「いっすん坊」てなんなんだ

こいちろう

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セミの羽化って

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 渡船場には山田のばあちゃんが迎えに出ていた。
「ヨッちゃん、大きゅうなったね。もう中学生になったんかね」
「ばあちゃん、とんでもない目にあったよ」
「あら、そうかね。まあ東京からじゃ疲れるよね」
ばあちゃん、目の前の瀬戸があんなにうず巻いてたのに気付かなかったのか。
 海沿いに少しだけ商店があって、その奥の長い急な石段だ。中学生になっても一段ずつのきついこと。民家の間をすり抜けるように、右に曲がったり左に曲がったり。相変わらずひねっくれ者の階段だ。でも、ばあちゃんはまだまだ元気だ。家までの五十五段をさっさと上っていく。中学生のヨシキの方が
「ばあちゃん、ちょっと待ってくれよ」
と言いたくなるくらい、ヨシキを置き去りにしてどんどん上る。家に着いたとたん、息も切らさず孫のために晩ご飯の支度だ。
「ばあちゃん、本当は年寄りじゃないだろ!」
 早めの晩ご飯の時、いとこのタカちゃんが言った。
「食べ終わったら寺に行こう!セミの幼虫を捕まえて、羽化するところを観察するんだ。セミの羽化はきれいだぞ。ヨシキにも見せてやる」
「えっ、セミの羽化?さなぎに羽がはえてくるのか」
「セミはさなぎにはならないよ。夕方になって幼虫が地面の中からはい出してきて、それから木に登って、羽化して成虫になるんだ」
 タカちゃんはヨシキと同じ中学生。学年は一つ上だ。なんでもよく知っている。ヨシキが分からないことをなんでもやさしく教えてくれる。
  どうやって幼虫からセミになるんだ?それは絶対見てみたいな。


 ばあちゃんの家から、石段をさらに五十三段上ったら、じいちゃんのお寺だ。これが石段の一番上。ふもとからは百八段ある。七十を過ぎたじいちゃんは、これを毎日何度も下りたり上ったりしている。
 お寺の裏山はもう島のてっぺんだ。こんもり小さな森になっている。その中に古くて大きな杉の木が一本。お寺の本堂の上ににょっきり顔を出して、島じゅうを見渡している。
 夕陽が海に沈んで、周りが薄暗くなってから、タカちゃんと一緒にお寺に上がった。
「いるいる!いくらでもいるぞ」
茶色い虫が次々と、もそもそ幹を上がっていく。タカちゃんはそれをいくつかつかまえて虫カゴに入れた。
「持って帰って網戸にくっつけてれば、夜の間に羽化するんだ」
「夜の間って何時くらいだ?」
「そりゃわからない。それぞれがちがうんだよ。早いのはすぐ羽化して飛んでいく。でも、昨日なんか一番最後のやつは五時過ぎくらいだった。ずい分弱々しいやつで心配したけど、周りが明るくなってから、やっとゆっくりゆっくり羽を広げて飛んでいった。うすい黄緑色の透き通った羽をした、とてもきれいなセミだったよ」
「五時過ぎって、朝の五時か?そりゃあもう夜じゃないぞ。タカちゃんそれまでずっと起きてんのか!」
「そりゃあそうだ。こいつら一匹ずつの大事な命だもの、目が離せないんだ。いつどうなるかわからない。だから、羽化して飛び立つ時くらい、最後まで見守ってやらないとな」
 たかがセミじゃないか。でも、セミの話を始めたら、タカちゃんはどうでもいいくらい熱くなる。
