた。
しかし彼はマリアの縋るような目を見ておらず、伯爵夫妻の方を見ていた。
「お二人とも。まだマリアも混乱している様子ですから、今日は一度お帰りになってはいかがでしょう」
ザムエルはマリアを助けるつもりでそう言ってくれたのだろうか。マリアの心臓はまだ大きく音を立てていた。
「……そうだな。ヨゼフィーネ、また来よう」
「でも……いいえ、そうね」
ヨゼフィーネは諦めきれない様子でマリアを見つめていたが、マリアがどこか怯えた様子で黙り込んでいたので、やがて渋々と頷いた。
それでも最後にどうしても伝えておきたいと思ったのか、マリアの小さな手を取り、懇願するように告げた。
「マリア。私たちは本当に、あなたと家族になりたいと思っているわ。そのことは、どうか忘れないでね」
マリアは何も言えないまま、ザムエルに会釈して部屋を退出する二人を眺めていた。
ザムエルも彼らに付き添い、部屋を出て行く。
一人残されたマリアは途方に暮れた気持ちでその場に残っていた。
(わたしと同じ、髪色の子……養子にしたい……あの人たちと、一緒に暮らす?)
言われたことを頭の中で繰り返して、状況を整理しようとする。
短い時間の間に、とてもたくさんのことが起きた気がする。ただ二人は話をしただけなのに……。
「急な話で驚いたでしょう?」
見送りに出ていたザムエルが戻ってきた。マリアの心中を察してか困ったように微笑んだ。
彼は笑うと目尻に皺ができる。マリアはその表情を見るといつも安心できたのだが、今は妙な胸騒ぎがした。
「はい。とても……あの、お二人はまだ、ヒルデ様を探している、のでしょう?」
見つからないとはいえ、実の娘だ。
あの夫人の様子からしても、急にきれいさっぱり忘れることはできない気がした。
「ええ、もちろん。王家は捜索を打ち切りましたが、お二人は諦めず、人をやって地道に聞き込みを続けているそうです。どこかで必ず生きていると信じてもいるでしょう。ですが、信じ続けることは、とても辛いことです。夫人は恐らく、あなたと過ごすことで、傷ついた心を癒したいのではないでしょうか」
夫人のやつれた表情を思い出し、マリアは気の毒に思った。力になりたいとは思う。……でも、養子になるという提案はあまりにも急な話であった。
「先生、わたしはどうすればいいのでしょうか」
マリアはザムエルが孤児院にいたいのならばずっといてくれて構わない……そういったことを口にしていると心のどこかで期待していた。とにかく、今胸に渦巻く不安を取り除いてほしかった。
「そうですね……」
「先生?」
ザムエルは窓際に寄り、外を眺めた。マリアも近寄って見下ろすと、伯爵夫妻がちょうど帰って行く最中で、とても立派な馬車に乗っていた。
その光景を見ただけでも、彼らがマリアとは無縁の世界を生きてきたことを知る。
伯爵家の養子になるなど、やはり無理な話だ。
しかし、ザムエルが口にしたことはマリアの考えを否定するようなものだった。
「……マリア。お二人の娘になるということは、あなたの長い人生において、とても幸運なことかもしれません」
「どうして、です」
何となくわかるものの、マリアはわからない振りをしていた。
ザムエルが振り返り、膝をついてマリアと同じ目線になる。
「伯爵家で生活すれば、衣食住に困ることはありません。教養や礼儀作法も身につけることができるでしょう。そういったことは、誰もが学べるものではありません。特別な人間にしか許されないことなのです」
自分はまだ子どもで外の世界も少ししか知らないが、ザムエルの言っていることは恐らく正しい気がした。伯爵夫妻の身なりや物腰には品があり、今まで出会ってきた人間と違うから。
「先生の言う通り、だと思います。だけど、わたしは……」
マリアはぎゅっと手を握りしめた。
(わたしは、ここにいたい……)
ザムエルの言う通り、伯爵家の養子になればお腹いっぱい食べることができ、新しい服にも袖を通して、たくさんの本をつかえることなく読んで、文字もすらすら書くことができるようになるかもしれない。
