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第三部
1. リカルド
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さいきん朝の空気がとても冷たくなった……そのことに気づいたリカルドは、新鮮な驚きを覚えた。
リカルドが暮らしていたヒースダインの家屋は風通しがよく、この季節なら室内とはいえ朝晩はとても冷えこむからだ。風が冷たいとか、突然気づくことはなかった。
冷えた手で眼鏡の押し上げると、うっとうしくなっても切れない黒髪がサラリと耳の横にこぼれ落ちた。重い瞼が被さる黒目を細めて、冷えた外気を肺に吸い込む。
「いつまでそこに立っているつもりですか?」
耳元で静かに響いた声に、リカルドは大きく体を揺らした。こわばった肩に置かれた手のひらは、手袋越しでも分かるほど硬くて大きい。リカルドの貧相な肩など、ひと握りで砕いてしまいそうだ。
「……失礼しました」
窓を閉めかけた手に、もう片方の手が重なる。硬くて筋張った、武人の手。いや元武人の手だろう……なぜなら彼は。
「離してください」
言葉の抵抗なんて、この人の前では何も意味を持たない。分かっているのに、今日も拒絶の言葉を吐き出してしまう。
リカルドの反抗的な態度に、男の口元に柔和な笑みをたたえた。
「可愛げのない口ですね」
「……んっ……」
噛みつくようなキスからは、怯えしか生まれない。こうした情熱的な行動は、常に甘やかな感情から生まれるとは限らない。少なくともリカルドにとってこの男――マクシミリアン・ピアース宰相は、捕食者のそれだった。
恐怖から無意識に逃げを打つと、あっさりと離された。温情ではない。いつでも食らい尽くせる余裕があるだけだ。
「唇が青いから心配しましたよ。熱はないようですね」
柔らかに波打つ栗色の髪に、少し垂れた淡い色合のやさしげな瞳。甘やかな外見だが、中身は底知れない恐ろしさを感じる。実際ウェストリン国王の右腕として、様々なことをしてきたようだ。そしておそろしく剣の腕も立つと聞く。
要するにピアースは、これまでリカルドが出会った中でも、群を抜いてアンバランスな人間だった。
リカルドは自分の意思で、ピアースの使用人にしてもらった。自分自身が信用できないから、なにか間違いが起こったときに力づくでねじ伏せてくれる人が必要だと思った。
十二のとき医師だった父親についてヒースダインの後宮に入ってからずっと、自分はどこか欠落している人間だと感じていた。父親が地下の部屋で繰り返す実験について、なんの感情も動かなかったのだから。
そんなリカルドだが、一年前ウェストリンで新たな生を受けた。過去の自分は命を落としたことになり、あらたに『リカルド』としての人生が始まった。
だがヒースダインの宮廷医師として生きた過去は、一瞬たりとも忘れたことはない。忘れないことが、医師とは名ばかりの行為を繰り返してきた自分に課せられた、最低限の義務だと思っていた。
(あとは宰相殿に仕えるだけだ)
リカルドの名を与えたのは、ピアース宰相だった。はじめてその名を呼ばれたときの会話が脳裏によぎる。
『リカルド、ですか』
『ええ。私の親友の名です』
そんな大事な名前にふさわしくない、そう思った矢先。
『元、親友ですけどね。裏切られて、危うく寝首をかかれるところでしたよ』
――その言葉に、血の気が引いた。
『まあやられる前に、始末しましたので。もうその名は、あなただけのものですよ』
ピアースのやさしげな口調が、恐怖をいっそう駆り立てる。リカルドは目の前の優男が、恐ろしくてしかたなかった。だから彼のそばにいようと決めた。
今後リカルドが再び道を踏み外そうとしたら、その前に始末してくれるだろう。他力本願になってしまうのも、自分が欠落人間だから。ヒースダインでの自分の二の舞になりたくなかった。
そうしてピアース付きの使用人として過ごすうち、いつしか主の視線に情欲の色を感じるようになった。
しかしリカルドは、それだけは応じられない理由があった。
「……ご気分は?」
「特に問題ありませんよ。多少の唾液くらい、毒慣れした私には効きませんから」
リカルドの体はヒースダインの蠱毒に侵されている。唾液からも毒が滲み出ているため、本来なら指で触れるのも危険なはずだ。