「じっと見ているとな、背中が少しずつ割れてくる。そうすると、白っぽいやわらかい羽が出て来るんだ。その時が一番きれいなんだよ。でも、一番危ないのもその時だ。しっかり見守ってやるんだ。羽は痛んでないか。肢は六本ともそろっているか。動けるのか。元気なのか。羽を広げてちゃんと飛び立てるのか。ちょっとでも見落とせないよ。羽化を見始めたらトイレにも行かれなくなる。ネコに襲われることだってあるしな」
「じゃあ、タカちゃんは一体いつ寝るんだ?」
 ヨシキは五時なんて起きていたことがない。自慢じゃないが、六時半のラジオ体操だって、音が聞こえだしてパジャマを脱ぎ捨てて、そのまま走り出して、ラジオ体操第二の終わりの方になってやっと到着するくらいだ。
「オレにはとても付き合えそうにないや」
 そう言ったとき、横から女の子が口出ししてきた。
「ヨッちゃん、今年は来たんじゃね。二年も会わんとずい分大きくなったような気がする」
お寺のユキちゃんだ。ユキちゃんもヨシキのいとこだ。
「大きくなったなんて、ユキちゃんだって同級生じゃないか」
でも、ヨシキと比べたらまるで大人に見える。
「出たな、ユキおんな」
「あら、かかしくんも居ったの」
 ユキちゃんはタカちゃんのことをかかしくんと呼んでいる。タカちゃんは山田孝だ。だからやまだのかかし。そして、ユキちゃんは由起子だからユキおんなだ。
「ヨッちゃん、今日はかかしくんの所に泊まるの?明日はうちに泊まりにおいでよ。また毎日遊ぼうね」
「やめとけ。ユキおんなと遊んだら、体が冷たくなるぞ」
「ふん。ユキおんなだって心はあったかいんよ。立ちんぼのやまだのかかしとはちがうんよ。勝手にうちのセミを捕らんとって。可哀そうじゃろ。自然の生き物は自然のままにしておいた方がええんよ」
「ここのセミはおまえんとこのものじゃないぞ。全部オレが羽化するまで、大事に見守ってやるんだ。自然のままだと、うまく育たないやつも出てくる。オレがみんな無事に飛び立つまで大切に見守ってやるんだ」
「セミからしたらそれが余計なお世話なんよ。自然の力を見くびっちゃあいけん。一匹ずつが、みんな自分で飛び立つ力を持ってるんじゃから」
 ユキちゃんとタカちゃんはよく口げんかをする。でも、いつもは仲が良いんだ。仲は良いんだけど、いつも一緒にいる分、口げんかはしょっちゅうだ。一才年下のユキちゃんが年上のような言い方で口出しするのが、タカちゃんは気に入らないのだ。
「セミだけじゃあないんよ。毎日暗くなって、うちの庭でカブトムシやらクワガタやら、いっぱい虫を取っていくんじゃから。いつも虫ばっかり相手にして本当につまらん子よね」
「わけが分からないことを言うな。ヨシキ、ユキ女なんか相手にせずにもう帰ろう」
「えっ、まだじいちゃんにあいさつもしてないよ」
「和尚さんに会うのは明日の朝でいいよ。今夜はコイツらを羽化させるのに忙しいんだ。ほら、ヨシキ帰るぞ」
 タカちゃんは、一人でさっさと石段を下りていった。
「なんなんよ、あいつ。もお!言いたいことがあるんなら、はっきり言ったらどうなんよ!いつもあんなんじゃから」
ユキちゃんもぷいとふくれっ面をして本堂の裏に入っていった。
「タカちゃん、けんかしてるんか?」
タカちゃんを追いかけて聞いた。
「いいや、けんかじゃないよ。でも知るかい、あんなやつ」
でも、さっきユキちゃんはタカちゃんになんか言いたかったみたいだった。
『言いたいことがあるんなら、はっきり言ったらどうよ!』
なんて、タカちゃんともっと話したいことがあったんじゃないのか。

 家に帰って、タカちゃんは取ってきたセミの幼虫を、一匹ずつ部屋の外の網戸に引っかけた。カーテン越しの薄暗い明りの中でしばらくじっと見ていると、茶色い幼虫がもそもそと網の上にのぼり始める。