「夫妻はあなたのことをとても気に入っているご様子でした。特にヨゼフィーネ様は……あなたを本当の娘として育ててくださるでしょう」
「……」
「マリアは、二人が怖い方に見えましたか?」
黙って首を横に振る。
伯爵夫妻の人柄は優しそうだった。
家族なりたい、と言ってくれるくらいだ。愛情を持って接してくれるだろう。
それでも、マリアは孤児院で暮らし続けたかった。物心ついた時にはすでにここが自分の家で、居場所だった。今さら余所の家など行きたくなかった。
(わたしを捨てないで)
「マリア」
ザムエルなら、そうしたマリアの気持ちをわかってくれると思った。だって彼は幼いマリアが泣いていた時、ずっとそばで寄り添ってくれた人だったから。
彼は院長としては年が若く、それゆえ兄のように接しやすい面があった。
あまり人と接するのが得意ではないマリアからすると、頼りになる特別な人だった。
ザムエルも、同じように思ってくれている。そんな絆を子どもながら感じていた。
だから手放すはずはない。そう思っていたが……。
「あなたが不安になるのは当然です。でも、いつかはここを出て、一人で生きていかなければなりません。少し早いかもしれませんが、勇気を出して、伯爵家へ行ってみませんか?」
マリアは頭を強く殴られたような強いショックを受けた。
呆然とザムエルの凪いだ瞳を見つめて、自然と口にしていた。
「先生は、わたしが邪魔なのですか?」
ザムエルが大きく目を見開く。
「そんなことありません! 私も、あなたとずっとここで暮らしていければと思っていますよ」
なら、とマリアはザムエルに詰め寄り、彼の衣服を掴んだ。
「ここにいさせてください。わたし、もっと良い子になりますから。お手伝いもたくさんして、他の子たちの面倒も見ます。先生の役に立ちます。だからっ……」
追い出さないで。見捨てないで。
青い目に涙を浮かべて叫んだマリアをザムエルは痛ましそうに見つめたが、「わかりました」とは言ってくれなかった。
「マリア。私も、できればあなたの願いを叶えたい。ですが世の中には、どうしようもないことがあるのです。……こんなこと、まだ子どものあなたに言うべきではないのでしょうが……孤児院の経営は、本当はぎりぎりなのです。それで……もし、あなたが伯爵家の養子になることを引き受けてくれれば、二人は援助してくれるとおっしゃってくれて……すみません。他の子どもたちのためなのです」
マリアから目を逸らし、心苦しそうにザムエルは語る。
幼い子どもたちがいつもお腹を空かせて、中には泣いている子がいることをマリアは知っていた。
当然だ。
そんな彼らを可哀想に思って宥めていたのは自分自身なのだから。
何か自分にできることがあればいいのに、と思っていたのも……。
「……先生、わたし、伯爵家の養子になります」
「本当ですか」
歓喜で驚いた声を上げるザムエルに、マリアは俯いたまま、小さく頷いた。
「はい、先生」
当時八歳だったマリアは孤児院の中でも手のかからない良い子だと思われていた。
彼女としては気が強い子や大人に叱られるのが怖くて大人しくしているだけのつもりだったが、優しい子だと事あるごとに言われて、自然とそう振る舞うようになった。
院長であるザムエルに呼ばれた時も、他の子たちの世話を積極的に手伝い、食べ終わった食器を片付けている最中だった。
「マリアお姉ちゃん。おままごとしよう」
「これ、読んで?」
「ごめんね。院長先生に呼ばれているから、後でね」
幼い子どもたちからは姉のように慕われていたマリアは心苦しく思いながらも断り、院長室へ向かった。
「先生。マリアです」
「ああ。入りなさい」
失礼します、とマリアが中へ入ると、中にはザムエルの他に二人の男女がいた。
彼らはマリアの何度も着古してくたびれたシャツとスカートとは違う、皺がなくパリッと糊の利いた上等な衣服を着ている。帽子やアクセサリーもお洒落で、違和感なく身につけている。
丸顔でクマのような印象を与える男性は二十代のザムエルよりも年上で、鼻の下にひげがあった。
女性の方はほっそりとしたとても美しい人であったが、どこか雰囲気がやつれているように見えた。貴族の夫婦だろうか。なぜかマリアを食い入るように見てくるので、彼女はたじろいでしまう。