また蠱毒といっても、ヒースダインの宮廷医師たちが作り出した、いわば『まがいもの』だ。本物は過去の文献の中でしか残ってない。
作り方は想像に絶するえげつなさで、リカルドがはじめてそれを目撃したとき、しばらく食事が喉を通らなかった。
実際に投与する瞬間は、さらなるえげつなさがあった。だが父親に付いて繰り返しその様子をながめているうちに、慣れて何も感じなくなった。
やがて父が病死し、後を継いでから初めて任されたのがエンシオ王子だった。
(マリオンは、そろそろ医務室へ向かってるころか……)
すっかり体調を回復させた元王子は、マリオンとしてガイヤ医師の解毒剤開発に協力している。しかしさいきんでは、新しい看護師として周知されつつあった。丁寧な対応と、どこか気品のある物腰が、男女問わず人気らしい。
「……誰のことを考えていたのです?」
「……ぐっ……」
顎をつかまれたリカルドは、顔を引き上げられて眉を寄せた。甘い微笑にそぐわない冷ややかな双眸に、手にしたリネンの布を浴室の床に落としてしまう。
ピアースは床から拾い上げた布で、洗ったばかりの顔を乱暴に拭くと、リカルドをその場にねじ伏せた。
「解毒の時間ですよ」
「やめっ……一人で、やりますからっ……」
ピアースは片手で簡単に相手を床に押さえつけたまま、洗面台に用意されていた小瓶を取り上げた。
リカルドは床に片頬をつけたまま、その様子を見て歯噛みする。最初からこうするつもりだったのだと、なぜ浴室に入ったときに気づかなかったのだろう。だが気づいたとして、すでにこの部屋に入ってしまった自分は逃げる術はない。
けっきょくは、ピアースの言いなりになるしかないのだ。
ピアースは、歯で瓶の封を開けると、中身をリカルドの口に無理やり流し込んだ。甘苦い薬品の味が口中に広がって、喉の奥へと吸い込まれていく。
「は、はなしてくださ……一人で」
「いけませんよ。吐いたもので窒息でもしたら大変ですからね」
いっそのこと窒息して、最悪命を落としても惜しくなかった。もうマリオンは元気になって、別の人生を歩んでいる。それを見届けたのだから、思い残すことはないはずだ。
「……勝手なことは許しませんよ。あなたは私のものなのでしょう?」
耳元で響く甘い声音は、まるで悪魔の誘惑のようにリカルドの胸に響いた。
リカルドが暮らしていたヒースダインの家屋は風通しがよく、この季節なら室内とはいえ朝晩はとても冷えこむからだ。風が冷たいとか、突然気づくことはなかった。
冷えた手で眼鏡の押し上げると、うっとうしくなっても切れない黒髪がサラリと耳の横にこぼれ落ちた。重い瞼が被さる黒目を細めて、冷えた外気を肺に吸い込む。
「いつまでそこに立っているつもりですか?」
耳元で静かに響いた声に、リカルドは大きく体を揺らした。こわばった肩に置かれた手のひらは、手袋越しでも分かるほど硬くて大きい。リカルドの貧相な肩など、ひと握りで砕いてしまいそうだ。
「……失礼しました」
窓を閉めかけた手に、もう片方の手が重なる。硬くて筋張った、武人の手。いや元武人の手だろう……なぜなら彼は。
「離してください」
言葉の抵抗なんて、この人の前では何も意味を持たない。分かっているのに、今日も拒絶の言葉を吐き出してしまう。
リカルドの反抗的な態度に、男の口元に柔和な笑みをたたえた。
「可愛げのない口ですね」
「……んっ……」
噛みつくようなキスからは、怯えしか生まれない。こうした情熱的な行動は、常に甘やかな感情から生まれるとは限らない。少なくともリカルドにとってこの男――マクシミリアン・ピアース宰相は、捕食者のそれだった。
恐怖から無意識に逃げを打つと、あっさりと離された。温情ではない。いつでも食らい尽くせる余裕があるだけだ。
「唇が青いから心配しましたよ。熱はないようですね」
柔らかに波打つ栗色の髪に、少し垂れた淡い色合のやさしげな瞳。甘やかな外見だが、中身は底知れない恐ろしさを感じる。実際ウェストリン国王の右腕として、様々なことをしてきたようだ。そしておそろしく剣の腕も立つと聞く。
要するにピアースは、これまでリカルドが出会った中でも、群を抜いてアンバランスな人間だった。
リカルドは自分の意思で、ピアースの使用人にしてもらった。自分自身が信用できないから、なにか間違いが起こったときに力づくでねじ伏せてくれる人が必要だと思った。