「見ててごらん。もう少しで背中が割れて羽化が始まるぞ」
「タカちゃんはいつも羽化するまでこんな風にして見てるのか?」
「最近は毎晩だよ。ヨッちゃんは今から風呂に入ってまたここに来い。そうしたら丁度良いくらいだろう」
「でも、今夜は早水の瀬戸の花火大会をばあちゃんと見に行く約束だろ?ばあちゃん、一緒に行こうって楽しみにしていたぞ」
「そうか、八時から花火だったか。ばあちゃん、ヨシキと行くのは二年ぶりだもんな。でも、オレはここにいるよ。花火なんかここからでもいくらだって見える。ヨシキは、ばあちゃんと一緒に行っておいで」
そりゃあこの家は山の中腹だから、花火はよく見えるはずだけど、でも、せっかくの花火大会じゃないか。
 花火なんて、浜に降りて島のみんなと大声で叫びながら一緒に見るから楽しいんだ。
「タカちゃんも行こうよ」
「一緒に行ってやりたいが、でもなあ、この子らの命の方が大切だ」
タカちゃんは言い出したらきかない。結局、タカちゃんを置いたまま、ばあちゃんとヨシキだけで浜に下りた。
 大浜という名の小さな浜と、その前にある小中学校の校庭と、そしてその向こうの漁港にかけて、もう見物の人でいっぱいだ。花火見物に良い場所はみんな取られている。漁港近くの石段に、やっとばあちゃんと二人で座れる場所を見つけた。
 ヒュール、ババババーン。
 波止の先っぽから真っ暗な瀬戸の空に向かって打ち上がる大玉の花火。けたたましい音を立てて、夜空いっぱいにきれいな花火が広がった。やっぱり海辺からまっすぐ上に打ちあがった花火はすごい。迫力が違う。周りは真っ黒な海と空。じゃまな町の明りなんか全然ない。その暗やみいっぱいに、いろんな色の明るい光が散らばって、辺りを全て照らし出す。首を真上に向けて見上げていると、パーッと広がった火の粉が一本、すーっと流れてきて、まっすぐ顔に落ちてきた。
「あっ!熱ッ」と思ったら目のまん前で消えていく。
 花火が上がるたびに大きな歓声がわき上がった。島じゅうの人たちみんなが集まっているんだ。一発一発の花火に、ワアーッとみんなが一緒になって声をあげている。
「やっぱりみんながいるからいいんだぞ!」
こんな楽しさは、家から見てるタカちゃんには伝わるはずがない。
「ヨッちゃんが来てくれたおかげで、今年は二人で楽しめるねえ」
ばあちゃんがうれしそうに言った。
「えっ、いつもタカちゃんと一緒じゃないのか?」
それには何も答えないで、ばあちゃんはうれしそうにニコニコ笑っていた。
 やがて、ばあちゃんはご近所のおばちゃんたちと長話を始めた。ヨシキは知ってる人もいなくて、一人で花火を見上げていた。
 「ヨッちゃん、やっぱり来とったんじゃね」
突然ユキちゃんが声をかけてきた。
「花火っていつ見てもいいよね。ぱっと開いて空いっぱいに広がって」
「でも、すぐにしぼんじゃうじゃないか」
「それでいいのよ。しぼんだら次の花火がまた開くんだから。ヨッちゃんてタカちゃんの言い方に似てきたね、タカちゃんは来んかったの?」
「一人で家にいるよ。セミの羽化をずっと見てるんだって」
「そうかあ、ヨッちゃんを一人にして。やっぱりかかしくんじゃねぇ。人に合わせることが下手くそで、約束してもすぐに忘れて、時間通りに来たことがないんじゃから」
 花火が終わって、ユキちゃんが買ってくれたワタアメを食べながら、二人で砂浜を歩いた。ユキちゃんはいつもヨシキには優しい。ヨシキだけじゃなく、みんなに優しい子だ。
 でも、なんでタカちゃんとだけ、いつもケンカしてるんだろう?