「あの、先生」
マリアが助けを求めるように声をかけると、ザムエルが答える前に女性が近づいてきた。
腰を屈めて、顔をよく見せてと言うように白い手袋をはめた手を頬に添えたのでマリアは固まる。
「ああ、ヒルデに似ているわ……!」
そう言ったかと思うと、美しい瞳にみるみるうちに涙を浮かべたのでぎょっとする。
「ヨゼフィーネ。落ち着きなさい」
「だって、あなた。この子、あの子にとてもよく似ているんですもの」
あの子。ヒルデ。その子に自分は似ているらしい。でも、いったい誰なのだろう。
「マリア。その方たちはリーデル伯爵夫妻です。お二人にはあなたと同じ八歳のお嬢さんがいるんですよ」
「わたしと、同じ……」
「ええ。ですが……少々事情があって、行方を探しているところなんです」
ザムエルが言葉を選びながら慎重に夫妻の事情を説明してくれた。
二年前の出来事だ。
夫妻は一人娘であるヒルデと共に湖のある美しい街を旅行していた。家族はホテルに滞在しており、長旅でヒルデが疲れて眠ってしまったので、夫妻は乳母に面倒を見させて外出した。
昼寝から起きたヒルデは両親に置いて行かれたとでも思ったのか、乳母の目を盗んでふらりとホテルの外へ出た。そして、そのまま行方不明になってしまった。
乳母と伯爵夫妻はもちろん、ホテルの関係者や街の警察も血眼になって探したが、見つからなかった。我が子の行方を諦めきれない夫妻は王家にも嘆願して手を貸してもらったが、やはりヒルデの消息はつかめなかった。
楽しい家族旅行が娘を失う出来事になってしまい、夫妻は嘆き悲しんだ。特に母親であるヨゼフィーネの悲しみは深く、体調を崩して寝込むほどだった。夫や使用人たちの献身的な支えにより、どうにか以前と同じ生活を送るまで回復したが、心は晴れないままであった。
そんな時だ。夫の勧めでメイドと共に気晴らしに街へ出かけ、おつかいを頼まれていたマリアを見かけたのは。
「あなたのその髪色を見た時、ヒルデだと思ったわ。あの子と同じ、可愛らしい髪色をしていたんですもの」
マリアの髪色は淡いピンク色をしていた。珍しいと言えば珍しい。
「でも、わたしは……」
「ええ、わかっているわ。あなたは、ヒルデではない。ヒルデであってほしいと思ったけれど……違うのよね」
ヨゼフィーネはマリアのことを調べて、孤児院出身であることを知った。マリアの両親が物心つく前に亡くなり、親戚が育てきれず知り合いが経営する孤児院に預けたことも。
「でも、そんなことは些細な問題だわ。私はあなたを見た時、運命を感じた。……マリア、あなたと一緒に暮らしたいの」
マリアは驚きのあまり言葉を失った。
「一緒に暮らしたい、って……」
「きみを私たちの娘として迎えたいんだ」
妻の言葉を補うように伯爵が告げた。要は養子として引き取りたいとのことだった。
「そんな、わたし……」
マリアは今度こそはっきりと院長であるザムエルに助けを求めた。
しかし彼はマリアの縋るような目を見ておらず、伯爵夫妻の方を見ていた。
「お二人とも。まだマリアも混乱している様子ですから、今日は一度お帰りになってはいかがでしょう」
ザムエルはマリアを助けるつもりでそう言ってくれたのだろうか。マリアの心臓はまだ大きく音を立てていた。
「……そうだな。ヨゼフィーネ、また来よう」
「でも……いいえ、そうね」
ヨゼフィーネは諦めきれない様子でマリアを見つめていたが、マリアがどこか怯えた様子で黙り込んでいたので、やがて渋々と頷いた。
それでも最後にどうしても伝えておきたいと思ったのか、マリアの小さな手を取り、懇願するように告げた。
「マリア。私たちは本当に、あなたと家族になりたいと思っているわ。そのことは、どうか忘れないでね」
マリアは何も言えないまま、ザムエルに会釈して部屋を退出する二人を眺めていた。
ザムエルも彼らに付き添い、部屋を出て行く。
一人残されたマリアは途方に暮れた気持ちでその場に残っていた。
(わたしと同じ、髪色の子……養子にしたい……あの人たちと、一緒に暮らす?)