十二のとき医師だった父親についてヒースダインの後宮に入ってからずっと、自分はどこか欠落している人間だと感じていた。父親が地下の部屋で繰り返す実験について、なんの感情も動かなかったのだから。
そんなリカルドだが、一年前ウェストリンで新たな生を受けた。過去の自分は命を落としたことになり、あらたに『リカルド』としての人生が始まった。
だがヒースダインの宮廷医師として生きた過去は、一瞬たりとも忘れたことはない。忘れないことが、医師とは名ばかりの行為を繰り返してきた自分に課せられた、最低限の義務だと思っていた。
(あとは宰相殿に仕えるだけだ)
リカルドの名を与えたのは、ピアース宰相だった。はじめてその名を呼ばれたときの会話が脳裏によぎる。
『リカルド、ですか』
『ええ。私の親友の名です』
そんな大事な名前にふさわしくない、そう思った矢先。
『元、親友ですけどね。裏切られて、危うく寝首をかかれるところでしたよ』
――その言葉に、血の気が引いた。
『まあやられる前に、始末しましたので。もうその名は、あなただけのものですよ』
ピアースのやさしげな口調が、恐怖をいっそう駆り立てる。リカルドは目の前の優男が、恐ろしくてしかたなかった。だから彼のそばにいようと決めた。
今後リカルドが再び道を踏み外そうとしたら、その前に始末してくれるだろう。他力本願になってしまうのも、自分が欠落人間だから。ヒースダインでの自分の二の舞になりたくなかった。
そうしてピアース付きの使用人として過ごすうち、いつしか主の視線に情欲の色を感じるようになった。
しかしリカルドは、それだけは応じられない理由があった。
「……ご気分は?」
「特に問題ありませんよ。多少の唾液くらい、毒慣れした私には効きませんから」
リカルドの体はヒースダインの蠱毒に侵されている。唾液からも毒が滲み出ているため、本来なら指で触れるのも危険なはずだ。
また蠱毒といっても、ヒースダインの宮廷医師たちが作り出した、いわば『まがいもの』だ。本物は過去の文献の中でしか残ってない。
作り方は想像に絶するえげつなさで、リカルドがはじめてそれを目撃したとき、しばらく食事が喉を通らなかった。
実際に投与する瞬間は、さらなるえげつなさがあった。だが父親に付いて繰り返しその様子をながめているうちに、慣れて何も感じなくなった。
やがて父が病死し、後を継いでから初めて任されたのがエンシオ王子だった。
(マリオンは、そろそろ医務室へ向かってるころか……)
すっかり体調を回復させた元王子は、マリオンとしてガイヤ医師の解毒剤開発に協力している。しかしさいきんでは、新しい看護師として周知されつつあった。丁寧な対応と、どこか気品のある物腰が、男女問わず人気らしい。
「……誰のことを考えていたのです?」
「……ぐっ……」
顎をつかまれたリカルドは、顔を引き上げられて眉を寄せた。甘い微笑にそぐわない冷ややかな双眸に、手にしたリネンの布を浴室の床に落としてしまう。
ピアースは床から拾い上げた布で、洗ったばかりの顔を乱暴に拭くと、リカルドをその場にねじ伏せた。
「解毒の時間ですよ」
「やめっ……一人で、やりますからっ……」
ピアースは片手で簡単に相手を床に押さえつけたまま、洗面台に用意されていた小瓶を取り上げた。
リカルドは床に片頬をつけたまま、その様子を見て歯噛みする。最初からこうするつもりだったのだと、なぜ浴室に入ったときに気づかなかったのだろう。だが気づいたとして、すでにこの部屋に入ってしまった自分は逃げる術はない。
けっきょくは、ピアースの言いなりになるしかないのだ。
ピアースは、歯で瓶の封を開けると、中身をリカルドの口に無理やり流し込んだ。甘苦い薬品の味が口中に広がって、喉の奥へと吸い込まれていく。
「は、はなしてくださ……一人で」
「いけませんよ。吐いたもので窒息でもしたら大変ですからね」
いっそのこと窒息して、最悪命を落としても惜しくなかった。もうマリオンは元気になって、別の人生を歩んでいる。それを見届けたのだから、思い残すことはないはずだ。
「……勝手なことは許しませんよ。あなたは私のものなのでしょう?」
耳元で響く甘い声音は、まるで悪魔の誘惑のようにリカルドの胸に響いた。
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