「ユキちゃん、タカちゃんとなんかあったのか?」
「いいや、何にもないよ。あいつが勝手に怒ってるだけよ。あいつは何を言っても私の話なんて聞いていないんだから。でもね、ヨッちゃんは何にも気にしなくていいんよ」
「じゃあなんでタカちゃんは怒ってるの?」
「なんでじゃろうね。かかしくんの考えることはよう分からん」
ふーん、こりゃあ相当ひどいケンカだな!
 百八段の石段の下で、ユキちゃんはいつの間にかいなくなった。

 ばあちゃんの家に帰ると、相変わらずタカちゃんが外にいる。網戸に顔をくっつけてセミの羽化をじっと見ている。ヨシキは部屋の中からのぞくことにした。外はヤブ蚊だらけで、かゆくてかゆくてじっと観察なんかしておれない。でも、
「ほら、一匹背中が割れてきた!」
そう言われると、やっぱりそばに行ってみたくなる。また外に出て、タカちゃんにくっついて息も小さくして観察だ。
「本当だ!」
茶色い背中が小さく割れて、その割れ目から白いものが見え始めた。割れ目が少しずつ広がっていく。そして白いものがずんずん大きくなった。やがてそれがどんどん膨らんで、重みで抜け殻の下に垂れ下がるようになると、白いものは黄色っぽい色に変わってきた。
「あっ、これは羽だ!脚みたいなものも見えてきたぞ」
少しずつセミらしい形になっていく。黄色っぽかった羽がだんだん時間が経つうちに、今度は濃い茶色の羽に変わってきて、垂れ下がっていた体がむっくり起き上がってくる。完全なセミの誕生だ。
 しばらくは飛ぶ力が出ないのだろう。じっと網戸にしがみついている。セミもヨシキも静かにして息もつかない。
「動かないぞ。こいつ大丈夫なのかな?」
見ていてハラハラしてきた。タカちゃんの気持ちが分かるような気がする。
 息もつかなかったやつが、やがて元気を回復したように、力強くバサバサッと羽を広げて飛んでいった。夜の空に「チーッ」と鳴き声を響かせて。
 第一号!元気だ。暗い夜空を勢いよく飛び去った。
 二号目、三号目もおんなじだ。次々と羽化して夜空高く飛んでいく。羽化ってすごい自然の力だ。
 ところが一匹だけちっとも変化しないやつがいる。
「タカちゃん、こいつ死んでるんじゃないか?」
「いや、いつも一匹くらい時間のかかるやつがいるんだ。でも、弱いやつでも、遅れることはあっても、必ず羽化してみんなと同じように飛び立っていく」
「それじゃあ、見ていてやんなくたって、勝手に羽化して飛んでいくんじゃないか。もう入ろうよ、いっぱいヤブ蚊に刺されてかゆいよ」
「いや、オレがここに連れてきたんだから、オレには見届けてやる責任があるんだ。最後まで見守ってやるぞ」
「だから、いつまで?」
「さっきも言ったろ。昨日は心配なやつがいて、五時過ぎてた」
「それ、もう朝だって。毎晩寝ないでこんなことやってんのかい」
「最近はそうだな。今朝はそのまんま朝になってしまった」
「そんなの、絶対オレには出来ないよ。もう中に入る」
 ユキちゃんの言うとおり、山田のかかしは何考えているのかわけの分からないやつだ。あーあッ。体中がかゆくなってしょうがない。
「大体、セミの羽化なんて何匹も見るもんじゃないよ。一匹見れば十分だ!」
 ヨシキは家の中に入って、テレビを見て、いつの間にか寝た。タカちゃんはそのまま、夜が明けるまで網戸の前に座っていたらしい。山田のかかしにはとても付き合えない。
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