言われたことを頭の中で繰り返して、状況を整理しようとする。
短い時間の間に、とてもたくさんのことが起きた気がする。ただ二人は話をしただけなのに……。
「急な話で驚いたでしょう?」
見送りに出ていたザムエルが戻ってきた。マリアの心中を察してか困ったように微笑んだ。
彼は笑うと目尻に皺ができる。マリアはその表情を見るといつも安心できたのだが、今は妙な胸騒ぎがした。
「はい。とても……あの、お二人はまだ、ヒルデ様を探している、のでしょう?」
見つからないとはいえ、実の娘だ。
あの夫人の様子からしても、急にきれいさっぱり忘れることはできない気がした。
「ええ、もちろん。王家は捜索を打ち切りましたが、お二人は諦めず、人をやって地道に聞き込みを続けているそうです。どこかで必ず生きていると信じてもいるでしょう。ですが、信じ続けることは、とても辛いことです。夫人は恐らく、あなたと過ごすことで、傷ついた心を癒したいのではないでしょうか」
夫人のやつれた表情を思い出し、マリアは気の毒に思った。力になりたいとは思う。……でも、養子になるという提案はあまりにも急な話であった。
「先生、わたしはどうすればいいのでしょうか」
マリアはザムエルが孤児院にいたいのならばずっといてくれて構わない……そういったことを口にしていると心のどこかで期待していた。とにかく、今胸に渦巻く不安を取り除いてほしかった。
「そうですね……」
「先生?」
ザムエルは窓際に寄り、外を眺めた。マリアも近寄って見下ろすと、伯爵夫妻がちょうど帰って行く最中で、とても立派な馬車に乗っていた。
その光景を見ただけでも、彼らがマリアとは無縁の世界を生きてきたことを知る。
伯爵家の養子になるなど、やはり無理な話だ。
しかし、ザムエルが口にしたことはマリアの考えを否定するようなものだった。
「……マリア。お二人の娘になるということは、あなたの長い人生において、とても幸運なことかもしれません」
「どうして、です」
何となくわかるものの、マリアはわからない振りをしていた。
ザムエルが振り返り、膝をついてマリアと同じ目線になる。
「伯爵家で生活すれば、衣食住に困ることはありません。教養や礼儀作法も身につけることができるでしょう。そういったことは、誰もが学べるものではありません。特別な人間にしか許されないことなのです」
自分はまだ子どもで外の世界も少ししか知らないが、ザムエルの言っていることは恐らく正しい気がした。伯爵夫妻の身なりや物腰には品があり、今まで出会ってきた人間と違うから。
「先生の言う通り、だと思います。だけど、わたしは……」
マリアはぎゅっと手を握りしめた。
(わたしは、ここにいたい……)
ザムエルの言う通り、伯爵家の養子になればお腹いっぱい食べることができ、新しい服にも袖を通して、たくさんの本をつかえることなく読んで、文字もすらすら書くことができるようになるかもしれない。
「夫妻はあなたのことをとても気に入っているご様子でした。特にヨゼフィーネ様は……あなたを本当の娘として育ててくださるでしょう」
「……」
「マリアは、二人が怖い方に見えましたか?」
黙って首を横に振る。
伯爵夫妻の人柄は優しそうだった。
家族なりたい、と言ってくれるくらいだ。愛情を持って接してくれるだろう。
それでも、マリアは孤児院で暮らし続けたかった。物心ついた時にはすでにここが自分の家で、居場所だった。今さら余所の家など行きたくなかった。
(わたしを捨てないで)
「マリア」
ザムエルなら、そうしたマリアの気持ちをわかってくれると思った。だって彼は幼いマリアが泣いていた時、ずっとそばで寄り添ってくれた人だったから。
彼は院長としては年が若く、それゆえ兄のように接しやすい面があった。
あまり人と接するのが得意ではないマリアからすると、頼りになる特別な人だった。
ザムエルも、同じように思ってくれている。そんな絆を子どもながら感じていた。
だから手放すはずはない。そう思っていたが……。
「あなたが不安になるのは当然です。でも、いつかはここを出て、一人で生きていかなければなりません。少し早いかもしれませんが、勇気を出して、伯爵家へ行ってみませんか?」
マリアは頭を強く殴られたような強いショックを受けた。
呆然とザムエルの凪いだ瞳を見つめて、自然と口にしていた。
「先生は、わたしが邪魔なのですか?」
ザムエルが大きく目を見開く。
「そんなことありません! 私も、あなたとずっとここで暮らしていければと思っていますよ」
なら、とマリアはザムエルに詰め寄り、彼の衣服を掴んだ。
「ここにいさせてください。わたし、もっと良い子になりますから。お手伝いもたくさんして、他の子たちの面倒も見ます。先生の役に立ちます。だからっ……」
追い出さないで。見捨てないで。
青い目に涙を浮かべて叫んだマリアをザムエルは痛ましそうに見つめたが、「わかりました」とは言ってくれなかった。
「マリア。私も、できればあなたの願いを叶えたい。ですが世の中には、どうしようもないことがあるのです。……こんなこと、まだ子どものあなたに言うべきではないのでしょうが……孤児院の経営は、本当はぎりぎりなのです。それで……もし、あなたが伯爵家の養子になることを引き受けてくれれば、二人は援助してくれるとおっしゃってくれて……すみません。他の子どもたちのためなのです」
マリアから目を逸らし、心苦しそうにザムエルは語る。
幼い子どもたちがいつもお腹を空かせて、中には泣いている子がいることをマリアは知っていた。
当然だ。
そんな彼らを可哀想に思って宥めていたのは自分自身なのだから。
何か自分にできることがあればいいのに、と思っていたのも……。
「……先生、わたし、伯爵家の養子になります」
「本当ですか」
歓喜で驚いた声を上げるザムエルに、マリアは俯いたまま、小さく頷いた。
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*--*--*
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